第一章 1 日常
秋の風をようやく感じるようになってきた。今年の夏は、想像以上に長引いた。
氷上千鶴は、教室の窓から外を眺めていた。
平和な空が広がっている。
あの殺戮と破壊、人々の混乱が遠い過去のようだった。都心を襲った『天閃』により、多くの命が奪われた。
それが神による人類抹殺計画だったということを知る人間はいない。いや、千鶴自身をはじめとする、ごく少数の《洗礼者》だけが知っている。
あの死闘が嘘のように、日常が流れていく。
「氷上さん? ちゃんと聞いてる?」
少し怒ったような声をあげたのは、このクラスの副担任の高橋織絵だ。いまは、彼女の授業中なのだ。
注意をうけて、千鶴は視線を前方にもどした。
このクラスの生徒にも、犠牲者はいた。
女生徒が一人に、男子生徒が二人。
謎の天災によって亡くなったとされているが、真相はちがう。神に憑依され、命を落としたのだ。しかも男子生徒二名にいたっては、千鶴自身が手をかけた。
言い訳をするつもりはない。神に乗っ取られていたが、彼ら彼女らに恨みがあったことも事実だ。
三つの命を背負って生きていく。それが千鶴の覚悟だった。
「……」
千鶴のたった一人の肉親だった父・良蔵も、神との戦いでこの世を去った。遠いタンザニアの地で命を散らした。
しかし、つねに父が守ってくれていることを千鶴は知っている。
神との戦いは、ひとまず人間の勝利となった。あくまでも、ひとまず、なのだろうが……。
もう一度、あの戦いがあるのだろうか?
答えが出ないまま、チャイムが鳴った。
「今日はここまでです」
授業は、もう一時限残っている。短い休み時間に、親友の早苗と洋子が、千鶴の席にまでやって来た。
「なに、ぼうっとしてたの?」
洋子に言われた。三人のなかでは、お姉さん的存在だ。
「そうだった?」
千鶴は、そうとぼけてみた。洋子と早苗も、危険なめにあっている。千鶴の不思議な能力のことも知っている。ある意味、隠し事などする必要もない仲だ。
それでも、千鶴は語らなかった。
「ねえ、これから行ってみる?」
ごまかすように、そう続けた。
途端に、洋子が嬉しそうな顔になった。
「なんだ、行かないって言ってたじゃん。わたし一人で行こうと思ってた!」
今日は、アマチュアのテニス大会がひらかれていた。アマチュアの大会といえど、マニアの洋子にとっては、注目の選手が出るのだった。
「早苗は、どうする?」
「千鶴が行くんなら……」
洋子に問われて、早苗も行くことを決めたようだ。あまり乗り気でないのは、洋子のテニス熱がすごいからだろう。
こうして、三人で学校帰りに立ち寄ることにした。
アマチュアの大会だけあって、会場にいるのは、ほぼ出場者だけだった。数面あるコートすべてで試合がおこなわれている。
「あ! あっちだ」
洋子の先導で、目的の選手がいるコートへたどりついた。席のようなものはないので、立って観戦するしかないようだ。
「あなたたち……」
そんな千鶴たちに声をかけた人物がいた。
「先生!」
それは、高橋織絵だった。一人ではない。もう二人いた。
「よ!」
男勝りに挨拶したのは、妖艶で勝気な女性──桐生玲だ。
「わたくしは、こんなところに来たくはなかったのですよ」
だれに言われたわけでもないのに、そうことわりを入れたのは、可憐な花のような女性だった。久世桜子だ。これまで着物姿しか見たことはなかったが、いまは高校の制服姿だ。偏差値の高い人気のお嬢様女子校のものだった。千鶴は、はじめて桜子が高校生ということを知った。
女性三人で、テニス観戦に来たようだ。
たしか織絵と桐生玲は、学生時代からの親友だったはずだ。千鶴の父である良蔵とも大学で知り合っている。
「わたしも、おれいちゃんに誘われたから来たのよ」
遅ればせながら、織絵も言い訳を口にする。
「聞いてませんよ、先生」
千鶴にそうつっこまれて、織絵はあたふたと落ち着かなくなった。織絵が、良蔵のことをいまでも思い続けているのを知っていた。そして、べつの男性のことが少し気になっていることも……。
千鶴は、それを責めつもりはなかった。むしろ、いいことだと思っている。
「あのー、みなさんは彼の応援にいらっしゃったんですか?」
そう声をかけてきたのは、一眼レフをたずさえた女性だった。取材記者のようだ。
「そうですけど……」
代表して、織絵が答えた。
「さすがは《腐敗のサナギ》。こんなに女性人気があるなんて!」
どこか興奮したように、女性記者は言った。
熱い視線を送られた男は、おもしろくなさそうにオーミングアップをしている。
江島周防。かつて、腐敗のサナギと呼ばれた新鋭のテニスプレーヤーだった。が、突如として姿を消した。
その理由を、女性記者は知らないだろう。
千鶴は、断片的に聞いていた。
「がんばってください!」
洋子が声援を投げかける。
それに応えるほど、彼は愛想があるわけではない。
試合がはじまった。
「たぶん彼なら、1ゲームも落とさないでしょうね」
女性記者は言った。
アマチュアの大会だから、相手が弱いのだろう。そう千鶴は考えた。だが、その考えを洋子が否定した。
「この大会は弱い人もいるけど、プロをめざしてる選手も出るの。対戦相手は、たしか高校時代にインターハイで優勝しているはず」
大学のときに膝を怪我してプロを断念したそうだが、いまは完治して、今後プロ転向も考えている選手だという。
最初のサーブで、周防は相手の度肝を抜いた。
「すごい……」
思わず、千鶴も声をもらした。
疾風のようなサーブが、コートを駆け抜けた。相手は一歩どころか、指の一本も動かせなかった。
女性記者の言うとおり、試合はワンザイドゲームになった。第1セットを6-0で周防がとった。1ゲームどころではなかった。1ポイントもとられていない。
試合会場では数面のコートで同時に試合がおこなわれているが、周防の強さが会場全体を軽い混乱につつんだ。アマチュアの試合では、こういうことはそれほどめずらしくもないそうだ。だが周防の強さは、やはり異質だった。
「なんだろう?」
洋子が、なにかに気づいたようだ。
「あ、あそこ!」
「え?」
洋子の指さすさきには、人だかりができていた。一人の外国人に何人もの取り巻きがついているのだ。
「レイ・オニール!」
「だれ、それ?」
「プロテニスプレイヤーよ! 世界ランク1位の!」
洋子が、とにかく興奮していた。
千鶴は、なんとなく思い出していた。そういえば、あの天閃が降ってきた日、洋子と早苗は、レイ・オニールのサイン会に行くため、渋谷を訪れたのだった。
サーブを打とうとしていた周防も、そのレイ・オニールに注目しているようだ。
レイ・オニールを中心とした一団が、千鶴たちの近くにやって来た。
「この大会の特別ゲストなのよ」
女性記者が、そう教えてくれた。
「主催企業が彼のスポンサーについているから断れなかったんでしょうけど。ちょうど日本で試合があったことだしね」
いまのゲームでは、周防は千鶴たちから見て、コートの奥側になる。
ボールを頭上に投げた。
サーブを放つ。
相手は、やはり一歩も動けない。
しかし、そのボールはそれだけではなかった。かなりのスピンがかかっていたらしく、バウンドが大きく弾み、スピードを増しながら金網に突き刺さった。
ちょうど、レイ・オニールの眼前だった。
レイ・オニールが、笑った。
周防が挑発したのだ。
「インタビューいいですか?」
女性記者が、レイ・オニールに取材をはじめた。日本語で話しかけたが、日本語が堪能なことは有名らしく、千鶴も洋子から教えてもらったことがある。
「どうぞ」
「あの選手をどう思いますか?」
「彼の名は?」
千鶴は聞き耳をたてたが、本当に日本人のような発音だった。
「スオウ・エジマ。江島周防といいます。不敗のサナギという異名まであるんですよ」
「スオウ……おもしろい選手だ。ぜひ戦ってみたいね」
「でも、世界ランク1位のあなたと試合をすることはないでしょう?」
「それはわからない。世の中、なにがあるか……一寸先は闇さ」
普通の外国人が知らないであろう言葉でも、流暢に話していた。
試合終了を待たずに、オニールの一団は去っていった。なぜだか女性記者が、首をかしげていた。
「あそこまで日本語、うまくなったはずだけど……」
結局、記者の予想どおり、1ゲームも落とすことなく、周防の勝利となった。
「よし! 取材、取材」
オニールのことで釈然としないものを残していた女性記者だったが、気を取り直したように試合後の周防に向かっていった。
「わたしたちも、行こう」
洋子の提案をうけいれて、千鶴たち一行も周防のもとへ。
「どうしたの、千鶴?」
足を止めた千鶴に、早苗が声をかけた。
「ううん、なんでもないよ」
すぐにみんなと歩調を合わせた。
「……」
いま、だれかの視線を感じたのだ。
いや……視線というよりも、なにかの気配。この感覚には覚えがあった。
そうだ。
神だけが発することができるという《威気》だ。
それに気づいていたのは、千鶴だけではなかった。桐生玲も、久世桜子も、その表情を見れば、察知していることがわかる。
そして、女性記者からインタビューをうけている周防も、鋭い眼光を周囲にはしらせていた。