クララの夫
「クララ=バートンなどという女性はここにはいないな」
突然訪ねて来た、ウォレス=バートンと名乗る男にトビーはそう答えた。
彼はクララの夫だと告げ、そして彼女に会わせろと言う。
穏やかな物腰で礼儀正しくはあるが、外面は良くても影で妻に暴力を振るい虐待をする男は五万といる。
トビーは警戒心を気取られぬよう注意しながら相手の出方を窺った。
ウォレスというその男は診療所のフロントヤードのシンボルツリーである欅を見上げ、つぶやくように言った。
「彼女が……クララがここにいたと、精霊が告げているのです」
「……は?」
初対面の人間に対し失礼な反応が出てしまった事にトビーは内心ほぞを噛むが、この男が突拍子もない事を言ったのだから仕方ないとも思う。
───いや、突拍子がないわけではない。
話に聞いた事がある。魔力を持たないにも関わらず、生まれつき特定の精霊に好かれる人間がいると。
そしてその者の事を“精霊憑き”と呼ぶのだと。
そういえば以前、かなり昔に見習い騎士にその“精霊憑き”がいると聞いた覚えがあるような……
まだ子どもで、確か孤児で、そしてそう、ふ…「私はその場にいる精霊の声を、しかも植物に宿る精霊の声を聞く事しか出来ませんがこの欅に宿る精霊がここにクララがいた事を教えてくれました」
思考の最中にそれを遮るように告げた男の言葉にトビーは内心頷いた。
やはりそうか。
この男、話に聞いたかつての見習い騎士に違いない。
将来はかなり特殊な任務に就く事になるだろうと当時の教官役の騎士が言っていたが……。
それに成人するまで保てばいいのだが、とも。
───生き残っていたんだな。
「……今、精霊が告げたのですが、クララがここを去ったとは本当ですか?」
そう言ったウォレスの顔をトビーはじっと見つめ、そして答えた。
「その答えも精霊が教えてくれるんじゃないのか」
「この木に宿る精霊は、この木の前で起きた事しかわかりません。トランクを持つクララが馬車に乗ってどこかへと行き、それきり戻らない。精霊の記憶にはそうあります」
「……とりあえず、中に入ろう」
診療所の玄関先で男二人、突っ立っていても仕方ないとトビーはウォレスを中へ促した。
「その椅子にかけたまえ」
応接室に入るなり、トビーはウォレスに言った。
「失礼します」
勧めた椅子に座るウォレスを一瞥してトビーはお茶の支度を始めた。
そして煎れ終わったお茶を差し出す。
「あまり上手くは煎れられんのだが。口汚しになったらすまない」
「いえ、いただきます」
そう言ってウォレスはお茶を口に含んだ。
「旨いです」
「いや」
そう答え、トビーもお茶を飲む。
やはり大して旨くはない。
クララが煎れたお茶はとてもよい香りが立って美味しかったのに。
同じ茶葉、そして同じ茶器で煎れたとは思えない。
クララの夫であるなら、この男もクララが煎れた茶をいつも飲んでいたのだろう。
今、きっと同じような事を考えているとトビーは思った。
ここにいない彼女の事を。
「クララの……ここでの暮らしはどうでしたか……?」
そのかけられた言葉にトビーは茶器から目の前の男に視線を戻す。
「……とても良くやってくれていたよ。手間を惜しまず、力を惜しまず。この町の者の治療を懸命に行ってくれた」
「そうですか……ここを去ったのは私が探していると知ったからですか」
「逆に聞きたい。なぜキミは彼女を探している?上からそうしろと命令されたのか?」
「違います」
「では己の出世のためか?」
「そうではありません、出世など……どうでもいい」
「しかし彼女は……詳しくは知らんが、夫に裏切られていたから逃げたと、そう言っていた」
「っ………!」
それを否定しようとしたのか、それとも肯定か、それによる言い訳をしようとしたのかは分からないが、何かを告げようとしたウォレスが急に口元を覆い、沈黙した。
痛みに耐えてるようなその様子にトビーはハッとした。
「……何も喋らなくていい、ただ、舌を見せてくれ」
ウォレスは静かに口を開き、トビーの眼前に己の舌を晒した。
その舌に刻まれた魔法印を確認し、トビーは目を伏せた。
「もういい。わかった」
間違いない。誓約魔法だ。
ウォレスの舌には誓約魔法が掛けられている。
任務や騎士団に関わる機密や情報、それにまつわる全てを外部に漏らさないようにするためだ。
もし誓約魔法に抵触する事柄を話そうとすれば、軽度の制裁では舌を灼かれ、明かそうとした内容によれば即座に死を与えられる。
残酷で恐ろしい、もはや呪いに近い魔法、それが誓約魔法であった。
───どういう事だ。それではクララが言っていた裏切りというのは、任務に関わる事なのか?
しかしどのみちそれを知る方法はない。
筆談だろうがジェスチャーや目配せだろうが、魔法は一切の誓約違反を許さない。
仕方ない、とトビーはウォレスに告げる。
「キミが語れないように、私も彼女の居場所は語れない。クララを逃がしたのは他ならぬ私なのでね」
「そこをなんとかっ……お願いします、妻がどこにいるのか教えてはいただけないでしょうか。心配なんです、女性一人で辺境の地を回っているなどと……」
ウォレスは椅子から立ち上がり頭を下げた。
「キミたち夫婦に何があったのか私は知らない。だけど彼女に会って、キミはどうするつもりだ?何も話せないキミが会ったところで余計に溝が深まるばかりなのではないのか?それにより、またクララが傷つく事になるかもしれない」
「わかっています、だけど……クララに会いたいのです。彼女を取り戻したい……」
必死になって懇願する目の前の男を見て、トビーは思った。
クララが言っていた裏切り、それは恐らく不義不貞、そういった類のものだろう。
まぁたとえそうではなく、他の理由だったとしても、この男が本当にそんな事をしたのだろうか?
騎士としての礼節や年上の者に対する礼儀も弁えている。
そこまでして知りたい情報を目の前にして、彼のような男なら幾らでもそれを引き出す事は可能なはずだ。
精神的や肉体的に、相手に苦痛を与えて従わせればいい。
実際に任務ではそうしているはずだ。
だがこの男はそれを是とはせず、こうして頭を下げている。
トビーはかつての記憶の中に残っていた、ある可能性を視野に入れてその上でウォレスに言った。
「すまないが私はクララの味方だ。彼女がそれを望んでいない限り、私の口から教える事はできない。どうしても彼女を取り戻したいとそう思っているなら、自分の足を動かして探す事だ。そうやって必死になって辿り着いた先にクララがいて、そんなキミの姿を彼女が見て初めて、何か通ずるものもあるのかもしれないぞ」
ウォレスは黙ってトビーの話を聞いていた。
その瞳の中にある憐憫に同情しなくもないが、どうしても妻を取り戻したいというならば足掻いて足掻いて、足掻きまくればいい。
やがてウォレスはトビーの意思が覆らない事を察したのか、また深々と頭を下げた。
「わかりました、そうします。ではせめて、彼女が元気でいるのか、ここでどんな暮らしをしていたのかをお聞かせ願えませんか?」
「いいだろう」
それを拒む理由はない。
トビーはここで暮らしていたクララの事を色々と話してやった。
ウォレスはただ黙って、その話を聞いていた。
そして彼は診療所を去る時にこう言った。
「クララに良くして頂き、本当にありがとうございました」
また頭を下げ、立ち去って行くウォレスの背中をトビーは黙って見送る。
これから彼は任務をこなしながら、一方では出ていった妻を探し続けるのだろう。
クララにはひとつの場所に長く留まってはいけないと話してある。
姉の所で落ち着いて生活していると聞くが彼女はきっと、そろそろ他へ移るのだろう。
次の場所は恐らく姉が紹介するはずだ。
だがそうやって転々と拠点を移す生活をして行けば、やがてトビーにもクララの消息を掴む事は難しくなってくる。
それまでにあのウォレスという夫が彼女を探しあてられるのか、それが気にかかるトビーであった。
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ストックが無くなったので一日一更新となります