老卿の最期
「バートン、いくら護衛といっても片時もワシから離れんのでは息が詰まってしまうぞ」
ある日、診察をしている時にドリトル卿が若い司祭に向かってそう言った。
正気に戻ったわけではない。
今ドリトル卿の精神だけは過去に居て、かつて接した者と目の前に居る者との区別がつかず混同しているのだ。
若い司祭と、“バートン”という人物を。
「えっと……あの、僕はバートンではありませんよ……?」
司祭が控えめにそう言うと、ドリトル卿は呆れた口調を滲ませて言った。
「なにをバカな事を言っておる。ワシがお前を側に置くようになってどのくらい時が経ったと思っているのだ」
「えっと…忘れたなぁ……なんて」
否定しても仕方ないので司祭がなんとか話を合わせるように返事する。
「何を寝ぼけた事を。お前が十三の歳にワシの元へと派遣されてもう二年だ。まったく、体ばかり大きくなり剣の腕ばかり立っても仕方ないのだぞ、中身も磨かねば」
「いやぁ……ははは……」
なぜかバートンという人物の代わりに叱られている司祭が頭をかいて誤魔化す。
クララはドリトル卿に訊ねた。
「卿はバートンさんを可愛がっておられるのですね?」
ドリトル卿は頷きながら答える。
「まあな。最初、騎士団より派遣されてきた護衛騎士たちの中にこやつがいるのを見た時は舐められたものだと腹も立ったが、大人顔負けの剣技は持つし素直で側に置いても圧を感じん。それに若い分伸び代もあるしのう」
「そうなのですね」
今の話の内容から鑑みて、どうやらバートンという人物はドリトル卿の護衛騎士で間違いないようだ。
しかもかなり歳若い。
十三で派遣されて二年経ったという話の流れだったので今のドリトル卿の中の彼は十五歳という事になる。
ドリトル卿は若い護衛に裏切られたと聞いたが、
このバートンという歳若い護衛騎士がその裏切った相手という事になるのだろうか……。
クララがドリトル卿の胸に手をかざし、心音を確認しようとしたその時、ドリトル卿が急に声のトーンを落とした。
「……それなのに奴は……ワシがこんなにも目をかけてやったというのに奴はワシを裏切りおったっ……護衛とは名ばかりっ、奴は王の犬であった!何食わぬ顔でワシの側におり、一方で片われと共に潜入捜査をしておったのだっ!そして重要な文書や記録や帳簿などを無断で持ち出し、王に渡しておったのだ!それによりワシはっ……ワシはっ……!」
徐々に感情が昂り、怒りを露わにするドリトル卿をクララは宥めた。
「卿、そのように興奮なされてはまた発作が起きますっ、どうか落ち着いてください」
「あいつはきっとワシを嘲笑っておったのだ!王の犬とも知らず呑気に側に置いていたワシをっ……うぐぅっ……!」
「ドリトル卿っ!」
ドリトル卿が突然、胸を押さえて苦しみ出した。
懸念した通り発作を引き起こしたのだ。
クララが急いで処置魔法を施すもドリトル卿の意識は混濁し、覚醒したり昏蒙したりを繰り返す。
ドリトル卿の病状はもはや心臓病の末期だ。
手術を拒み、主治医を追い出し治療をも拒んだ。
精神を患いながらもそれだけの意思を示すほど、彼は罪人として幽閉される自身の身に絶望しているのだ。
クララは医療処置による催眠魔法を掛け、ドリトル卿を眠らせた。
───もう手の施しようがないわ。今すぐ無理やり手術をしたとしても、卿は助からない。
クララは余命幾ばくもない弱りきった老人の眠る顔をじっと見つめた。
司祭には余計な詮索はしない方がよいと告げられたが、世間に公表されている一般的な情報くらいは頭に入れておきたい、そう思った。
彼に何が起こったのか、ドリトル卿の言うバートンという人物が本当に卿を裏切ったのか、クララはそれが知りたかった。
この衝動の原因は間違いなくバートンという人物のせいだ。
その人物が何者なのか、クララはそれが知りたくて堪らなかった。
ウォレスと関わりがあるという確証などどこにもない。
だけどクララはどうしてもドリトル卿の口から告げられるバートンという護衛騎士がウォレスのような気がしてならないのだ。
何かに突き動かされるように、クララは街の図書館へと向かった。
そこで過去の新聞記事や事件の記述などを読み漁る。
十年前に起きた事件の全容は、宰相の地位を利用したトアル侯爵が汚職や職権濫用の上人身売買まで行っていたというものであった。
当時宰相の右腕として仕えていたリンデン=ドリトル伯爵の元から、証拠品が流出した事により発覚したらしい。
それによりトアル侯爵は捕縛、裁判に掛けられ国に多大な損害と王を欺いた罪により処刑されたという。
ドリトル卿を始めとする宰相の右腕として不正に手を染めていた貴族たちは、痛罰刑の後それぞれ幽閉の身となった。
───その証拠を持ち出したのがバートンという人物だということか。
十年前……。
ウォレスは今、二十五歳。
ドリトル卿の言うバートンは十五歳の少年だ。
ウォレス=バートン。
ドリトル卿の元にいた歳若い護衛騎士は、彼なのかもしれない。
だけどそれをドリトル卿に確認する事はもはや不可能に近かった。
あの発作を境に卿はさらに虚ろな人形へと成り果てた。
彼の目にはもう何も映ってはいない。
現実を拒否し、己の犯した罪と向き合おうとせず死を選ぼうとしている。
卑怯……だと思うが、今の卿の状態を見ればそれこそが罰となっているのかもしれない。
クララはそう思った。
それからドリトル卿は徐々に昏睡状態に陥る回数が増えていった。
誰の目から見ても死が近いのがわかる。
教会側がドリトル卿の家族に連絡をするも、家族はとうに縁を切ったとだけ返し会いには来なかった。
卿が家族とどのような関係であったのか、クララや教会の者にはわからない。
だけど今この状況が彼の生前の行いの表れなのかもしれないと、誰も家族を責める事など出来なかった。
そしてクララがドリトル卿を診るようになってから三週間目。
彼の命の灯火は今、消え去ろうとしていた。
「ドリトル卿……」
心優しい若い司祭は静かにその時を待つ老人の、硬く乾いた枯れ木のような手を包み込む。
寝台の反対側に立つクララはドリトル卿の手首に触れ、脈を取っていた。
その時、ドリトル卿がそっと目を開ける。
「ドリトル卿っ……」
若い司祭が声を掛けると、彼は静かに司祭の方へと視線を向けた。
そして司祭本人ではない誰かに告げた。
「バートン……いや…どちらだ?……兄…か?弟、か……?ウォレ…スよお前は一体どち……ら……」
言葉の最後にひとつひとつ、言葉を吐き出してドリトル卿は息を引き取った。
時の宰相の右腕として国の中枢に立ち、それにより地位も名声も欲しいままにして来たという男の、余りにも寂しい最期であった。
ドリトル卿はこのまま教会で弔われるという。
クララは隠れるように静かに行われた葬儀に参列し、そしてこの街を出る事にした。
「クレリアさん。本当にありがとうございました。あなたがいなかったらドリトル卿はあのような安らかな最期を迎えられなかったかもしれません」
別れ際に司祭がそう礼を告げた。
クララは小さく首を振って答える。
「いいえ、私は何も。何も出来ませんでした。私が卿とお会いした時には既にあの方の命は消えようとしていましたから……私に出来たのはせいぜい静かに看取る事くらいでした」
「それでも、ドリトル卿にとっては僥倖でした。……クレリアさんはこれからどちらへ?」
この街を出ての行き先を訊ねられ、クララは司祭に言った。
「バートン孤児院のある、ノースクロウの街へ」
「バートン孤児院へ……それはまたどうして?」
「どうしても、知らなくてはならない事が見つかったんです。私は彼を、きちんと知らなくてはならない……そう思ったんです」
クララの答えに要領を得ない顔をする司祭に別れを告げ、クララは教会を後にした。
向かうは最北の街ノースクロウ。
そこにあるバートン孤児院へ。
ドリトル卿が最期に告げた言葉に突き動かされ、クララはその地へと出立した。




