第三章 最後の瞬間、そして神は憐れんだ
世界は、思ったより冷たかった。
履歴書の「前科の有無」という欄の前で、俺は何度もペンを握り直した。
正直に書けば落とされる。
書かなければ後で発覚する。
どちらにしても結果は同じだった。
警備会社の面接室は、やけに狭くて息苦しかった。
「桐島さん、この件について……」
担当者の視線が、履歴書の一点に釘付けになっているのが分かった。
俺は静かに言った。
「強盗から幼馴染を守りました。過剰防衛と判断されました」
担当者は眼鏡の位置を直して、ゆっくりと首を振った。
「申し訳ありませんが、弊社の規定上……」
外に出ると、五月の風が妙に空虚に感じられた。
その夜、昔の友人からメッセージが届いた。
『さくらちゃん、結婚したよ』
俺はしばらく画面を見つめていた。
不思議と何の感情もわいてこなかった。
ただ何かが、音もなく抜け落ちていくような感覚だけがあった。
幸せになったのなら、それでいい。
口の中でそう呟いたが、声になる前に消えた。
翌日、俺は目的もなく街を歩いていた。
交差点の赤信号の前で、隣に小さなお婆さんが立っていた。杖をついて、少し前傾みに立っている。
信号が青に変わった。
お婆さんはゆっくりと横断歩道を渡り始めた。
その時、右から白い自動車が信号無視のまま交差点に突っ込んできた。
ドライバーは一切減速していない。
俺の身体は車道に飛び出し、気づいた時にはお婆さんを歩道側へ突き飛ばしていた。
鈍い衝撃。
世界が、横に倒れた。
アスファルトの冷たさと、自分の血のぬるりとした感覚。
遠くでクラクションが鳴る音。
誰かの叫び声。
それらがだんだん遠くなっていく。
ああ。
「婆さん……大丈夫かな、だいぶ強く突き飛ばしてしまったが……」
そう思いながら、意識は暗闇に沈んでいった。
光の中で、声がした。
『お前という存在を、ずっと見ていた』
夢か、幻か。
俺は光の中に浮かんでいた。
身体がない。
痛みもない。
ただ、声だけがあった。
『二度、他者のために命を懸けたな。一度目は報われず、二度目は命そのものを失った。』
「……誰だ」
『名乗るほどのものでもない。ただの、気まぐれな観客だ』
声は、どこか寂しげに続けた。
『お前に問う。もし再び目の前で同じことが起きたらどうする?』
俺はしばらく考えた。考えて、それから笑った。
「…きっとまた同じ事をする」
沈黙。それから、光が一気に膨張した。
『ならば行くがよい。この守護者の力と共に、お前のあり方ごと、新しい世界へ』
意識が戻った時、俺は草の上にいた。
見上げれば、二つの月。
知らない星空。
知らない空気。
知らない世界。
そして俺の中に、何かが宿っていた。
静かに、しかし確かに脈打つ、力の気配。
さっきのはなんだったのか、神様とかそういう奴か。
まあそんなこと知ったことではないが。
俺は立ち上がりながら、少しだけ空を見上げた。
「守護者の力……か」
拳を固く握りしめ、それを見つめた。
見知らぬ世界にただ一人放り出された俺は
「悪くないな」
と呟いた。
ここから桐島蓮の第二の人生の始まりです。
長い助走となりましたが、辛抱強くお付き合いくださった方、本当にありがとうございます。
新天地で何が彼を待っているのか、今後の展開をぜひお楽しみに!




