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ナリィの追憶

日の入りの前後、

海から流れて来た霧に漁村全体が包まれるそんな天候の時、ナリィの姿は必ず浜辺に在る。


船乗りだった彼女の夫。

悪天候の海に放り出された仲間を救うために命を失ったという。


そのもう戻るはずのない夫を、ずっと待ち続けているかのように彼女は浜辺に立つのだ。

本当に帰ってくると信じているわけではない。


海で亡くなった者は海から流れてくる霧と共に魂が戻ってくるというこの地の迷信に倣い、浜辺に立って亡き夫を偲んでいるのだ。


クララがナリィと暮らし始めて三週間、そうやって浜辺に立つ彼女を二度目撃した。


一度目は何をするでもなくただずっと水平線の向こうを見つめていた。


そして二度目に目撃した時は歌を口遊(くちずさ)みながら涙を流していた。


その姿を見て、クララは胸が締め付けられるような思いがしたのだ。


ナリィは今も夫を愛している。


彼女の心は今も、夫への想いで溢れているのだ。


海に向かって流すナリィの涙を見て、いつしかクララも共に泣いていた。


立場も状況も違えどクララにはナリィの気持ちが痛いほどわかる。


会いたいのに会えない。

こんなに想いが溢れているのに届かない。

届ける先がない。


切なくて悲しい、暮れゆく霧の浜辺にはそんな悲しみが溢れていた。




その日の夜。

ナリィが亡き夫との馴れ初めを話してくれた。


食後、今日はお茶ではなく地酒にしようとナリィが提案してきて、クララもそれに頷いた。


この地方で古くから醸造されている伝統的な酒だ。

グラスに注がれたその琥珀色の液体を見つめながら、ナリィはまるで古い物語を紐解くように話し出した。


ナリィが夫と出会ったのは彼女が薬師として働き出してすぐの事だったという。

当時大きな貿易会社の薬師として勤めていたナリィの医務室に腹痛のために薬を貰いに来た船員がいた。


腹痛の原因に心当たりはあるかとナリィが訊ねると、彼は豪快に笑いながら三日前に自分で作った食事が勿体ないからと食べて、食あたりを起こしたのだと言ったそうだ。


傷んだものを食べて腹痛を起こしたくせに食材が無駄にならなくて良かったと笑うその船員に、ナリィは呆れつつも何故か放っとけない気持ちになった。


食あたりの薬は三日間連続で服用しなくてはならない。

症状が落ち着いてもきちんと薬を飲まなくてはならないのだ。

ナリィは今日から三日間、毎日薬を取りに来るようにその船員に言った。


そして彼は言われた通りに次の日も医務室に薬を取りに来た。

その時ナリィは今日の分の薬と一緒に手製の弁当を差し出したという。

受け取った弁当箱を見て目を丸くする船員にナリィは言った。


「治りきる前に、また腐ったものでも食べられたら敵いませんからね。どうせ自分用に毎日作るんです、良かったら召し上がってください」


手製の弁当を渡して少し気恥しかったのもある。

つっけんどんにそう告げるナリィに、彼は大きく破顔して感謝の気持ちを伝えてきたそうだ。


その時に「どうせなら一緒に食いませんか?二人で食べた方が絶対旨いに決まっている」と船員が言い、押されるがまま中庭で並んで弁当を食べたらしい。


結局それが三日間続き、もう薬を取りに来る必要がなかったにも関わらず彼は医務室を訪れたという。


大きなその手には不釣り合いな可憐で小さな花のブーケを持って。


そして彼は言った。


「今夜から仕事で海に出る。次に戻るのはひと月後だ。ひと月後にまたここに来るから、その時までに俺と所帯を持ってもいいか考えていて欲しい」


「それって……」


まるでプロポーズのような事を言うと思った瞬間、彼の方から「これはプロポーズだぞ」と言われたそうだ。


急な展開とまさかのプロポーズに呆然としているナリィの手にそっとブーケを握らせて、船員は大きく破顔して去って行ったという。


それからひと月の間、ナリィはプロポーズを受けるかどうか考えに考え抜いたそうだ。

そうしてようやく出した答えと共に、ナリィは船員の帰りを待った。


しかし彼はひと月経っても戻っては来なかった。


彼が乗り込んだ船は予定通り港に戻って来たというのに、彼だけがそれに乗っていなかったのだという。


ナリィとプロポーズの答えだけが宙ぶらりんになって、港にぽつんと残されたような気がした。


何故彼は戻ってこないのだろう。


渡った先で何かあったのだろうか。


それともナリィにプロポーズをした事を、早まったと後悔して戻って来なくなった……?


ナリィの脳裏に、弁当を美味しそうに食べる彼の姿が浮かんだ。

船上での話や東方の国の話を聞かせてくれる声が浮かんだ。


たった三日間しか接しなかったにも関わらず、彼の存在はナリィの中でどんどん大きくなってくる。


それに気付いた時には、ナリィは彼に恋をしていた。

それなのにその肝心な彼は戻らない。

もう戻って来ないのかもしれない。


「……なんかだんだん腹が立ってきた!」


勝手にプロポーズして、勝手に答えを聞く期限を作ったくせに戻らないとはどういう了見だ!


プロポーズを撤回したいなら、堂々とナリィの前に現れてそう言えばいいのだ!


それをコソコソと雲隠れしやがってぇぇ……!


もしいつか会えたなら必ずぶん殴ってやる!


ナリィは怒りと漲る闘志で拳を強く握りしめた。

そんな彼女の名を呼ぶ声がする。


「ナリィさん」


「はいぃっ!?なんでしょうかあっ!?」


怒りのあまりついそんな口調になって振り向くとそこには……



「!!??」



「ナリィさん、帰ってくるのが遅くなってすまない」


とそう言って今度は彼の両手でも抱えきれないほど大きな花束を抱えた船員の姿があった。


「……あんた、戻ってきたの?……いつ?」


あんなに怒り狂っていたナリィの心は彼の顔を見るなり自然と凪いでいた。

大きくて綺麗な花束を見て毒気を抜かれたのもあるだろう。


「たった今。すまない、トラブルに巻き込まれて怪我をして俺だけ船に乗れなかったんだ。次の船に乗れるまで二週間、向こうで足止めを食らっちまった」


なんでも一対多数での喧嘩の加勢に加わって、運悪く相手を庇ってナイフで切りつけられたらしい。

もちろん彼が加勢したのは一対多数の(いち)の方である。


出会うきっかけとなった腹痛の原因にも呆れたが、戻って来れなかった原因にも呆れるしかない。


開いた口が塞がらないナリィに船員は訊ねたという。


「約束を違えておいてこんな事を訊くのもなんなんだが……プロポーズの答えを聞かせて貰うという約束はまだ有効だろうか……?」


大きな体で、まるで子犬のような目をして見つめてくるその姿に、ナリィは思わず吹き出した。


元より答えはとうの昔に出ているのだ。


「ひとつ、約束してくれるなら答えを聞かせてあげるよ」


「な、なんだっ?、なんでも言ってくれ!必ず約束を守ると約束する!」


約束の約束とは何なんだと思いつつもナリィは彼に言った。


「私の夫になるのなら、もう二度と無茶でバカな事はしないと約束して。そして私よりも一日でもいいから長生きして。それを約束してくれるなら……」


ナリィのその言葉に、船員は大きく目を見開いた。


「ナリィさん、それって……!」


ナリィは彼に頷いて見せた。


「あんたのプロポーズを受けるよ。私を船乗りの妻って奴にしてください」


「ナリィっ!!」


「きゃあっ!?」


感極まった彼に花束ごと抱きしめられたナリィ。


花びらにまみれながら潰れた花が可哀想だと彼に怒ったのは、もう40年も前の話だという。



ナリィはグラスを傾け、琥珀色の液体を一気に煽った。


「結局あの人は約束を守ってはくれなかった。無茶はしないと約束したのに、仲間を助けるために命を落とした。まぁあの人らしいと言えばそうなんだけどね」


「ナリィさん……」


クララにはナリィにかける気の利いた言葉が見つからなかった。


夫を亡くした悲しみは今も彼女の中に在り続けるのだ。

陳腐な慰めの言葉など、必要としてはいないだろう。


今のクララと同じように。



───出会い、か……。



クララにも出会いはあった。



夫であるウォレスとの出会いが。






───────────────────────



次回、二人の馴れ初め。


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