流れ流れて
「そろそろここを出ていく?」
アレスで暮らし始めて五週間目、クララは意を決してナリィにここを去る事を告げた。
「はい。居場所を突き止められる前にここを去ろうと思います」
「……諜報員だというあんたの夫にかい?」
「そうです。互いの幸せのためにも、彼に捕まるわけにはいきませんから」
クララのその言葉にナリィは静かな声で訊ねた。
「腹を割って話す、という気持ちにはなれないのかい?」
「……そんな事をしても現実は変わりませんから」
彼に……ウォレスに妻以上に大切な人が出来た、その現実を目の前で突きつけられ、それ以上に言葉としても突きつけられるなんてクララには耐えられない。
離婚して彼を解放してあげられるのなら、
そんな前進的な話し合いが出来るのなら、
クララも悲しいながらもさっさと諦めて新たな人生を歩めるのだが。
この国の考え方では夫に愛人が出来たくらいでは離婚届を受理して貰えない。
一生このままではいられない事はわかっている。
でも今のクララにはまだウォレスとあの女性と向き合える勇気がないのだ。
───私ってこんな情けない性格だったのね。
早くに両親を亡くし、引き取られた辛うじて遠縁と呼べる他人同然の家でメイドのような扱いを受けながら独学で医療魔術を身につけた。
縋る思いで医療魔術師の国家試験に臨み見事合格した。
そしてその遠縁の家を出た後もがむしゃらに頑張って来たのだ。
新米の頃は隣国との小競り合いが頻発していて、戦場に派遣されて命の危機に晒されながらも騎士たちの治療に明け暮れた。
様々な苦渋や辛酸を舐めてきた為に同じ年頃の娘たちとは違い、少々の事では動じない精神を培ってきたと思っていたのだが……。
───それでも耐えられなくて逃げ出したくなるくらい、ウォレスは私にとって特別な人なんだわ。
だから今はまだ彼に捕まりたくはない。
今までどんな事も逃げずに頑張ってきた、でも今回の事だけは心が強くなれるまで時間が欲しい。
アレスの海を眺めながらその考えに至り、そしてナリィにここを去る事を告げたのだった。
ナリィはクララの目をじっと見据えて言った。
「以前話した事を覚えているかい?あんたには後悔して欲しくない。生きた人間とは幾らでも向き合う事が出来ると言った事を」
「はい。もちろん覚えています」
「それでもここを去り、旦那から逃げ続けるというんだね?」
「ナリィさんの仰りたい事はわかっているつもりです。でもどうしても私はまだ、彼の顔を見て冷静でいられる気がしないのです」
「………発狂したっていいじゃないか。自分の感情を晒け出してブン殴ってやればいいのさ」
「それをする気力がまだ湧かないのです……」
そう言って目を伏せるクララをナリィは見つめた。
長いまつ毛が影を作る、その憂いに満ちた顔を見てナリィはひとつため息を吐いた。
「まったく仕方ない子だね。私が言った事を心の片隅に置いといてくれるなら、気が済むまで逃げりゃいいさ。その代わり、いつか心が凪いだら必ず旦那と決着を付けるんだよ?そしてここでまた一緒に暮らそうじゃないか」
「ナリィさん……」
「それともう一つ。次の行き先は私が紹介した所にしとくれ。その後移る先がどうなるかなんて分からないけど、必ずマメに手紙を寄越すこと。いいね?」
「はい、……はい。ナリィさん、ありがとうございます……」
「まったく、世話の焼ける娘が出来た気持ちだよ」
「ナリィさん……大好きです。今までお世話になりました。本当に、本当にありがとうございました」
クララがナリィにそう告げると二人はどちらからともなく抱き合った。
この温もりも決して忘れない。
いつか必ずまた会いにくると、クララは心に誓った。
そうしてナリィの元を去ったクララの身にはじつに様々な事が起きた。
ナリィに紹介された次の移動場所は海沿いの比較的大きな町。
そこの治療院でひと月半働かせて貰った。
院長先生(72)も奥さんである副院長先生(65)もとても良い人たちだったが、その町の町長の息子に変に気に入られ、それによりしつこく言い寄られて慌てて町を去った。
その後は山間の小さな集落。
魔術師ギルドの求人広告を見て面接を受けた。
すぐに採用されて働いていたが、虫の大きさと多さに耐えられず辞職した。
(クララは虫が大の苦手なのだ。一緒に暮らしていた時は全てウォレスが退治してくれていた)
その次は少し内陸側にある宿場町。
そこで旅人の急な病や怪我の処置をする商工会の治療所に勤めた。
しかし王国騎士団が国境付近で大規模な演習を行うために近くで野営すると知り、万が一に備えて町を離れた。
その後は同じように各地を点々としながら短期や臨時の仕事をして生計を立ててきた。
そしてあとひと月で家を出て半年になろうかという頃に辺境の村へと流れ着いたのであった。
クララが医療魔術師と知るや否や村の役人に少しの期間でもいいから村民の治療にあたってほしいと懇願された。
なんでもこの村唯一の医師(50代女性)がぎっくり腰になり困り果てていたのだという。
クララは自分でよければと快諾し、村役場の一室を借りて治療を行った。
当然その村での患者第一号はぎっくり腰を患った医師である。
(治癒魔法により良くはなったが、ぎっくり腰は癖になるためしばらく安静にして貰う事となった)
そしてその村で過ごしてふた月。
家を出て半年が経過した頃、ぎっくり腰の医師の快癒を見届けてクララはその村を後にした。
流れ流れて。
クララは何気なく立ち寄ったその街で、とある人物と出会う事になる。




