第一章 2 予兆
「どう? みんな気づいた?」
代表して、桐生玲が声をあげた。
試合が終了し、取材を終えたばかりだった。
周防にとっては、久しぶりの試合。こんなに身体を動かしたのは、いつ以来だろうか。爽やかでない汗ならば、よくかいていた。犯罪行為に手を染めたこともある。
A狩り──。
妹の復讐のために、幾人ものクズをぶちのめしてきた。それをやめることになった一つのきっかけは、いま声を発した桐生玲との出会いだった。そして、妹の面影がある氷上千鶴との邂逅。
その結果、人知を超えた戦いに巻き込まれていったのだが、それらの汗は、冷や汗だった。生きた心地のしない死闘……。
「ああ。この近くにいるな」
周防は、桐生玲に答えた。
ほかにも女性ばかり、数人いた。いずれも死闘のさなかにめぐりあった女性たちだ。
周防の言葉にうなずいたのは、桐生玲だけではなかった。いつもいっしょにいる久世桜子という女子高生と、氷上千鶴も反応をしめしていた。
周防もふくめたこの四人は、みな《鼓動》を受けている。大地ガイアより、力を授かった《洗礼者》たちだ。
「でも、襲ってくるつもりはないようだねぇ」
桐生玲の言うとおりだった。こちらを監視しても、危害をくわえるつもりはないようだ。
「ま、ほっとこう。用があるなら、じき接触してくるだろうさ」
「なんの話?」
《鼓動》を受けていない人間にとっては、意味がわからないだろう。
疑問を口にしたのは、高橋織絵という中学校教師だ。千鶴の先生で、神との戦いにも巻き込まれた女性だ。彼女の祖母と周防には、いろいろと因縁があるのだった。
「先生は、気にしなくても大丈夫です」
「千鶴ちゃん……」
織絵と千鶴の関係性も、周防はそれなりに理解している。三人で破壊と殺戮で混乱した都心に入り込んだ経験がある。
高橋織絵と、千鶴の親友二人──倉本洋子と井上早苗という名前の中学生は、《鼓動》を受けていない。いわば、普通の人間だ。神の発する《威気》を察知することなどできないはずだ。
「ねえ、みなさん!」
そのとき、声をかけてきた人物がいた。ついさきほどまで周防を取材していた女性記者だ。牧村と名乗っていた。
「写真、撮ってあげますよ。江島選手を中心に、みんなでどうですか?」
周防は反応に困ったが、一人だけ乗り気な人間がいた。
倉本洋子だ。彼女は周防のファンらしく、とても熱い視線をつねに向けてくる。
彼女は一番に、周防のとなりをゲットした。
あとの女性陣も、ゆっくりと周防の周囲に集まってくる。
「わたくしは、いやですわ」
「そんなこと言わずに」
いつも嫌悪感を隠そうともしない久世桜子も、桐生玲に説得されて、しぶしぶ並んだ。
「じゃあ、撮りますよー」
女性記者がシャッターに指をかけたところで、様子がおかしくなったことを周防は悟った。
「撮りますよー、取りますよー、命を獲りますよー」
記者は、白目をむいていた。
「だれだ?」
「だれでもよい」
しわがれた声だった。
「いまは挨拶だけじゃ。この地に忘れたものを取りにきただけ」
周防だけではなく、《洗礼者》はみな身構えていた。
「そう焦るな。おまえたちの命を取るのは、この次じゃ」
「今度は、なにを企んでるんだ?」
「人の知恵では、およびもしないこと……うっ……うう」
そこでまた、様子がおかしくなった。
「あ、ああ……なに……わたし、どうしたの……?」
乗っ取られた身体が、もとにもどったようだ。
「しゃ、写真だったわよね」
シャッターが押されたが、周防をはじめ、みんなの表情は冴えなかった。
記者と別れてから、全員で会場に隣接する公園に集まった。
「さっきの気配は、あの記者さんにとりついた霊魂だったの?」
千鶴が口火を切った。
「いや、ちがうと思う」
周防は否定する。
「べつのだれかだ」
「じゃあ、いまのは?」
「さあね。神だとは思うが、日本の神は八百万もいるんだろ? そのどれかだ」
周防は、神と人間の戦いを知っている者なら、だれでも答えられるようなことを口にした。
「テニスだけじゃなくて、頭もいいんですよね?」
千鶴が、あきらかな嫌味を言った。
「こんなこと、わかるやつなんていないだろ? キミのほうこそ、わからないのか?」
「中学生にわかるわけないでしょ?」
そういうところだけ子供を強調するところが、周防は気に食わない。
「だったら、わかるやつに訊け」
「だれに訊けっていうの!?」
言い合いをはじめたが、だれも止めようとはしなかった。
「仲がいいねぇ」
桐生玲の揶揄に、
「よくない!」
二人そろって声をあげていた。
「……わかるやつがいるだろう? そいつを呼び出せ」
それでようやく、千鶴にもわかったようだ。
彼女は右手の小指を立てた。周囲に人はいない。ここにいる人間は全員、事情をよく知っているから、隠す必要はないのだ。
「ムクムク」
小指から光が飛び出すと、宙を舞ったのちに地上へ降り立った。光は、小さな二つのものに変じていた。
二匹の動物。
〈どうしたニャ?〉
そのうちの一匹は、人語が話せる。語尾に「ニャ」をつけているが、ネコではない。ヒョウの子供だ。知恵の象徴であり、千鶴の相談役でもあるムクムクだ。
彼と対をなす妹のソワソワは、無知の象徴で、危険を察知する能力にたける。いまは公園に生えている木で爪とぎをしているので、危険はないだようだ。
「おいで」
井上早苗が呼んだら、ムクムクはその胸に飛び込んだ。
「いまのは、なんなの? 今度は、なにを企んでるの?」
千鶴が、そんなムクムクに問いかけた。
〈神族のなかでも、中枢にいる存在だニャ。参謀的な。たぶん、あれがオモイカネだと思うニャ〉
「知恵の神だな」
周防は言った。
「で、そのオモイカネは、なにをしようとしてるんだ?」
〈そこまでは、わからないニャ〉
「さっきの気配も、オモイなんとかなの?」
〈わがはいは、感じなかったニャ。ソワソワが感じていたのなら、危険なものだニャ〉
ムクムクは、千鶴にそう答えた。
ソワソワの様子はかわらない。洋子が、おいで、と呼びかけるも無視をして爪とぎを楽しんでいた。
〈とりあえずは、気にする必要はないようだニャ〉
謎の気配については、この子ヒョウの言うとおりなのだろう。
「でも、なにかをしようとしているのは事実なんだよね?」
周防も思ったことを、千鶴が質問した。
〈そうニャ。あれがオモイカネなら、またよからぬことを考えてるはずニャ。まあ、それは人間から見ればだけど……〉
最後のほうの皮肉は、どうでもいいと感じた。
〈最近のニュースで、かわったものはなかったかニャ?〉
「ニュース? わたしは観ないし」
千鶴は言った。だから、ムクムクも最近のニュースを知らないのだろう。
「ヨーロッパのほうで爆弾テロがあったよ、昨日」
言ったのは、洋子だった。だが、ムクムクの反応は薄い。
「アイドルの楠木ゆうが交際発覚」
早苗の言葉には、ネコパンチを放っていた。
「いたーい」
早苗の胸から飛び降りると、久世桜子に向かっていった。
「あら、かわいい」
今度は桜子の胸に抱かれた。
「こんなのは、どう?」
自身なさげだったが、織絵が発言した。
「島根だったか、鳥取だったかで、大規模な地盤沈下があったって……」
〈それっぽいニャ〉
「ただの地盤沈下だろ?」
周防は言葉を挟んだ。
〈地をつかさどるスサノオだとは思えないニャ。地の下は、冥界ニャ〉
「冥界?」
〈根の国。黄泉。言い方はいろいろニャ。つまり、死者の国ニャ〉
「その地盤沈下が、冥界への入口だっていうのか?」
〈かもしれないニャ。しかも島根は、出雲の国〉
「もしかして、現場へ行けって言ってる?」
〈それは、わがはいからはなんとも……〉
「わたし、学校あるし……」
最初にそう言ったのは、千鶴だった。
「わたしだってそうよ」
高橋織絵も続いた。
「わたくしも、そうですわ」
久世桜子も。
「学生は、簡単に遠出できないだろうねぇ」
「教師もよ」
桐生玲に、織絵がつけたした。
「しょうがないねえ」
玲はそうつぶやいて、周防のことを見た。
「自由がきく人間で行くしかないってことさ」
「おれか?」
「だって、あんたは無職なんだろ?」
痛いところをつかれた。
「ま、不良狩りをしてるよりは健全なんだし」
みんなの視線が集まっていた。行かなくてはならない空気が出来上がっていた。
「あたしも、つきあうからさ」
「ダメですわ! レイ姉さまがいっしょだなんて」
桜子の猛抗議がはじまった。
「どうしたもんかねぇ……」
周防一人で行くことに決まりそうだった。
「本当にむこうでなにかがあるんなら、あたしらも休日には行ってみるよ」
話し合いが終わりかけたところで、玲が思い出しように声をあげた。
「あ、ひまそうなのが、もう一人いるよ」
* * *
都内某所──ハローワーク。
パソコンの画面を食い入るように眺めている男が一人。すでに終業の時間が近づいている。ほかの利用者は帰り支度をはじめているというのに、この男はジッと動かない。
絶望が表情に浮き上がっていた。
仕事が決まらない。いままでに面接を受けること数十回。とてもではないが、正確に数える気にはなれなかった。
「もう終わりですよ」
そう声をかけられたことで、ようやく男は立ち上がった。
そのときだった!
「ふざけんなーっ! なんで、金がねえんだよ!」
叫び声をあげながら、四十歳前後の男性が侵入してきた。
その表情を見るかぎり、正気を失っている。
ポケットから、なにかを取り出した。
折り畳み式のナイフだった。
「け、警察を!」
職員のだれかが大声で叫んだ。侵入者に気づいた利用者の女性が悲鳴をあげる。
「落ち着いてください」
立ち上がっていた男が、侵入者の前に立った。
「よるなーっ!」
ナイフを振って、侵入者は男のことを威嚇する。
男は、困った顔はするものの、恐怖を感じているようではなかった。
三十をいくつか過ぎた年齢だ。髪は薄く、小太りの、お世辞にも褒められた容姿ではない。
「やめましょう。こんなことをしても、なんにもなりませんよ」
「仕事が……ないんじゃあ! 金がないんじゃあ!」
侵入者は口の端から泡を噴いて、わめきちらしている。ナイフを振り回しているが、だれかを狙っているわけではない。刃渡りも短いし、危害をくわえるつもりではないのだろう。
「自暴自棄になってはダメです。ぼくも、仕事はみつかりません。おさき真っ暗です。それでも、なんとか生きているんです」
「な、なんだとぉ!?」
「ほら、ぼくを見てください。あなたも苦しいかもしれませんが、ぼくも苦しいんです。そして苦しい境遇の人は、まだまだいっぱいいます」
冴えない男は、一歩前に出た。
「く、来るな!」
「さあ、そんなものは置いて」
「う、うるせぇ!」
ナイフを振り上げて、侵入者は男に襲いかかった。
「置いてください」
しかし小太りの男は、平然として言葉を繰り返した。
どうしたことだろう。暴漢は、動きを止めていた。振り下ろそうとしたナイフも、男の身体寸前で制止していた。
「置きますよね?」
小太りの男がそう念を押したとき、ナイフを持つ暴漢の腕に異変がおこった。
「な、なんだ……お、おも……」
まるで、金の延べ棒を手にしているかのように、ずっしりとナイフを床に置いた。いや、重さに耐えきれず、そうしてしまったような……。
「罪をつぐなって、やりなおしてください」
「な、なんだ……からだまで……」
暴漢は、立っていられなくなった。
それからすぐに、警察官が駆けつけた。
身柄を確保された侵入者は、そのときにようやく、身体の自由を取り戻した。
冴えない正義の味方の姿は、すでになかった。
「本当に、ここだった」
ハローワークを出たところで、知っている顔に会った。
「あ、江島さん……」
「どうも」
そっけない挨拶をしたのは、江島周防だった。冴えない男──玄崎太一は、何事がおきたのかと心配した。
自分に会いに来るなど、不測の事態がおこったとしか思えない。
「あの……いったい……」
「いっしょに来てもらいたい」
「え?」
「島根県だ。ヒマだよな?」
そう訊かれた。暇といわれれば、暇だった。
「で、でも……職をさがさなきゃ」
あの戦いのあと、太一は仕事をやめてしまった。ヤギと呼ばれバカにされていた会社に未練はないし、能力を手に入れたことによって自信もついた。
が、職探しは、想像よりも大変だった。ついさっき会った犯人の気持ちもよくわかる。ある程度の年齢を過ぎた人間に、世間の風は冷たい。
「こっちの用事がすんだら、好きなだけさがせばいい」
「江島くんは、若いからそんな悠長なことが言えるんだよ」
太一の知るかぎり、彼も無職のはずだ。しかし、自分よりも若く顔も整っている。太一の憧れの人である高橋織絵さんとも、いい感じなのを知っている。
最初から、もっているものがちがいすぎるんだ。
〈ごちゃごちゃ言っとらんで、言う通りにせい!〉
突然、声が聞こえた、耳ではなく、心に。
見れば、江島周防の手に櫛がのっていた。どうやら、それが関係しているらしい。
「おばあさんですか?」
織絵の祖母で、早乙女イネという。《道》の洗礼者で、あの戦いでは世話になっていた。寿命がつきて死亡したはずだが……。
「ここにあんたがいるって教えてくれたのも、ばあさんだ」
周防が言った。
「その櫛にいるんですか?」
〈細かいことは、あとで話してやる。とっととついてこい〉
こうして太一は急遽、周防とともに島根へ行くことになった。