第二章 1 黄泉
登場人物
氷上千鶴 右手に五獣をやどした少女。
江島周防 スサノオ。《地》の力をやどしている。千鶴とともに、冥界へ旅立つ。
夢から醒めたような感覚があった。
いや、現実から夢に落ちたのか……。
「ここは……?」
なにもない荒涼とした平地だった。いや、坂になっている。しかしどういうわけか、下っているのか、上っているのかわからない。
周防は、意識をしっかりたもとうとした。
そうだ、ここが黄泉比良坂だ。あの世へ続いているという坂……それでは、まだここは黄泉の国ではないのだろうか?
周囲に人影はない。
千鶴もいなければ、這い出てきた餓鬼もいない。
とにかく周防は、歩くことを選んだ。というより、それしかやることがない。どちらに進むべきかわからなかったが、周防は足を動かした。
すると、なにもなかったはずの風景に、一本の木があらわれた。
「桃?」
周防の知識においては、桃の木だった。大きな実もたくさんなっている。
「食べろってことか?」
しかし本当に口にしたら、ろくなことにはならない。これまでの経験上、そうにきまっている。
「そうか……」
ここが本当に黄泉比良坂だとしたら、神話で有名な一節がある。イザナギとイザナミの物語だ。
振り返ってはいけない、という約束を破り、イザナギは醜く変わり果てたイザナミを見てしまった。怒り狂ったイザナミは、逃げるイザナキを追いかけた。この坂を通過するとき、イザナキは桃の実を投げて抵抗したという。
「……」
そのことを思い出してしまったら、そのままにはしておけなかった。
イヤな予感を抱きながらも、桃を一つもいでみた。それだけでは、とくになにもおこらなかった。
きっと、食べてみたら後悔することになる──そう思えば思うほど、食べてみたくなるのは人間の性だろうか?
なんだか、喉が渇いてきた。
「ダメだ……これも、幻術だ」
周防は、前進を再開した。
桃も捨てていこうとしたが、そのまま持っていくことにした。なにかの役に立つかもしれない。
* * *
よく知っている街並みだった。
うちの近所に似ている……しかしそれでいて、はじめて訪れた場所だ。
千鶴は自分の置かれた状況が、しばらく理解できなかった。
ここは、どこ?
「そうか……」
だんだんと思い出してきた。
自分は、地閃のなかに飛び込んだのだ。
すると、ここは──。
「あの世……」
そうは思えなかった。ここには、いつもの日常がある……。
街のなかに、しかし人影はなかった。
まるで、自分一人だけの世界だ……。
周防の姿はない。はぐれてしまったようだ。ムクムクを呼び出そうと右手をかかげたが、反応がなかった。右手が軽い。あのときと同じだった。
スピンクスとの戦い──。
術をかけられて、異世界に飛ばされた。そこでも、右手の力が封じられていた。つまり、ここは本当に冥界なのだ。
いや……。
右手の親指だけに、重さを感じた。
テン蔵だけは呼び出せるようだ。たぶん、《地》の力を有しているからだ。
だがいまは、その必要はない。千鶴は、だれもいない街を歩きはじめた。
しばらく歩いても、だれの姿も見なかった。
これからどうしよう……そう思案しているときに、地を震わせる振動が伝わってきた。
「なに?」
どうやら大きな騒音をまき散らしながら、なにかが近寄っているようだ。
千鶴は、むかってくる方角に眼をやった。
巨大なタイヤをつけている装甲車のような乗り物だった。ただしタイヤは一輪だけしかない。しいて呼ぶなら、一輪戦車だ。
「なんなの?」
一瞬、とるべき行動がわからなくなった。
道幅いっぱいに、一輪戦車が疾走してくる。
そのとき、身体が宙に浮いた。
「そんなところでつっ立ていると危ないですよ、お嬢さん」
それは、見知らぬ男性だった。
年齢は、三十歳ぐらいだろうか?
こんなカッコイイ先生がいたら好きになるだろうな、と千鶴は思わず考えてしまった。戦車に轢かれたかもしれないところを、この男性に救われたようだ。
「ど、どうも……」
「あいつらは、地獄の軍人さ」
「本当にここは、あの世なんですね?」
千鶴の言葉に、男性は不思議そうな顔をする。
「そうか……きみはまだ、自分が死んだことを受け入れられないんだね」
説明が面倒なので、そういうことにしておいた。
「あの……、ほかにはだれもいないんですか?」
街があるのに、この男性しか見ていない。
「ここにはいない」
ということは、ここではないどこかにはいるのだろう。
「避難しているのさ」
「避難?」
「地獄の軍人からだよ」
地獄の軍人のことがよくわからないし、そもそも普段のあの世の生活自体が未知の知識なので、千鶴はどのような反応もとれなかった。
「いっしょに行こう。安全な場所に案内する」
千鶴は成り行き上、男性と行くことになった。
「あなたは、何者なんですか?」
単純な疑問だった。
「おれも、きみと立場は同じさ。ここに来たときは、状況が把握できなかった」
そういうことが知りたかったわけではないが、千鶴は視線で話をうながした。
「まあ、わかりやすく言えば、レジスタンスさ」
ぜんぜんわかりやすくなかった。
「きみの年齢だと、意味がわからないか」
子供あつかいされたみたいで、どこかおもしろくない感情がわきあがった。
「反乱分子。悪い言い方をすれば、テロリスト。良い呼び方をすれば、革命家かな」
どんな呼び方であろうと、この男性が悪人とは思えなかった。
「地獄の軍人と戦っているんですか?」
「戦いというほど、立派なものじゃないさ。おれたちにできることは、ちょっとした抵抗ぐらいだから」
どうやら、劣勢をしいられているようだ。たしかに、そのほうが想像はしやすいが。
「きみの名前は? なんと呼べばいい?」
「千鶴です。氷上千鶴」
「じゃあ、千鶴ちゃんでいいね?」
千鶴は、うなずいた。
「あなたは?」
「おれは、鈴宮。鈴宮京介だ」
* * *
なにもない坂を進みつづけていたが、景色に変化はなかった。さきほど取った桃を持ちながら足を動かすしかない。
いや、それは突如として現れた。
「なんだ、おまえら?」
あの亡者たちかと思ったら、見た目は人間のようだ。迷彩服に身を包んだ、まるで兵士のような男たちだった。
合計で八人。
「人間か?」
神だけがまとっている《威気》は感じないし、それ以外の不審なものもない。
「抵抗するな」
兵士の一人が、それだけを口にした。
「この桃か?」
周防は、右手にあるそれをかかげてみせた。
だが、桃には反応しなかった。
「これをとったから怒ってるんじゃないのか?」
どうやら、それはまったく関係ないようだ。
「来い」
あえて抵抗はしなかった。彼らが何者かわからなかったし、逃走したとしても逃げる場所もわからず、そもそもここでなにをすべきかも霞のなかだ。
兵士たちに連れられて、しばらく無言で歩き続けた。よくよく考えれば、ここに来てから歩きっぱなしだったが、まったく疲れる感覚がない。それは、ここがあの世で、現実世界ではないからか?
ようやく、人工的なものが眼に映った。
鉄条網に覆われ敷地のなかに、簡素な木造家屋がある。それはさながら、軍の最前線基地を連想させる。いや、彼らが本当に兵士なのだとしたら、その考察が正しいのかもしれない。
「あやしいヤツを捕まえました。レジスタンスかと思われます」
兵士の一人が、基地内にいた上官らしき人物に報告した。
「ほう」
上官は、興味深そうな視線を向けた。
ほかの兵士たちとはちがい、その男は人間ではなかった。
姿かたちは、人間のそれだ。
が、顔色が異様に白く、身体にまとう雰囲気に特別なものがふくまれている。
《威気》と呼ぶには不釣り合いだ。
だから、神というわけではないだろう。
「きさまの仲間はどこにいる?」
上官による尋問がはじまった。
「仲間?」
「とぼけるな。チョロチョロと逃げ回る鼠どもだ」
「オレは、ついさっきこっちに来たんだ。わかるわけないだろう」
「馬鹿を言うな。根の国に来たばかりの死者は、おまえのようにはしゃべれない」
そういう死者を集めて、根の国のしきたりを教育するのが、この上官の役目だという。そして教育された者は、この国の住人として静かに暮らしていくのだと、上官は説明した。
「蛭子様!」
そこに部下が入ってきて、なにやら耳うちして報告をはじめた。
「なに!?」
蛭子と呼ばれた上官は、表情を鋭くさせた。
「気吹戸主様が視察にみえる……いまのこんな現状を知られては、おれの立場が……」
どうやら、この蛭子よりも立場が上らしい。
「とにかく出迎えの準備をするのだ!」
「はっ!」
人間であろう部下たちが、うやうやしく敬礼して応える。
「この男は、どうしましょう?」
「牢にでも入れておけ」
まるで犬の処遇でも決めるように、蛭子は答えた。




