あの日から十日目
家を飛び出して十日目、クララは移動を続けていた。
あてがあるわけではない。
目的地があるわけでもない。
とりあえず遠くへ、ウォレスから離れ出来るだけ遠くへ行きたかった。
そうでないと夫への未練が断ち切れそうにないから。
とにかく出来るだけ遠くへ。
そんな思いだけで移動し続けた。
しかし当然、そんな事を続けてるだけではお金が無くなるばかりである。
独身の頃からコツコツ貯めていた貯金も心許なくなってきた。
───そろそろ仕事を見つけないと。
そう思ったクララは次に辿り着いた小さな町の役場で訊ねてみることにした。
短期間だけ雇って貰える診療所はないかと。
小さな辺境の町だ、流しであろうと何だろうと治癒魔法が使える医療魔術師は無条件で喜ばれた。
そしてすぐに町の中心にある診療所に雇われる事となった。
滞在する部屋も診療所の二階を貸して貰えて宿代もかからない。
診療所の小さなキッチンを使って自炊をすれば生活費も抑えられる。
「しばらくここで働かせて貰ってお金を貯めよう」
クララはそう思った。
診療所を1人で切り盛りしていたのは五十代後半の男性医療魔術師であった。
名前はトビー=ロワイド
数年前に妻を亡くし、一人娘も隣領の街に嫁いでおり一人で暮らしている。
───父が生きていたらこのくらいの年齢かしら。
穏やかで優しい、口数の少ないタイプであった。
こんな辺境の町に突然一人でやって来て、明らかにワケありといったクララの素性を何も聞こうとはせず、ただ医療魔術はどこで学んだか、資格はあるのかとだけを訊かれた。
クララがハイラント魔法学校だと答え、学生時代に取得した医師免許の免状を見せると、「そうか。実は私も卒業生なんだ」とだけ告げて後は何も言わなかったし訊かれなかった。
無資格でなければそれでいい、そんな言葉も付け加えられた。
そのトビーの元で働き始めて、医師として改めて学ぶ事の多さにクララは驚いた。
王都やわりと大きな地方都市では医療魔術師は得意分野によって専門が分かれていた。
熱傷治療に特化した者、内臓疾患の治療に特化した者、産術に特化した者。
それぞれが専門分野を持ち治療に当たっていたが、辺境の医師が不足している土地ではそんな事は言っていられない。
得意だろうが不得意だろうがなんでも診なければならないのだ。
独身時代は主に外傷を専門としていたクララも胃もたれを起こしたお婆さんから偏頭痛に悩まされる町長さんまであらゆる症例の患者を診た。
その分学びも多く、また傷病だけでなく心の面でも患者に寄り添うトビーにクララは尊敬の念を抱いていた。
またトビーも一人娘と同い年だというクララを娘のように可愛がってくれる。
トビーといるととても心が落ち着く。
安心できて、不思議と笑顔になれた。
知り合って間もないというのに不思議だと思っていたがクララはふと気がついた。
───あぁ、トビーさんて、ウォレスに似てるんだわ。
容姿ではなく内面が。
穏やかでもの静かな感じが、そして普段は表情筋が仕事をしていないのに時折見せるはにかんだ笑顔の雰囲気がとてもよく似ているのだ。
───思えば私は、不器用なウォレスの笑顔に惹かれたんだったわ。
彼が自分だけに向ける微笑みが好きだった。
それが何より嬉しかったのだ。
それなのに彼は別の女性にはクララが見た事もない類の笑顔を向けていた。
───あんな顔して笑うことも出来たんだ。
なんというか、ラフな感じの。女性の扱いに慣れた感じの笑みだった。
まるで別人のようだったとクララは感じた。
そしてまた、
そしてまだ、離れた夫のことを考える自分がいる。
いつかは思い出しもしない日々が来るのだろうか。
今はまだ想像もつかないそんな遠い日へ思いを馳せるクララであった。
だけどこの町での暮らしにもすっかり慣れ、もういっそここに定住するのも悪くないかと考え始めた頃、
偶然にも国境付近の巡察に訪れた騎士が古い馴染みであるというトビーと話しているのを耳にしてしまう。
「俺の部下が出て行った妻を探しているんだ。長距離馬車に乗ったまでは足取りが掴めて、国の東側に向かった事が予測されるんだが……」
───え?
「その妻は医療魔術師なんだ。トビーさん、流しで治療をやっている若い娘とか最近そんな医師が勤め出したとか、何か噂を聞いてないか?」
まさか。
いやただの偶然だろう。
その騎士が言っている部下がウォレスであるはずがない。
だって彼が、ウォレスが自分を探すわけなどないはずだから。
クララの胸の鼓動がまた激しく打ちはじめた。
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次回の更新は明日の夜になります。