第四章 皇国の守護者
しばらくの間、俺は現地の住民の畑仕事や建築工事などを手伝って過ごしていた。
飢えも渇きもないこの身は、日銭を稼ぐために働く必要はなかったが、とにかく俺はそうしていた。
人恋しかったのかもしれない。
三ヶ月後、俺は守護者として最初の仕事をした。
山賊に囲まれた村だった。
三十人以上の武装した男たちが、収穫物を根こそぎ奪おうとしていた。
俺は村の入り口に立った。
ただ、立った。
「ここから先は通さない」
一時間後、山賊三十三人が縄で縛られて地面に並んでいた。
守護者の力を得てから、俺は定住しなかった。
村から村へ、街から街へ。
困っている人間がいれば手を貸した。
魔物が出れば追い払った。
理由は特になかったが、強いて言えばそれが性に合っていた。
王国第三の城塞都市カルドナの名を最初に聞いたのは、街道沿いの宿だった。
隣のテーブルで商人が青い顔をして話していた。
「古竜だ。カルドナの近くに古竜が出た」
「玄鉄盾騎士団が向かったらしいが……」
俺は席を立って、羊皮紙の地図を一瞥し、馬を駆りカルドナへと向かった。
城壁が見えてきた頃、すでに煙が上がっていた。
城門の外、焦げた地面に騎士たちが倒れている。鎧が熱で歪み、何人かは動かなかった。
生きている者は城壁内へ運び込まれていた。
城壁の上から、金髪の騎士が血相を変えてこちらを見下ろしていた。
「貴様、何者だ。民間人なら中へ入れ、今すぐ——」
「守護者だ」
「……なに?」
「竜はどこだ」
騎士は一瞬絶句して、城壁の外を指さした。
その方向を見ると、古竜は城門から二百メートルほど離れた平地に降り立ち、翼を休めていた。
俺は城内には入らず、馬を降り、焦げた地面を踏みしめて歩く。
カルドナを征服してご満悦の竜の息遣いが、熱風となって俺の顔を叩いた。
古竜の目が、俺を捉える。
ちっぽけな人間ただ一人、逃げればよいのになぜわざわざこちらに来る。
その蛮勇を嘲るように、竜は首をもたげた。
喉元が、脈打つように膨らんでいく。
ごぼり、と、何かが沸騰する音が古竜の内側から漏れた。
その何かの熱が竜の周りの視界を歪ませる、
大きく、深く、世界を吸い込むような息の音が、城壁に響いた。
城壁の上。
金髪を三つ編みにまとめた騎士団長は、左腕に包帯を巻いたまま剣を握りしめて眼下の光景を見つめていた。
アリア・ヴォルテール。
彼女の指揮下で古竜と交戦した騎士団は、先刻、竜の炎に焼かれ、半数が戦闘不能になり、アリアは負傷兵を率いて城壁内に退避していた。
このような怪物に、人間が敵う訳がない。
騎士団長として恥ずべき怯懦。だが現実には逆らえない。
なのに、たった一人の男が、徒手空拳で古竜と向き合った。
——あの炎だ。
先ほど、騎士団の前衛を一瞬で包んだ、あの色。
鎧ごと溶かし、悲鳴すら奪った、あの熱。
足が動かない。
身体が知っている。
あれを受ければ死ぬ。
だが眼下の男は、動かない。
逃げない。
ただ、立っている。
竜は灼熱の業火を吐き出した。
俺は動じなかった。
空手の基本、回し受け。
腕を円弧に動かして力を流す。
竜の炎がどれほどの熱量を持っていようと、力には方向がある。
守護者の力に守られた俺の腕が、炎の奔流を螺旋を描くように受け流した。
城壁の石が溶け、服が燃え、皮膚が灼けた。
俺はすさまじい炎熱に曝されて絶叫しそうになるのを耐えた。
どうやら守護者の力は俺の体を強靭にしてくれたが、苦痛までは消してくれないらしい。
古竜は怯んだ。炎を受け流された経験など、生涯で一度もなかったからだ。
俺は竜の懐を目掛けて走る。
超近接戦なら、竜の巨体に対して人間の小ささは多少有利だ。
懐に潜り込んでしまえば、翼も尾も思うようには使えない。
とはいえ、近づかれたとて竜。
弱いわけもない。
竜は俺の頭より大きい前足の爪を振るった。
俺はそれをすんでのところで掻い潜り、鱗に覆われた胴体を見上げた。
問題は、この鱗。
一枚一枚が鋼鉄の硬さを持つ鱗は、拳では傷一つつかない。騎士団の剣や槌すら通らなかったのだ。
俺は注視した。
鱗と鱗の重なりの間に、わずかな隙間がある。そこだけ、守られていない。
筋肉が直接、外気に触れている部分。
だが拳ではその隙間を縫えない。
…ならば、抜き手。
極限まで鍛え抜かれた俺の指先が、守護者の力に守られながら鱗の隙間に入った。
古竜の巨体が、ビクリと震えた。
もう一度。また一度。鱗の隙間を選んで、抜き手を打ち込むたびに、古竜の動きが鈍くなっていく。
内側の筋肉に蓄積するダメージが、この巨体の自由を少しずつ奪っていた。
そして、古竜の体勢が崩れた瞬間。
俺の目が、ある場所を捉えた。
喉だ。
顎の下から首にかけて、そこだけ鱗がない。
薄い皮膚の下に、太い動脈が走っているのが見えた。
脈打つたびに、皮膚が微かに膨らむ。
俺の右手は再び、命を刈り取る抜き手の形を取っていた。
格闘家としての本能がささやく。
あそこをえぐれば終わる。
一撃で終わる。
「殺すしかない」
脳裏に、鈍い音が蘇った。
コンビニの白いカウンター。
男の後頭部。
たった一度の、あの音。
俺の手が、止まった。
俺は抜き手を、掌底に切り替えた。
指先から、掌へ。殺す一撃から、制圧する一撃へ。
迷走神経反射。
痛みやストレスが引き金となって、急激な血圧・心拍数停止を起こし昏倒する現象を引き起こす。
しかしそれは人間相手ならばのこと、異世界の怪物に通じるのか?
信じるしかなかった。
皮膚と血管を突き破らないように開かれた掌底が、古竜の喉に叩き込まれた。
殺せた。誰の目にも明らかだった。
あの男の手は、竜の急所を捉えていた。
なのに、手が変わった。
抜き手から、掌底へ。
あの男は、殺さないことを選んだ。
「……なぜだ」
城壁の上で、アリアは呟いた。
静寂。
古竜の巨体が、ゆっくりと傾いだ。
膝を折るように、前肢が地面につく。首が垂れ、目が閉じた。
地響きを立てて、古竜が横たわった。
生きている。息をしている。
しばらくして、古竜の目がゆっくりと開いて俺を見た。
そのまなざしに敵意はなかった。
古竜はゆっくりと頭を持ち上げ、俺の前に静かに伏せた。
頭を、下げていた。
俺は立ち上がって、古竜の鼻先に手を置いた。
「もう街には来るなよ」
古竜は翼を広げて、山の向こうへ飛び去っていった。
城壁の上で、アリアはその全てを見ていた。
アリアの瞳が、わずかに揺れた。
殺せるはずの相手を生かした男。
彼女の胸に、何かが刺さるように疼いた。
「……自らを薪に焚べる、か」
それは、彼女自身が何年も抱えてきた問いと同じだった。
アリアは剣を鞘に収めた。視線だけが、遠ざかっていく男の背中を追っていた。




