あの日から一週間
夫ウォレスの不貞の現場を見たクララが夫婦として暮らしていた家を飛び出して一週間が過ぎた。
クララは出来るだけ遠くへと飛び乗った長距離馬車に揺られ、小さな町に辿り着いていた。
縁もゆかりも無い初めての土地にひとり降り立つ。
不安で心細くて堪らない気持ちになるけれど自分はもう一人なのだ。
守ってくれる頼もしい夫はもう他の女性のもの。
(戸籍上はクララが妻のままだが)
一人でも強く生きていくほかはない。
───平気。もともと一人で生きて来たのだもの。
両親はとうの昔に二人とも他界している。
きょうだいも親戚もいない、天涯孤独の身。
夫ウォレスも孤児院の出だと聞いていた。
つまらないからとあまり自分の過去を話してはくれなかったが。
「妻とは名ばかり。私は彼の事、本当は何も知らなかったのだわ」
十三の年に騎士見習い試験に合格して以来、ずっと騎士団で生きてきた事。
寝付きが悪いが寝起きはいい事。
寝癖が付きやすい髪と手先が器用な事。
そして苦手な食べものはなく、好きな食べものはクララが作る料理全てだという事。
本人の口から語られた、そんな事しか知らないのだ。
───そういえば、私とはどういった経緯でお見合いをする事になったのかしら?
当時クララは騎士団の医務室勤務だった。
十八になってすぐに、結婚相手の候補者としてウォレスと会う場を設けられた。
その時のウォレスの表情って、どんな感じだったのだろう。
クララ自身はとても緊張していたので相手の表情を確認する余裕なんてなかった。
引き合わされてすぐにウォレスの方から結婚の申し込みがあって、
無骨ながらも穏やかで優しい印象に心惹かれたクララはプロポーズを受けたのだった。
「やだ、またあの人のこと考えちゃった……」
頭から追い出したいのに。
もう忘れてしまいたいのに。
事ある毎に夫の事を思い出してしまう。
「ダメね、私」
でも仕方ないとも思う。
ウォレスと出会って結婚してこの二年近く、クララの全てが夫との生活の中にあったのだから。
だから少しずつ、少しずつでもいい。
忘れられる努力をしよう。
ウォレスと出会う前の自分に戻ってゆけばいい。
クララはそう自分の中で決着をつけ、重いトランクを抱えて宿屋へと向かった。
宿屋の帳面に“クララ=クレリア”と記名する。
クレリアはクララの旧姓だ。
離縁していないのだから本当は“クララ=バートン”なのだが、もう夫の姓は名乗れないと思った。
国を誤魔化して破綻した婚姻を維持していくのだ。
どこかで存在を知られ、この状況を把握されるのは避けた方がいいだろう。
そんなに重い罰則はないはずだが、それなりのペナルティがあるらしい。
たしか多額の罰金が課せられると聞いた事がある。
そんな大金など払えるわけがない。
いっその事夫の不貞が原因だと離縁を訴えて……とも思ったが、
過去に先輩医療魔術師の離婚騒動を目の当たりにしてそれが無駄であると知っている。
役所のお偉方は全て貴族だ。
婚姻後の夫の不貞は当たり前と捉えている者たちに、不貞ぐらいで何を騒ぐと婚姻無効願いが受理されなかったのだ。
歪んだ男性社会、とくに貴族社会の価値観を平民の医療魔術師に押し付けられて甚だ迷惑だが、これが現実なのである。
「まったく……理不尽だわ」
クララはひとつ大きなため息を吐いて、宿屋の一室へと入って行った。