第一章 5 幻夢
江島周防と玄崎太一の二人は、出雲大社を訪れていた。
観光客でにぎわっているが、もうすぐ陽が暮れる時刻だから、じょじょに人の数は減っている。
「お参りしにきたんですか?」
太一は、素朴に問いかけた。
「神頼みはしない主義だ」
周防の返答は、不愛想なものだった。
ならば、なぜここまで来たのだろう?
「じゃあ、このまま見てまわるだけですか?」
「それ以外に、なにがある?」
あいかわらず二人の会話は、はずまない。
結局、境内に入りはしたが、拝殿に行くでもなく、周囲を見物するでもなく、二人はさまよっていた。
「ここに奉られているのは?」
「え? 大国主ですよね?」
訊かれたから太一は答えたが、腑に落ちなかった。そんなことぐらい、周防だったら知っているはずだ。周防の知識が豊富なのは、太一もわかっている。
そこで気がついた。
「ああ……周防さんにも、ゆかりがありますね」
「そうか?」
本当に知らないのか、知らないふりをしているのか……周防はそう答えた。
「大国主は、スサノオの子孫ってことになってますよね? 何世代でしたっけ?」
「六代とか、七代とか……」
ちゃんと答えたということは、やはり知っていたようだ。
「だから来たんですか?」
「そういうわけじゃない……」
そう言いはしたが、その表情を見るかぎり、図星だったようだ。
「……呼ばれたような気がしたんだ」
彼も見抜かれたことを悟ったようで、本心を語ってくれた。
「ここにですか?」
「……ああ」
「だれに──」
言いかけて、太一はやめた。それが形のあるものであるわけがない。
「……そうだとしたら、ここでなにがあるんでしょう?」
「さあな」
わかりきっていた答えだった。
だが、これまでの経験から、よからぬことがおきるのは眼に見えている。
ここには観光客も多いし、また東京でおこったような異常が再現したとしたら……。
「?」
すると、恐れていた異変が生じた。
周囲を歩く人々が、動きを止めていた。
いや、人だけではない。歩くときに靴が跳ね上げた土埃も、空中で静止している。
「どうなって……」
周防と太一の二人だけが、正常な時間に生きている。それ以外のすべては、氷結したように止まっていた。
「おれを呼んだのは、おまえか?」
周防が呼びかけた。だれに、というよりも、この光景をどこかで眺めている何者かに……それはまるで、遥か天のさきから人の世を観察している神に向けたように。
〈この地に、戦乱あり〉
静止した空間に、声が響いた。言葉は聞き取れるのだが、人のものでないことがわかる。
〈黄泉へ〉
声は続ける。
「おまえは、おれたちの敵か?」
〈われは、人の祖先なり〉
「答えになってない」
〈神の子孫ならず〉
周囲の時間が、もとにもどった。
「なんだったんですか……いまの?」
「わからんが、敵というわけではなかったようだ……いまのところは」
「これから、どうしますか?」
周防は、答えなかった。
「やっぱり、お祈りしていきますか?」
「したければ、あんたがすればいい」
「どこ行くんですか?」
歩き出した周防の背中に言葉をかけた。
「泊まるところをさがす」
仕方なしに、太一もあとに続く。
出雲市内の旅館に泊まることになった。観光案内所で紹介された一番安い宿だった。
とくにすることもなかったので、食事のあと二人は、すぐに眠った。
* * *
「どうなさるおつもりか? 国津神と接触した。ほうってはおけんでしょう」
「いや、ここで潰すのは時期尚早かと」
会話をしているのは、サラリーマン風の二人だった。どこにでもいるようなオジサンたちだ。
「なぜですか?」
「いや、それはほら、おもしろくないでしょう?」
「のんきなことだ」
「では、脅しだけかけるのはどうですか? それで、相手の力量を知るのです」
「力量なら、さきの戦いでわかっているではないですか」
「ですが、われらは見ていません」
「そうですがね……」
「なに、少し悪戯するだけですよ」
* * *
ピチャ、ピチャ。
頬に水滴が当たっていた。天井から垂れているのか?
周防は、薄く眼をあけた。
いや、これは夢だ。すぐに思った。
ピチャ、ピチャ。
それにしては、妙にリアルだ。本当に水滴が落ちているようだった。
夢? 現実?
そうか。これは幻であって、本当の出来事でもあるのだ。
何者かが幻術をかけ、それでいて水を降らせている。
周防は、このまま心と身体をゆだねようと考えた。術者の思惑をさぐるためだ。いや……その考えすら、もしかしたら操られたものかもしれない。
ピチャ、ピチャ。
周防は、幻覚のなかで起き上がった。
そこは旅館の室内ではなく、湖の上だった。
湖面に立っている。
海でもなく、沼でもなく、湖だということが、なぜだかわかる。
「ここで、なにをするつもりだ?」
周防は、術者に問いかけた。
〈ふふふ、まさかそのような言葉が来ようとは〉
「何者だ?」
〈名乗るほどでも〉
もったいぶるところが、癇に触った。
「神か?」
〈このようなことができるものに、ほかになにがある?〉
「名は?」
答えはないだろうと期待しなかったが、声は喜々として響いた。
〈淤加美〉
「オカミ? たしか、水神だったな?」
〈さて、それは奉る中つ国の民がきめること〉
「オレのことは、知ってるようだな」
〈もちろんだ、建速よ〉
スサノオは、建速須佐之男とも呼ばれることがある。
「で、これからオレをどうするつもりだ?」
〈ためすのだ〉
「ためして、どうする?」
〈とるにたらない存在であれば、そのまま無とする〉
「お眼鏡にかなったら?」
〈人となった身でそこまで考えることはない。人の動きは、すべて運命によりさだめられておる〉
「どうやらオレたちは、その運命に逆らうようにできてるらしい」
〈ならば、ここから生き延びてみよ〉
周防の周囲に、数本の水柱が立った。
天高く伸びた柱が龍と化して、周防に降りかかった。
「水龍か」
〈ふふふ、地面のない場所でどう戦う?〉
しかし、周防にうろたえた様子はない。
「ならば、剣を手にするまでだ」
周防が手をかざすと、水面から水が飛び出し、その手におさまった。
水が形をつくり、剣となる。
「アメノムラクモ」
〈叢雲とな?〉
「そうだ。オレの握った剣が、それとなる」
襲いかかってきた水龍に向かって、一閃!
大量の飛沫があがり、龍が砕けた。
〈さすがの力。このまぼろしのなかで、これだけのことができるとは〉
「どうする? まだ続けるか?」
〈くくく、よしとしよう。これよりの戦いが楽しみになったわ〉
まだ数匹いた水龍が、水にもどった。
〈最後に、褒美をくれてやろう〉
周防の身体が、水面下に沈んだ。
本当の水中のように、水が喉から鼻から体内に入ってくる。息もできない。
これは、幻か、現実か!?
「うごっ! ごぼっ!」
すぐとなりで、呻いている声がする。
太一が溺れていた。
そこで、幻術から醒めていたことがわかった。同時に、本物の水に襲われていることを知った。
部屋が水で満たされている。
周防は、泳いで窓に行き着いた。
開けようとするが、どういうわけか動かない。仕方なく、肘で叩き割った。
大量の水が、外へ流れ出る。
「な、なんだったんですか!?」
ようやく呼吸ができたようで、太一が大きく息を吸い込みながら声をしぼった。
部屋は水浸しだ。
もしかしたら、旅館中がそうなのかもしれない。
「オカミの仕業だ」
「女将? どうして、この宿の女将さんが、こんなことをすんですか!?」
虚しくなったので、周防は訂正をしなかった。
「もしかして……また神ですか?」
周防は、うなずいた。
「とにかく、いまの水攻撃は防いだわけですね。次は、どんなことをしてくるんでしょうか?」
周防にわかるわけがなかった。
が、太一の言うとおり、警戒するにこしたことはない。
そのときだった。
「なんだ!?」
地面が揺れた。
「地震ですか!?」
激しく建物が軋み、立っていられないほどの揺れだ。
「周防さん! 地面のことは専門家でしょう!?」
そんなことを言われても、周防にもどうすることもできなかった。
「う、うわ──ッ!」
太一の絶叫が鼓膜に突き刺さった。
建物が揺れに耐えられず、崩壊した。
崩れた天井が迫ってくる。
「止めろ!」
今度は、周防が叫んでいた。
太一の《重》の能力で、降りかかる災厄を静止させようとしたのだ。
だが、それも間に合わず、二人は圧し潰された……。
「!」
周防は、布団のなかにいた。
となりを見ると、太一が気持ちよさそうに寝息をたてている。
「いまのは、幻……」
幻術を解いたと思わせておいて、じつはまだかかっていたということだ。
「……」
そこで、一つの懸念が浮かんだ。
いまのこれも、幻術の一部なのではないか……と。
不毛だ。
周防は、考えることをやめた。それこそ相手の思うつぼだ。
静かに眠ることにした。