5 ヘルバウンド
「所長?」
ミユカと沙織は同時に口に出した。
「とにかく乗ってください!先輩は私とカーゴに!」
翠の指示で全員が一斉に動いた。
「隊長らしくなったじゃん。やっぱり実戦から得られる経験値って、半端ないね。」
「いや、先輩のご指導の賜物ですよ。」
桃子の言葉に翠が応えた。冗談を交えながらも目は真剣だった。
「先輩、雷電のワイヤーカートリッジとバッテリーの替えって、持って来ましたっけ?」
「確認してないけど、多分ないわ。」
「じゃあ有効な武器はもうありませんね。」
「そうね。こうなったら肉弾戦しかないわね。」
「でもあの大きいワンちゃんも多分ゾンビ犬ですよね。」
「ワンちゃんって…ほとんど牛じゃない。確かに警棒で殴っても倒せないね…」
「とりあえず所長を救出しましょうか?」
「そうだね。」
「沙織さーん、ワンちゃんの攻撃に注意しながら、所長が引きずられている側のワンちゃんの横をすれ違う形でお願いします。」
翠が運転席に座っている沙織に大声で指示した。
「簡単に言うわね。」
沙織は苦笑した。ヘルバウンドはもう目の前に迫っている。運転席の窓から右手を出し、サムアップで「了解」のサインをし、装甲車と化しているSUV『SANADA』を急発進させた。
ヘルバウンドは浴衣で視界を覆われているにもかかわらず、『SANADA』に飛びかかって来た。しかし沙織はハンドルを切り、難なく攻撃を交わし、翠の指示どおりヘルバウンドの横をすり抜けようとした。
翠はジャンプし、空中で警棒をレーザーブレイドモードに切り替え、ヘルバウンドの首を浴衣の帯ごと斬り落とそうとした。帯は見事に切断され、祐介は地面を転がった。頭を覆っていた浴衣も外れ頭部が露わになっている。しかしながら、ヘルバウンドの首を斬り落とすには警棒の刀身は短過ぎ、三分の二ほどしか斬れなかった。
それでも頭の重みでヘルバウンドの首は裂け始めている。普通の生物であれば、既に死んでいるほどの深手であるが、頭部の傷口と胴体の傷口からそれぞれ無数の糸が蠢き再生を始めている。
「沙織さん、所長をピックアップします。止まらなくて結構です。スピードを落とさず、所長の横を通り過ぎてください。」
失敗したら祐介を轢き殺すスピードであるが沙織はまた、サムアップで返した。そのままSUVは一切減速せず、祐介のすぐそばを通り過ぎようとした瞬間、桃子が片手で祐介の腕を掴み、一気に引き上げカーゴに着地させた。
「怪我はありませんか?」
祐介は何が起こったのか分からず、しばらく呆然としていたが、翠から話しかけられ、我に帰った。
女神?
それが祐介の翠に対する第一印象だった。長いまつ毛に垂れ目がちだが大きな眼、何よりも声が優しかった。祐介は昔好きだったひな姉のことを思い出した。
「大丈夫ですか?顔に血が付いてますよ。」
翠は再度聞いた。
「あ…うん…大丈夫です。」
祐介は自分の顔を触りながら蚊の鳴くような声で答えた。謎の男に殴られ鼻が折れていると思っていたが、腫れている感じもない。
「で、どうする?あのでっかいの倒せる武器はもうないよ。」
「そうですね…レーザーブレイドで先輩と両側から首を落とすというのはどうですか?」
桃子の問に翠が答えた。2人でヘルバウンドを見るとまだ再生中だったが、もともとの頭部が胴体にくっつくだけでなく、胴体の傷口からもう一つ頭が生えてこようとしていた。
「あれ無理じゃない?首が2本出来てるよ。」
「そうですね…」
「あ…あの…」
翠と桃子が悩んているところ、祐介が口を開いた。
「とりあえず研究所に避難するのはどうでしょうか?IDカードもありますし、入口横の駐車場のゲートも開けれます。」
「そうですね。一旦退却して装備を整えた方がいいですね。」
「うん。そうしよう。問題はゲートが開くまであのでっかいのをどう足止めするかだね。」
「でっかいの?ヘルバウンドのことですか?」
「ヘルバウンド?」
祐介の問いに翠と桃子が声を揃えて聞き返した。
「いや…あの…地獄の番犬みたいだなって思って…」
祐介は恥ずかしさで顔を真っ赤にして答えた。
「いいねぇ、ヘルバウンドか…うん。そう呼ぼう。」
桃子が祐介の背中を強く叩いて言った。祐介は一瞬、面食らったような表情をした。
「先輩!所長ですよ!」
「あーごめん。ごめん。」
桃子は舌を出して、祐介に謝った。誠意の欠片もない謝罪だったが、不思議と悪い気はしなかった。
ヘルバウンドに目をやると、まだ再生途中だった。新たに生えてきている頭部は完全ではないが、元の頭部は完全にくっつき、地面に顔をつけ何かを貪っている。
「何か食べてる…」
祐介が呟いた。
「さっき倒したワンちゃ…いやヘルバウンドです!」
途中言い直したとはいえ、早速『ヘルバウンド』と言えたことが誇らしかったのか、翠が祐介にドヤ顔で答えた。
「何、ドヤ顔してんのよ。」
直後に桃子にツッコまれたのは言うまでもない。
「今のうちです。研究所に逃げ込みましょう!」
翠は何事もなかったように言い放った。
「所長、駐車場へはどうやって?」
「多分…ゲートの横にあるカードリーダーにIDカードをかざせばゲートが開きます。」
翠の問いに祐介が頼りなく答えた。
「多分って…あなた所長でしょ?大丈夫なの?」
桃子が祐介に詰め寄った。
「ぼ、僕も今日来たばかりだし…でも自宅と同じゲートなんで…」
祐介は桃子に圧倒されながら、おどおどと答えた。
「とにかく、ゲートまで行きましょう。沙織さんゲートに向かってください!」
沙織が車窓から腕を出しサムアップで応えようとすると、ミユカが後部座席の車窓から顔出した。
「ゲート付近のゾンビ犬の死体を1体回収してください。調べたいことがあります。」
「了解しました!沙織さんヘルバウンドいや、ゾンビ犬の死体の横を減速せずに通過してください!お願いします!」
ミユカの依頼に翠が応え、沙織が車窓から出したままの右手をサムアップした。
SUVはゲートに向かって加速した。途中、ヘルバウンドの死体の横を通過する際、桃子が祐介をピックアップした要領で片手で死体を掴み引き上げた。
その瞬間、先ほどまで死体を貪っていたヘルバウンドがSUVに突進し始めた。エサを横取りされたと思ったのだろうか?
ゲートはすぐそこだが、ゲートを開ける操作が必要であるし、開くまでのタイムラグを考えるとヘルバウンドの追跡を逃れるまでギリギリの時間しかない。
「所長、IDカードを桃子先輩に。先輩がカードリーダーの操作をしている間、私が囮になります。多分ヘルバウンドは死体を取り戻しに向かってるはずです。私が死体を持って気をひきます。」
「翠ちゃん…」
翠の作戦に対し、桃子が口を挟もうとした。有効な武器が無い以上、スーサイドミッションである。だが、自分達の最優先任務は所長の安全と思い直し、言葉を飲み込み、翠をハグした。
「死ぬんじゃないよ。」
「はい。」
まもなくして、SUVがゲートの前に停車した。すぐさま、桃子が飛び降りカードをリーダーにかざした。
同時に翠が反対側に飛び降り死体を持って、走った。ヘルバウンドは翠の読みどおり、死体を持った翠に飛びかかった。ただ読みが違ったのはヘルバウンドの動きが明らかに速くなっていることだった。翠は振り向く間もなく、ヘルバウンドの前足で背中を押さえつけられ、地面に伏した。持っていた死体はSUVの方に転がったが、ヘルバウンドは見向きもせず、前足を翠の背中から離すことなく、そのまま踏みつけている。
バギボキボキ
骨が砕ける音がして、翠は声一つあげずに口から血を吐いた。
「翠ちゃん!」
桃子はカードリーダーから手を離し叫んだ。ゲートは開き始めている。
「このクソ犬が!」
桃子はヘルバウンドに向かって走り出した。
ヘルバウンドはもともとの頭部の口を大きく開き牙を剥き出しにした。翠の頭を食べようとしているのだろう。しかし、桃子の所からは間に合いそうもない。万事休す。
「わぁー!」
その時、叫び声と同時に何かがヘルバウンドの頭に当たり、ヘルバウンドの動きが止まった。ヘルバウンドは何かが飛んできた方を向いた。
ヘルバウンドの視線の先にはカーゴから降り、震えながらヘルバウンドを睨んでいる祐介の姿があった。