終戦の日
1945年9月2日。
日本とユナイテッド・ネイションズ(日本語通称、連合国。本文では以下UNと記載)の間に降伏文書が締結され、日本は降伏し、太平洋戦争は終結しました。
日本国内では、8月15日が終戦の日とされていますが、この日は天皇陛下が、終戦の意思を国民に伝えた日であり、この日を境に日本が武装解除をしたことは事実ですが、正式に終戦を迎えた日ではありません。
昭和天皇が渙発あらせれた終戦の詔書にはこう記されています。
「朕は帝国政府をして、米英支蘇四国に対し、その共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり」
1941年の開戦当時、既にフランスという国家は同盟国ドイツの支配下に置かれており、日本は敵と見なしていませんでした。
現在のフランス政府は1940年からイギリスに亡命していた政府が、1944年に政権を奪還したことによって成立しているものであり、戦時中、フランスは枢軸国側の勢力であった為です。
従って陛下は、アメリカ、イギリス、中国、ソ連のUN四カ国に対しての共同宣言の受諾することを国民に説明されています。
ではその共同宣言、ポツダム宣言の説明に入る前に、その前後の動きを交えて説明して行きたいと思います。
1945年6月5日にナチスドイツは降伏しました。
その日から遡る事4ヶ月前、ドイツの敗色が濃厚となったところで、ソビエト連邦のクリミア自治ソビエト社会主義共和国のヤルタ近郊にあるリヴァディア宮殿で、UN諸国によって戦後処理に関する会談が行われました。
世に言う、ヤルタ会談です。
主に話し合われたのは、ドイツのUNによる統治の詳細だったのですが、日本に関する話も行われ、次の様な協定内容になりました。
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ヤルタ協定 極東密約
ソ連、米国、英国の三大国指導者はドイツが降伏し、かつ欧州戦争が終結した後二か月または三か月を経てソ連がつぎの条件により連合国に味方して対日戦争に参加すべきことを協定した。
1)外蒙古(蒙古人民共和国)の現状は維持されること。
2)1904年の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシアの旧権利はつぎの通りに回復されること。
・樺太の南部及びこれに隣接する一切の島嶼はソ連に返還されること。
・大連商港におけるソ連の優先的利益を擁護し同港を国際化すること。またソ連の海軍基地として、旅順口の租借権を回復すること。
・東清鉄道及び大連に出口を供与する南満州鉄道はソ中合弁会社の設立によって共同で運営されること。ただしソ連の優先的利益は保障され、また中華民国は満州における完全なる主権を保有するものとする。
3)千島列島はソ連に引き渡されること。
前記の外蒙古ならびに港湾及び鉄道に関する協定は蔣介石総帥の同意を要するものとする。米大統領はスターリン元帥からの通知があれば右同意を得るための措置を執るものとする。三大国の首班はソ連の右要求が日本国の敗北した後において確実に満足させられるものであることを協定した。
ソ連は中華民国を日本国の羈絆から解放する目的をもって軍隊によりこれに援助を与えるためソ中同盟条約を中華民国国民政府と締結する用意があることを表明する。
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本文最後にある「羈絆」という単語は、「束縛し、行動を制限すること」です。
実はソ連は、真珠湾攻撃直後から対日参戦の要請をアメリカ合衆国から受けていました。
しかし、当時のソ連は日ソ中立条約を理由に断っています。
ところが戦況が変わり、この会談で日ソ間の国境を日露戦争以前の領土線に戻し、千島列島も日本に返還させると言う条件をUNが飲んだことにより、ソ連は1945年8月9日に参戦することになります。
結果、日本はソビエト連邦にも敗戦したという形になり、前述の千島列島、南樺太などに加え、択捉、国後、色丹、歯舞の北方4島も失ってしまいます。
日本政府は、北方4島はヤルタ協定の定めるところの、「千島列島」の範疇に当たらないとして、現在もロシア連邦政府に対して返還をするように抗議を続けています。