その手の温かさを忘れない
アルファのHOT ランキング四位になっていたのが嬉しくて、夜の分を早めに更新。
告知とは違う更新になってごめんなさい。
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「俺の部下が出て行った妻を探しているんだ。長距離馬車に乗ったまでは足取りが掴めて、国の東側に向かった事が予想されるんだが……」
───え?
「その妻は医療魔術師なんだ。トビーさん、流しで治療をやっている若い娘とか最近そんな医師が勤め出したとか、何か噂を聞いてないか?」
───どういう事?
国境付近の巡察の際に立ち寄ったらしいトビー医師の古い知り合いという騎士が言った言葉に、クララは驚いた。
いやでもまさか自分の事ではないだろう。
王都で他の女性とよろしくやっている夫が自分を探すわけがない。
第一クララが家を出た事すら、ウォレスはまだ知らないはずだ。
しばらく家に戻っていないウォレスがたまたま家に帰ってあの置き手紙を発見した……?
でもそれこそ出て行った事を喜びこそすれど、ああやって仲間の騎士を頼ってまでクララを探すはずがない。
クララは隣室からその騎士とトビーの会話に耳を傾けた。
トビーが騎士の質問に答える。
「……いや、そんな話は聞かないな。遠縁の娘がこの診療所で勤め出したが、当然キミが探している娘ではない」
トビーのその言葉を聞き、クララは目を見張った。
トビーはあえてクララを遠縁の娘と称した。
もしその騎士が探しているのがクララだったとして、トビーが知らないと否定したところで周辺に聞き込みをすれば直ぐにクララの存在を知られてしまうだろう。
こんな辺境の町にわざわざやって来て働き始めた若い娘の事はみな知っている。
しかしトビーの遠縁とすれば、探している者ではないと判断してくれるはずだ。
クララはトビーの機転に驚いた。
そして同時に庇ってくれた事への感謝の気持ちが湧いてくる。
トビーの言葉を受け、その騎士は言った。
「そうか……しかし、これからこの町に立ち寄る可能性もある。二十歳くらいの若い娘で、銀髪に碧眼、クララ=バートンという名だ。もしその娘がこの町に現れたらすぐに知らせて欲しい」
───っ!……
クララは思わず息を呑んだ。
その騎士が、夫が探しているのはまさしくクララであったからだ。
トビーは騎士が口にしたクララの名を聞いても、表情を変える事なく静かな声でこう答えた。
「……わかった。もしバートンを名乗る奴が来たらすぐに知らせる」
トビーはクララの事を知らせるつもりがない事がその言葉で分かった。
クララは旧姓のクレリア姓を名乗っている。
クララ=バートンと名乗ってはいない、今後も名乗るつもりもない。
それを理解した上でトビーはそう言ったのだろう。
そして騎士はトビーに再度念押しをして診療所を後にした。
クララは隣室から出てトビーに言う。
「トビー医師……あの、匿って頂きありがとうございます……ご友人でしたのに、申し訳ありません」
申しわけない気持ちでいっぱいのクララを見て、トビーは言った。
「そんな事は構わないさ。ただひとつ、教えて欲しい。どうして家出を?何か目的があっての事なのかい?」
「………いいえ、目的なんて。ただ……私を裏切っていた夫から逃げた、ただそれだけです」
クララがそう答えるとトビーは目を伏せ、そしてひと言「そうか……」とだけ呟いた。
そして次に強い眼差しを向け、クララに言う。
「さっきの男は騎士団では諜報班にいた者だ。そいつの部下となるとキミの夫もその畑の人間という事になるな」
クララは頷いた。確かにその通りだ。
ウォレスは諜報班に身を置いていると彼自身がそう言っていた。
「諜報員は情報収集と追跡のプロだ。そんな奴から逃げるのなら一つの場所に留まっていてはダメだ」
「トビーさん……」
そう言った後、トビーは急にデスクから封筒と便箋を取り出しサラサラと何かを書き出した。
そしてそれをクララに渡す。
「ここから北へ行った所にアレスという港町がある。そこに私の姉が薬師として住んでいるんだ。この手紙にキミの事を書いておいたから、今すぐここへ向かいなさい」
「トビーさん、でもこの診療所は……」
小さな町とはいえ、この唯一の診療所が町の人全ての健康を担っているのだ。
クララがいなくなればまたトビーひとりの肩に伸し掛る。
「ここの事は心配いらない。なぁにどうせ今までも一人でなんとかやってたんだ、今さらだよ。それよりもキミは自分の事を考えなさい。キミがなぜ夫から逃げなくてはならないのかは聞かないが、逃げ出さずにはいられないほどの事があったのだろう?それならば捕まってはいけない。逃げて逃げて、必ず幸せを見つけるんだ」
「トビーさんっ……」
「泣いている暇はないぞ。もしかしたらさっきの男が引き返してくるかもしれないし、キミの夫が直接探しに来るかもしれない。早く動いた方がいい」
トビーはそう言ってクララに出立を促した。
トビーの言葉に従い、クララは来た時と同じくトランクひとつを持って玄関に立つ。
支度をしてる間にトビーが呼んでくれていた貸し馬車が既に到着していた。
クララはトビーに向き直り、深々と頭を下げた。
「トビー医師、お世話になりました。そして本当にありがとうございます」
トビーは温かな優しい眼差しでクララを見つめ、こう言った。
「体に気をつけて。幸せになる事を決して諦めてはいけないよ」
そして茶封筒をクララに差し出す。
「今までの給金だ。大した額は包めなかったが、キミの今までの頑張りの分をボーナスとして色をつけておいたからね」
給金の入った封筒を受け取りながら、クララの瞳から涙が零れ出る。
「トビー医師、私、本当になんてお礼を言ったらいいかっ……」
「感謝してくれるのなら、落ち着いたらでいいからいつか顔を見せに来て欲しい。いいね?約束だよ?」
「はいっ……はい、必ずっ……いつかっ……」
最後にトビーと握手を交わし、クララは馬車に乗って町を出た。
トビーの手は温かくて大きくて分厚かった。
遠い記憶の中にある、亡き父の手とどこか似ていた。
父の手と同じように、忘れられない手がまたひとつ増えたとクララは思った。
───忘れない。トビー医師のあの温かな手を決して忘れないわ……。
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次の更新は明日の朝になる予定ですが、時間の都合がつけば少しだけでも夜に更新するかもしれません。
よろしくお願いします。