第六話 皇女フィレーネ、騎士団長アリア
謁見から数日後の夜、俺は城壁の上にいた。
二つ月が雲に隠れた暗い夜で、見張り台の松明だけが頼りない光を落としていた。
遠く城下の灯りを眺めながら、俺はいつものように一人でいた。
足音が聞こえたのは、三つ鐘を過ぎた頃だった。
今日は二人分の足音。
一人は軽い。もう一人は、重い。
「……こんな時間に何の用ですか、殿下」
振り返らずに言った。護衛の騎士の重い鎧の音じゃない。
「気配で分かるのですか?」
「仕事柄」
振り返ると、薄いネグリジェ姿の皇女の隣にアリアが立っていた。
黒い鎧姿のまま、腕を組んでこちらを見ている。
その目に、疲労と呆れが混ざり合っていた。
「守護者よ」とアリアが言った。
「殿下を止めてくれ。私の言うことを聞いてくれないのだ」
「アリアったら大げさです」
フィレーネは悪びれる様子もなく、城壁の縁に近づいて身を乗り出し、塀の上によじ登ってしまった。
「わあ」
思わず、という感じの声だった。
「こんな景色があったのですね。城の中からでは絶対に見えないわ!」
「殿下!危のうございます!」とアリアが鋭く言った。
「大丈夫ですよ、落ちません」
「いや、どう考えても落ちます!危ないです!」
「落ちたら守護者様が助けてくれますよ!あははは!」
……なんだこれは。
数日前の謁見で会った皇女殿下と同一人物とは思えない。
こちらが本当の彼女なのだろうか。俺は面食らってしまった。
その姿は、かつての元気だったさくらを一層強く思い出させた。
アリアが俺を見た。
助けを求める目だった。
「……殿下、お願いですから少し下がってください、おい守護者、お前からも言ってやってくれ」
フィレーネは城壁から大きく身を乗り出して、城下を見下ろしながら言った。
「守護者様はお休みにはなられないのですか?お腹が空いたりなど、されてませんか?」
「俺はこの世界に来てから、食事も睡眠も摂る必要がなくなったようです」
「まあ…それは、お辛くはありませんか?」
「……」
俺は少し黙った。
「ねえ、守護者様」
フィレーネが言った。
さっきまでの好奇心に満ちた声とは、少し違った。
「私ね、前線に出てみたいと思っているのです」
アリアが困り果てた体で「殿下……」と低く言った。
フィレーネは構わず続けた。
「だってアリアも、守護者様も、魔物と戦っているでしょう?私は宮殿の中でただ待っているだけなんて」
「……殿下の役目は別にあります」とアリアが言った。
「それはわかっています。言ってみただけです」
「古竜の炎は熱かったですよ、殿下」
アリアが口を開いた。
「一つ聞いていいか、守護者」
「なんだ?」
「お前はあの古竜と対峙して、恐ろしくはなかったのか」
皇女が、静かにアリアを見た。アリアは城下を見たまま、視線を動かさなかった。
「恐ろしくは、なかったんだ」
アリアの目が細くなった。
「……嘘をつくな」
アリアは俺の指先をじっと見つめた。
古竜との戦いを思い出してか、俺の指先は少し震えていた。
「よくわからんが俺は謎の力に守られていてな、どうやら生半可なことでは死ねないらしい。ただ痛みや苦しみは感じる……まあでもそれだけだ」
「失うものが何もない人間に、恐怖は宿らない」
アリアは黙って聞いていた。
フィレーネも黙って聞いていた。
松明の炎が、風に揺れた。
俺は城下の灯りを眺めた。
稽古の帰り道によく見た、さくらがバイトしていたコンビニの灯りを思い出す。
俺は続けた。
「誤解を恐れずに言えば、俺という存在は、もう死んでいるんです」
「帰る場所もなく、失うものもない。ただ守るための機構」
「だから、強い。だから、何も怖くはない」
アリアはしばらく黙っていたが、口を開いた。
「古竜を、殺せたはずだ」
静かな声だった。
責めているわけではなかった。
ただ、どうしても確かめなければならない問いを、絞り出すように言っていた。
「殺さなかったな。なぜだ」
風が吹いた。松明の炎が、揺れた。
「あの古竜は再び街を襲い、多くの人が死ぬかもしれないぞ」
「多分あいつは大丈夫……と言いたいところだが、お前のいう通りかもな……でも俺はあの時、どうしても殺したくなかったんだ」
しばらくの沈黙の後、アリアが低く言った。
「……そうか」
「野暮な質問だったな、どの道お前が来なければ、我々も城下の民も、命はなかった。お前の判断を批判する資格などない」
アリアの目が少し遠くを見る。
「お前は実際強い。我らが玄鉄盾騎士団を壊滅させた竜を素手で倒すのを見せられた……認めざるを得ない」
「……ただ、お前のことを話す言葉には少し反論したくなる」
「帰る場所がないから強い、失うものがないから強い、死んでるから強い……果たして強さとはそういうものなのだろうか」
皇女が満面の笑みを浮かべて言った。
「私には難しい事はわかりませんが」
「でもきっと、あなたは死んでなんかいません!」
俺は返す言葉が見つからなかった。
「……殿下、そろそろ夜風がお体に障ります、戻りましょう」
「はい、アリア!」
アリアは俺を見つめて言った。
「守護者よ」
「何だ?」
「また会おう。今度は晩酌でもしながらがいい」
「ああ、わかった」
「殿下も酒が飲めるのか?」
皇女は笑った。
「こう見えて、神話に登場する蛇神のごとくいける口なのです!」
アリアが踵を返し、皇女が続いた。
立ち上がり際、皇女は俺に向かって小さく頭を下げた。笑うと、前歯が少し見えた。
「それではまた、守護者様」
二人分の足音が遠ざかっていく。
俺は城下の灯りを眺めながら、二人の言葉を反芻していた。
俺は何故二人にあんな話をしたのだろう。
フィレーネにさくらの面影を見たからか。
アリアのあまりにも真っ直ぐな視線に、心が動いたのか。
答えは出なかった。
ふと西の空を見た。
なんとなく嫌な色をしている気がした。




