後
会えないかわりに一目でも見たい。
そんなよこしまな気持ちから、エレンは研究室の窓際で作業することが増えた。我ながら本当に意気地がないと思う。
時々、真剣な表情で仕事に打ち込むマティアスが見える。その顔は少し痩せた気がした。
(大丈夫かしら……忙しいのは分かるけれど、ちゃんと食事は摂れてるのかしら)
そんな彼の奥から例の研究員が現れた。食堂で声をかけてきた、金髪の爆美女だ。今日の彼女は白衣姿のようだが、スタイルの良さが隠しきれていない。
美女はマティアスの肩に手を乗せ、何やら話し込んでいる。近い距離で時折耳打ちしながら話し合う姿は、とても親しげに見えた。
まただ。エレンの胸が黒くモヤモヤと濁っていく。
「彼女のこと、知りたい?」
モヤモヤと窓を見上げるエレンに声をかけてきたのは、寮長であり事務職員であるフリオだ。そういえば、先程から研究室にある備品の確認に来ていたのだった。なのにエレンときたら、彼の存在も忘れてマティアスと美女の姿に釘付けとなっていた。あまりにも情けない。
「す、すみませんフリオさん、よそ見をしてしまって。備品の確認ですよね、ええと……」
「気になるよね。あんな人が近くにいたら」
フリオは、エレンのことなど見透かしたように話し始めた。
「彼女はレベッカといって、とても優秀な研究員だよ。君達より五年先輩かな。今回マティアスが初めてチームリーダーを務めるにあたって、指導役として動いてくれているんだ。綺麗な人だし性格もハッキリしてるから勘違いされやすいけど、とてもいい奴なんだよ」
「そ、そうなんですね」
「それに、恋人もちゃんといる」
「え……」
(そうなんだ……)
ついさっきまでざわざわとしていた胸が、スっと落ち着いたのを感じた。
あんな綺麗な人、普通に考えて恋人がいてもおかしくないのに、なぜそんなこと思いもしなかったのだろう。マティアスの隣にあの人が並んでいるだけで、不安で仕方がなかった。
あからさまにホッとしたエレンを見て、フリオはゲラゲラと笑いだした。
「本当にベリントンさんは分かりやすいね。安心した?」
「あ……はい、とても」
「ちなみに、レベッカの恋人は僕」
「え!!」
慌てて口を抑えるエレンに、フリオはさらに声を上げて笑う。
「驚いた?」
「は、はい……すみません、驚いたりなんかして」
「いいんだよ。みんな同じ反応をするよ」
エレンは驚く口を抑えたままフリオを見た。銀縁のメガネに横分けの茶髪。全身灰色の服でまとめられた姿は、あまりにも存在感が薄い。誰よりも目を引くレベッカとは真逆のタイプで、そんな二人が恋人同士だなんて意外で。
「だから、僕はみんなに隠さず伝えるようにしてるんだよ。レベッカは僕の恋人です、って」
「……心配ではないですか? レベッカさんってとても綺麗な人だから」
「心配になるときも正直あるけど、レベッカのことは信じてるから大丈夫。それより、彼女のほうが――おや」
フリオは突然、話をやめた。何事かと思い、エレンも彼と一緒に耳を澄ましてみると、なにやら遠くから走ってくる足音が聞こえる。コツコツとヒールで走る足音は次第に大きくなり、やがてエレンの研究室の前で急停止をした。
「フリオ!!」
足音の主はレベッカだった。
ドアを勢いよく叩きつけた彼女の顔は険しい。そして一直線にフリオのもとへ近付くと、彼の腕をガッシリと掴んだ。
「いつまでこの子と二人きりでいるつもり!? もう行くわよ!」
「いつまでって……仕事中だったんだよ。それよりどうしたのレベッカ。この時間はマティアス君の部屋でミーティング中だったんじゃないのかい」
「窓からあなた達が見えたのよ! 仕事にしては距離が近すぎるから腹が立って……!」
「……ベリントンさん、こういうことだから」
どうやらこの二人、レベッカのほうが心配症であるらしい。その様子に呆然としていたエレンを、レベッカがぐるりと振り返った。
「エレン・ベリントン、あなたもしっかりしてちょうだい! マティアス、あなたに振られたって落ち込んでいたわよ。おかげで肝心のチームリーダーが使い物にならないわ。振るなら時期を考えてくれないかしら!」
「えっ!?」
「おまけに、人の恋人に手を出したりして――」
「僕は手を出されたりしてないよ。仕事でここに来ただけだし」
「うるさいわね! 行くわよ!」
レベッカは口を挟む間もなく一気に捲し立てると、フリオを引きずりながら去っていく。フリオは慣れた様子で小さく手を振った。
一人きりになった研究室で、しばし呆気にとられた。
嵐が過ぎ去ったようだ。
いや、そんなことより。
(マティアスが「振られた」……!? 私に? いつ?)
エレンにはまったく身に覚えがなかった。だって、マティアスのことは好きなのだ。それはもう、毎日思いを募らせてしまうほど。振るなんてとんでもない。
それでもあのレベッカの態度からは、マティアスの落ち込み具合がよく分かる。
窓を見上げた。窓際に彼の姿は無く、部屋は薄暗い。もうミーティングはお開きになってしまったのだろうか。使い物にならないマティアス、窓から見える痩せた顔――
心配でたまらなくなったエレンは、マティアスの研究室へ向かった。二階はすでに人の気配も無く、シンと静かだ。まっすぐ伸びた廊下にエレンの足音だけが響く。
(真っ暗だわ……)
一見誰もいないようだ。けれど見えた気がしたのだ、一階から見上げた窓がほんのりと光っていたのを。あれは感知式照明器の光。暗くなると光る、マティアスの魔道具だ。彼はいる。きっと一人で。
「マティアス、いる?」
研究室の扉をノックしてみたが、返事は無い。けれど扉の隙間からはほのかな明かりが漏れている。
「マティアス……」
二度、三度と呼び掛けるも返事は無く、諦めようとした時、部屋の中からもぞもぞと衣擦れの音が聞こえた。やはりここには彼がいる。エレンの声に気付いてくれたらしい。
「エレン?」
ようやく扉から顔を出したマティアスは消耗しきっていた。目の下にはクマができ、髪はボサボサで、白衣もヨレヨレのものを羽織っている。
「すまん、寝てた。エレンの声も聞こえたんだが、これは夢かと思って」
「寝てたって……この部屋で!? それは気を失っていたというのよ!」
エレンはあわてて室内に入ると、マティアスを強引に椅子へ座らせた。
初めて入ったマティアスの研究室には、魔道具が並べられた長机と、大きな本棚、ぎゅうぎゅうに詰まった素材棚、あとは簡素な椅子がいくつか置いてあるだけ。こんな場所でどのようにミーティングをしているのだろうか。とりあえず言えるのは、寝るような場所では無いということだ。
「無茶し過ぎよ、ちゃんと帰って寝ないと……」
「俺がやらなくてどうするんだよ。お前だって寝る間を削ってやってただろ」
久しぶりに会ったマティアスは、予想以上にかたくなだった。エレンが目の前にいても、頑として目を合わせてくれない。なるほど、レベッカの言っていた通り、落ち込んでいるらしい。
「……なんで来たんだよ。こんな情けねえ姿見せたくなかった」
「でも、マティアスのことが心配で――」
「お前、いつも俺のこと『すごい』って言うだろ。エレンの前では、すごい奴でいたかったのに」
マティアスは俯いたまま呟く。
「俺、浮かれてたかもしれねえ。やればなんでも出来ると思ってた。でも違った。チームで動くのは難しいし、メンバーには迷惑かけまくってる。お前のこともだよ、恋人でも無いのに、大口叩いて振り回して、最悪だろ」
「振り回されてなんか――」
(もしかして)
マティアスは、食堂でエレンが『恋人なんかじゃないのに』と逃げたことを気にしているのだろうか。
胸が痛い。なんて馬鹿だったのだろうと思わずにはいられない。迷惑をかけたくないと悩んでばかりで、彼がどう思うのか考えようともしようとしなかった。
恋人じゃなくても、確かな言葉がなくても、マティアスはただ寄り添ってくれたのに。
「マティアス、聞いて。私、振り回されたなんて思ってない」
エレンはマティアスの前へ跪いた。こんなにも傷つけておいて、今さら言葉が届いてくれるか分からない。
けれど、ちゃんと彼の顔を見て、自分の気持ちを伝えたかった。このまま、マティアスとすれ違ったままではいられなかった。
「私、マティアスがすごくなくてもいいの」
「エレン……」
「でも、できたらあなたとは恋人同士がいい」
エレンは恋人になりたいし、マティアスにもそう思っていて欲しい。なら、まず言葉にして伝えるべきだった。レベッカに嫉妬している場合じゃなかった。
エレンの言葉に顔を赤くしたマティアスは、熱い眼差しでこちらを見つめている。やっとこちらの気持ちが通じた気がして、思わず彼の手に触れた。マティアスも戸惑いつつその手を握り返してくれる。
「ごめんなさい。私、臆病過ぎた」
「……そうかよ」
「私、マティアスの恋人になりたい」
「俺はずっとそう思ってた」
跪いたエレンの唇に、マティアスの唇が触れる。
幸せだ。二人はもっと早く、こうすべきだった。
◇◇◇
「はぁ~疲れた。エレン・ベリントン、お茶くれる?」
「はい!」
「フリオの分もお願い。もうすぐ来るから」
「は、はい!」
その日、エレンの狭苦しい研究室には金髪のダイナマイト美女――レベッカが足を組み座っていた。エレンはテーブルに二人分のお茶を並べると、事務員フリオの到着を待った。
今日は前回中断した備品確認のやり直しをする予定だ。あの時はレベッカの嫉妬が原因で中断されてしまったため、今回は彼女も同席してもらうことにしたのだ。
けれど先ほどから、なんだかレベッカからの視線が痛い。頭からつま先までジロジロと観察されているようで、あまり居心地のよいものではなかった。
「レベッカさん、私に何か?」
「……あなた、見かけによらず小悪魔よね」
「え?」
「マティアスにどんな手を使ったの」
あれ以来、マティアスは人が変わったように動きが良くなったらしい。
実用化に向けての開発も終盤に差し掛かり、ようやくチームもまとまりを見せ、指導役であるレベッカの肩の荷もやっと降りたようだった。
「どんな手って、なにも……マティアスとは話をしただけですよ」
「嘘ね」
レベッカはそう断言すると、足を組んだまま、外を見ろと言わんばかりに窓を睨みつけた。
窓の外。エレンも彼女の視線を追うと、二階の窓にはまた偶然にもマティアスの横顔がある。
「わあ、偶然……」
「あれ、偶然じゃないわよ。あいつね、ああやってしょっちゅうあなたのこと見てるの」
「そ、そうだったんですか!」
「そうよ。話するだけの関係で、普通こんなに浮かれる?」
「……浮かれるんです、私達は」
試しにエレンが軽く手を振ってみると、マティアスは照れたように甘く微笑む。やはりこちらを見ていたようだ。
(なんだ……もっと早く、手を振ってみればよかった)
今度は、研究室に差し入れをしてみてもいいかもしれない。忙しさが落ち着いたら、デートに誘ってみるのもいい。なんでも、試してみればいい。
恋人となったばかりの二人は、浮かれたまま窓越しに笑い合ったのだった。