龍と悪魔とロールケーキ
「まだ、龍が空を自由に飛んでいた頃の物語」
会社勤めをしつつ作家を目指している僕が、一向に乗らない筆の慰みにネットをさまよった夜たどりついた、即興小説の「お題」だ。
「え。それって、つまりあれだよね」
いろいろと妄想空想のはかどる、とても良いお題だと思う。そこで僕は、ひさびさに会った五つ年下の妹にも、そこからどんな話を思いつくのかと振ってみたのである。
ちょうど今日のぶんのテレワークを終わりにした一人暮らしのワンルームに、学校帰りの彼女が訪ねてきたのは、作文の宿題を見てほしいからという触れ込みだった。なので話のつかみになるかと、深く考えもせずに口にしたのだが。
「中生代、ジュラ紀、白亜紀!」
しかし小さな丸テーブルの向う側に座る美少女は、ただでさえ輝いて見える瞳の輝度を全開にして、前のめりに食いついてきた。ほんのり栗色がかった長い髪がひとふさ、肩から制服の胸元にすべり落ちる。
「プテラノドンとか、ケツァルコアトルスとか!」
ああ、しまった。僕は自己の浅慮を悔いる。そうだ、いったいどこからの影響なのかは不明だが、彼女は幼いころからとにかく「恐竜」が大好きなのだった。
「でもやっぱりランフォリンクスかな!」
だから「空を飛ぶ龍」と言えば、彼女にとってはドラゴンでも龍神でもなく、太古の空を翔けた翼竜たちのことであって然るべきなのだ。
「ランフォ……リンクス……」
こうなってしまっては、しばらく止まらないだろう。僕もたしかに昔は恐竜が好きで、いっしょに図鑑を見たりしたものだけど、今となってはなんとなく聞き覚えがあるようなないようなその名前をオウム返しするしかなかった。
「お兄ちゃん知らないの? ほら、しっぽが長くて、先っぽに菱形の尾翼がついてる!」
熱っぽく語り続ける瞳にはきっと、目の前の冴えない兄ではなく、大空を舞う翼竜の姿が映っているのだ。まるで恋する乙女のようなその姿を、子供のころから見慣れていなければ、そして「兄妹」という関係性がなかったら、僕の心臓はとっくに撃ち抜かれていたことだろう。
「それが小悪魔みたいでかわいいの!」
「……小悪魔ねえ。じゃああれか、仲間意識的なやつかな」
せめて何か返さないと、なけなしの兄の威厳も地に落ちる気がしてきたので、そんな言葉を絞りだしてみたのだが。
「……ほっほう?」
急に彼女は目を細め、芝居がかった調子で腕を組んだ。
「実の妹を“小悪魔”呼ばわりするのですね」
「え!? いや、ほら、悪い意味じゃなくてあれだよ、アザトカワイイ的なやつ」
予想外の反応に、慌てて弁明する。どうやら今日は、なにもかも裏目に出る日らしい。
「……ふむ。つまり、お兄様は私が“あざとい”とおっしゃるのですね」
敬語が恐い。そして、当時三歳の彼女がその母親とともに我が家にやってきた日から十数年経つが、お兄様とか呼ばれのは初めてだ。
しかし言われてみれば「あざとい」とは、意図して異性に好かれるよう振舞うことを示す言葉だろう。目の前の妹に、そのような意図がないことは明白だった。
「いえ、失言でした! 誠に申しわけございません」
「じゃあ今日はプレミアムロールケーキで手を打とう」
こいつ……いつの間に冷蔵庫の最奥まで把握したんだ。僕は頭を下げながら、今夜の食後の愉しみに心の中でそっと別れを告げるしかなかった。
「……でもねー。わたし学校でも言われたことあるの」
と。そこで、彼女はすこし声のトーンを落として、語りだす。三年前に僕が家を出るまではずっと一緒に暮らしてきたのだから、それが妹の、本当に話したいことを口にするときの癖であることは熟知している。やはり、作文云々は口実だったようだ。
「同じクラスの、すっごく頭のいい佐藤くんがね、恐竜にもくわしくって」
そんなこちらの思惑など気にも留めず、彼女は淡々と言葉を紡ぐ。
「それで、嬉しくて最近ちょくちょく話してたらね。言われちゃったんだ。男の子の好きそうな話についてけますアピール、あざといよねーって」
──なるほど。
「その佐藤君は、女子に人気あんの?」
「え? うーん、どうだろう。お兄ちゃんとちょっと似た雰囲気の子だからなあ」
「いや、どういう意味だよ」
「万人受けはしないけど、たぶん、好きな子はすごく好きなんじゃないかなってこと」
「……はあ」
貶されたような、慰められたような、なんとも言えない気持ちになる。
「まあでも、あれだろ。おまえの恐竜話に付いてこれるのなんて、えーと誰だっけ」
「佐藤君」
「そう、その佐藤君くらいで、ほかの男子はポカーンだろ?」
僕は言葉を続けた。もし自分が好きでやっていること、たとえば小説を書くことを、金儲け目当てだろうと決めつけられたとき、どんなふうに言ってほしいだろうか。そう、考えながら。
「……うん」
「だったらあざといどころか、引かれちゃって逆効果だよな。見当違いもいいとこだ」
気にすることはない、好きなら好きでいいじゃないか。そんな、想いを込めて。
「だよね。……うん、たしかに」
──まあ、佐藤君にとってはそのさらに逆効果である可能性が高いかも知れないが。
「……もういいや。お兄ちゃんをからかってなんか元気出たし」
「からかってる自覚、あるのかよ……」
令和の空には、もうとっくに龍は飛んでいない。けれど、いま僕の目の前にいるのはやはり、いたいけな男たちの心をもてあそぶ小悪魔なのかもしれない。
そうして僕は、軽やかに玄関に向かう背中を見送りながら、苗字しか知らない佐藤少年にめいっぱいの同情と、すこしの嫉妬を抱くのだった。
「あっ、忘れてた」
急に振り向いた彼女と、目が合う。思わず視線を逸したくなるくらい眩い笑顔から発された言葉は。
「今日はありがとうお兄ちゃん。それはそうと、プレミアムロールケーキ」
右手を差し出す小悪魔、いや悪魔のような妹に、僕は観念して冷蔵庫の奥から生贄を捧げるしかなかった。