僕と夏休み
蒸し暑いある夏の日、僕は自宅のある東京から田舎へ連れてこられた。
それはほんとに突然のことだった。その日の朝、両親がやけにウキウキしていたことで勘づくべきだった。でも夜遅くまで動画を見てて寝不足気味だった僕には到底無理な話なわけで、どのみち無理やり車に乗せられてしまうことには変わりなかったかもしれない。
拉致されるように出発してから二時間ほど経ったころだろうか、代わり映えのしない灰色の道からポツポツと古くさい家へと景色が変わった。それからすぐに町並みは黄緑色の田んぼ一色になった。青と白と緑のコントラスト。都会育ちの僕にはそれは新鮮な光景で、しばらくの間眺めていたけれど、どれだけ目新しくてもずっと続けば飽きてくるわけで。
田んぼを突っ切る鉄塔の列を三回見かけた時には僕の意識はスマホに向かっていた。
「もうすぐ着くぞ」
父さんの声に顔をあげると、ちょうど温泉街へようこそと書かれた巨大な看板をすぎるところだった。
なるほど。両親がやけに浮かれていた理由がようやくわかった。温泉に入りたかったのだ。
でも僕の心にはさざ波すら起こらない。
さすかに温泉ではしゃげるほど子どもじゃないのだ。僕としてはクーラーの効いた部屋でコーラとポテチを食べながら漫画を読む方がいいんだけど。
両親の予約していた宿は大きいけれどボロボロで、歴史しか誇るようなものがないようなところだった。
従業員の作り笑顔に出迎えられる。館内は外観で予想していたよりも綺麗だった。
「ほら錦鯉が泳いでいるよ」
母さんが手を引くのでスマホの撮影をいったん止める。
「鯉ならネットでいくらでも見れるのに」
「分かってないわね。生で見るからいいんじゃない」
「よくわからないや」
僕は適当に何枚か撮った。
夕食は七時からということで先に風呂に入ることになった。ここの露天風呂は源泉かけ流しなんだぞと何故か自分のことみたいに自慢する父と一緒に浴場へ向かった。
汗でぐっしょりしていた下着を脱ぐとスッキリした。
「もう少し筋肉つけたほうがモテるぞ」
「うるさい」
大浴場には平日なこともあり人はほとんどいなかった。体を洗ってから湯船につかった。これぐらいのマナーは僕でも知っている。お湯は少し熱いくらいだった。
「こんなとこにいたのか」
先に露天風呂へ行っていた父さんが戻ってきた。
「早くこいよ。外は開放的で気持ちいいぞ」
「風呂なんてどこも変わらないよ」
「いいから行くぞ」
内湯と隔てている引き戸をあけると卵の腐った硫黄独特の臭いが湯気とともにムワっと押し寄せてきた。
「臭い」
「これの良さが分からんとはお前もまだまだ子どもだな」
さすがは加齢臭まみれの父さんは言うことが違う。大人というのは臭い物が好きらしい。
やがて大きな岩で囲まれた湯船が見えてきた。
「お湯が緑色だ」
「どうだすごいだろ」
「べつに」
父さんに背を向けて体を沈めると不思議なことにお湯が体にまとわりついてくるような感じがした。手でお湯を掬ってみるとぬるっとする。これが理由らしい。
しばらくお湯に使ったのち風呂からあがる。
「先に行ってるよ」
情けないことにのぼせてしまった父さんを脱衣場に置いて部屋に戻ると鍵は開いていた。母さんはすでに戻ってきているらしかった。遅れてきた父さんと合流してから夕食会場に向かう。
個室に入るとすでに夕食が用意されていた。
ステーキや刺身と品数が多い。かなり豪勢だ。僕たちはいただきますをしてから食事を始めた。父さんと母さんが終始楽しそうなのが印象的だった。
翌日、バイキングスタイルの朝食でお腹を膨らましたあと宿をチェックアウトした。
やれやれこれでようやく家に帰れる。
そう思う僕の肌はとてもつるつるしていた。