幻の街
あるところに幻の街があった。幻の街にはあらゆるものが存在した。人が幸福に暮らすために必要なあらゆるものだ。優しい両親、可愛い弟、親友、気さくなクラスメイト。今日も彼女はほがらかな教師に教わってしっかりと勉強して、放課後になるとクラスメイト達と街へ繰り出して公園に店を出しているクレープを頼んでクリームのたっぷり入ったそれに齧りついた。とても甘くておいしい。日が暮れるまで遊んで家に帰り、母親に出迎えられて大きな声で「ただいま!」と言う。母親が微笑む。「おかえり」彼女は母の胸の中に飛び込む。「あらあら」母は困りながら彼女の頭を撫で「帰ったら手を洗いなさい」と窘める。はあい、と返事をして洗面台に向かう。鏡を見ないようにしながら彼女が石鹸をよく泡立てて手を洗っていると玄関がかちゃんと開いて父親が帰ってきた。うれしくなった彼女は洗面所を飛び出していき父親に抱き着いて「おかえり」と言う。「ただいま」父親は言ったあとで、彼女の手がまだ泡まみれなことに気づいて自分のスーツに白い泡がたくさんついていることに気づき、とほほと情けない息を吐き出す。
「ごはんが出来たわ、食べましょう」
母親が言う。それを聞いた弟が二階からとてとてと足音を立てて降りてきた。
香辛料の効いたカレーの匂いが漂ってくる。カレーは彼女の大好物だ。
二杯もおかわりして満腹になった彼女はすっかりねむくなってしまって、椅子に座ったままうとうととし始めたのだけれど母親が「おやすみの前にお風呂に入って歯を磨きなさい」というのでぐっと力を込めて目を開けていた。あんまりに眠そうだったので母親は「仕方ないわね、お風呂は明日の朝にしましょ」と言い、彼女は歯を磨いたあと布団に入ってすぐに眠りに落ちた。
そして嫌な夢を見た。この幻の街の出来事がすべて偽りで小学校には彼女に嫌悪の視線を向ける同級生の女の子たちとそれを素知らぬ振りをする先生がいて、その理由は赤川くんという女子によくモテる男の子の告白を彼女が袖にしたからだ。父と母の仲は険悪で一緒には暮らしていなかった。弟は母親の方へと引き取られて滅多に会うことは許されていなかった。天使のように可愛かった弟の、目が、会うたびに荒んでいくことに敏い彼女は気づいていた。その理由を訊き出すことは恐ろしくて決してできなかった。父親の酒量が段々と増えていった。酔っていても声を荒げたり暴力を振るったりすることはなかったけれど、どことなく寂しそうで時折泣きそうな顔になる父の姿は彼女の心に影を落としていった。
彼女には学校にも、家にも、居場所がなかった。
そんな夢だった。
彼女は真夜中に飛び起きて泣き出した。
母親がすぐにやってきて彼女を優しく抱きしめ、「どうしたの? なにがあったの?」と穏やかな声で訊き出そうとした。彼女は事情をうまく話すことができずに泣き続けていた。声に出してしまえばこの幻の街の完全な幸福が音を立てて壊れていく気がしたからだ。
彼女は泣き続け、優しい母親は、般若のような顔をして怒鳴り散らして食器を叩き割り父を追い詰めることのない母親は、彼女の髪をそっと撫で続けた。
あるとき、幻の街に「外なるもの」がやってきた。
外なるものは「こんにちは」と無神経な声で言い、土足で彼女の領域に踏み入った。
「あなたは誰?」
彼女は震える声で言った。
彼女にはわかっていた。これは彼女の安息を侵すものだ。
この豊かで平和な幻の街を壊すものだ。
「〇〇ちゃん、こんにちは、お父さんの同僚の××と言います」
帰って。帰って帰って。帰って。
パパ。ママ。この人に出ていくように言って!
彼女は振り返ったが、父親も母親も虚ろな表情をして外なる者を見ているだけだった。
弟の顔は死人のように青い。否、あれは私の顔だ。と彼女は気づいた。唇に触れる。息が苦しい。
「あのね、〇〇ちゃん、今日はちょっとお話があるの。聞いてくれる?」
外なるものは幻の街を破壊する呪文を唱えはじめた。——お父さん――再婚――大丈夫――少しずつ慣れていけば――なにもこわくない。彼女にはその言葉の意味はまったく理解できなかったが、それが幻の街を壊すための邪悪で破滅的な呪文だということはよくわかった。
彼女は手元にあったものを手当たり次第に外なるものに投げつけた。
外なるものは飛んでくる目覚まし時計やぬいぐるみを手で受け止めながら――そうね、急だったものね。ごめんなさい。また来ます。と、言い幻の街から出ていった。
外なるものが出ていったあと、彼女は幻の街を修復しようと必死になった。
幻の街がある。幻の街にはあらゆるものが存在する。人が幸福に暮らすために必要なあらゆるものが。優しい両親、可愛い弟、親友、気さくなクラスメイト。今日も彼女はほがらかな教師に教わってしっかりと勉強して、放課後になるとクラスメイト達と街へ繰り出して、公園に店を出しているクレープを頼んでクリームのたっぷり入ったそれに齧りつく。それはとても甘くておいしい。日が暮れるまで遊んで家に帰り、母親に出迎えられて大きな声で「ただいま!」と言う。
彼女は気づく。クレープに味がしない。「ただいま」と叫んでも母が返事をしてくれない。四人で暮らしたあの広く暖かな家は埃にまみれ虚ろな沈黙が彷徨っていた。クラスメイトの目に生気はなくお腹を押すと話し出す人形のように機械的な言葉を吐き出すだけ。灯りという灯りが消え、太陽でさえ隠され、闇が幻の街が覆っていた。楽園だった幻の街は外なるものによって無惨にも踏み荒らされてしまった。
彼女は耳を塞ぎ、目を閉じ、頭を抱えて、小さな子供用のベッドの上で一人、幻の街を立て直し始めた。けれどその作業はうまくいかなかった。
外なるものが作り置いていったカレーの香辛料の匂いが、いつまでもいつまでも幻の街を蝕み続けていた。