幻の街
あるところに幻の街があった。幻の街にはあらゆるものが存在した。人が幸福に暮らすために必要なあらゆるものだ。優しい両親、可愛い弟、親友、気さくなクラスメイト。
ある朝、彼女は目を覚まし、もう自分が大丈夫なのだということを確認した。彼女は階段を降り、朝食の準備をしている母親とテーブルについて新聞を読んでいる父親に「おはよう」と呼びかけた。母と父は優しい目で彼女を見つめ「おはよう」と言葉を返した。弟が寝ぼけ眼を擦りながら彼女の後ろから現れた。
「あのね、お母さん、お父さん、ゆうき。聞いてほしい」
「なぁに?」
母親が首を傾げた。
「もうね、大丈夫」
「え?」
父親が訊き返した。
「わたしはもう大丈夫」
彼女はもう一度言った。
「そう」
父と母は目を閉じた。弟がそっと彼女の手を握る。彼女はそっとその手を振りほどき、三人に微笑みかける。幻の街に存在する彼女の家族もまた彼女に微笑みかける。
「紗季」
母が小さく手を振り「行ってらっしゃい」と言った。
「うん」
彼女は頷き、玄関のドアを開けた。外に出る。暖かな日差しと新鮮な空気が彼女を迎える。小学校の制服に身を包んだ彼女が、通学路を歩きだす。彼女の背後で、四人で暮らしたあの広く暖かな家が、埃に塗れた虚ろな沈黙を帯びた家へと変わっていく。
母親の微笑みと弟の手のぬくもりを胸に秘めて彼女は力強い足取りで歩きだす。父はいつもそばにいる。小学校。校舎に入り、下駄箱で外履きから上履きへと履き替える。階段を登り、教室のドアを開ける。クラスメイト達が彼女を待っている。次々に歓迎の言葉をあげる。
「みんな聞いて」
彼女は言う。
クラスメイト達が一斉に口を閉じる。
「わたしね、もう大丈夫だから」
彼らの視線が一瞬にして、冷たく、乾いたものへと変じる。
「おまえのことなんかほんとは好きじゃなかった」
「ブス」
「気持ち悪い」
幻の街には決して存在しないはずの言葉が彼女を覆う。
濁流のような言葉たちが彼女の耳から流れ込み、つららのような視線が彼女の目と体を刺す。
彼女は痛みを覚えたが、そのなつかしい痛みを確かに体の中に受け入れた。
「ほんとうに大丈夫なんだね?」
やがて、彼女の親友がぽつりと言った。
彼女は頷いた。悪罵が止んだ。冷たい目たちが一度閉じられ、さみしさが顔つきに顕れた。
そして躊躇いがちな拍手と祝福が彼女を包んだ。
「がんばって!」
クラスメイト達が言った。
大きく頷いた彼女は手を振って教室を出た。階段を駆け下りた。靴を履き替え校舎から飛び出した。彼女の背後で、砂で出来た城が波に浚われていくように、小学校の校舎が光の中に溶け、霞んでいった。
太陽が熱と光を失い、街の建物が風化してほどけていく。
とても静かに、穏やかに、彼女の愛した幻の街が朽ち滅びていく。
彼女は、耳を塞いでいた両手を外し、目を開け、顔をあげた。
そこにあったのはあらゆる幸福の失せた不完全な冷たい世界。
闇と痛みに満ちていて不条理で、歪。
人が幸福に生きていくために必要不可欠なものがことごとく欠けている。
楽園だった幻の街とは比べ物にならない、野蛮ですらある原始的な世界。
彼女は子供用の小さなベッドから立ち上がり、ドアノブに手を掛けた。息が苦しかった。鼓動が早い。もしもこのドアを開けてしまえば、もう二度と幻の街へと帰ることができないことが彼女にはわかっていた。わたしは大丈夫、呪文のように唱える。後悔が彼女の小さな体を貫いた。
それでも彼女は、全身の力を込めてノブを回し、幻の街から一歩、外へと踏み出した。
カレーの香辛料の匂いと「外なるもの」の優しい声。
そして目の眩むような真新しいあたたかな光が彼女を待っていた。
「街の音」に捧ぐ。