学生の夢
1,教養部で
いまだに慣れない都会の満員電車の通学で、進一は大学に着いた時はすっかり疲れ切っていた。もっと早く起きて、満員とはなっていない電車に乗れば良いのだが、たくさんの課題をこなすのに追われて、つい夜更かししてしまう。早起きは出来ない。憧れていた都会だが、すぐに疲れ切ってしまった。
教養部のカリキュラムはぎっしり詰まっている。三年になって工学部に進級したい進一にとって、まず教養部で必修の単位を取らなくてはならない。周囲の学生の眼は、誰もがレポートや試験には血走っていた。受験勉強も厳しかったが、大学とて遊べるところではなかった。
教養部の講堂ではだいぶ見慣れた学生も増えてきたが、常に前の席で熱心にノートを取っている二人の学生は、進一にとって鮮明に印象に残るカップルであった。意志の強そうな筋肉質の男子学生は、常に背筋がピンとしていて目立つタイプであり、隣の常に一緒に行動している真剣なまなざしの女子学生はしっかり講義をノートに書き込みをしており、しばしば講義中に質問をしていた。進級か留年かがかかっているとはいえ、極めて聴講には熱心なカップルだった事をよく覚えていた。
進一は新入生時代に講義の出欠簿が回覧された時、二人の名前をすでに見ていた。男子学生は李竜覇、女子学生は張美恵と書いてあった。名前からして、もしかすると韓国からの留学生かなと思ったが、特に話した事はなく立ち入った事も聞く気はなかった。
ある日の講義前に、李竜覇は早めに講堂に着席していた。いつも一緒にいる張美恵の姿はなかった。進一は隣の席に座って講義をする教授を待った。
「ふう、この位相数学は難しいなあ」
進一は何気なくつぶやいた、事実教養部とはいえ、数学科の学生でも手を焼いている高等数学であり、哲学とも言える。
「全くや。これでは留年者は多いやろな」
軽い関西なまりの声が隣から聞こえたので首を向けると、李竜覇がこちらに顔を向けて同じくうんざりとした口調で話しかけていた。意志の強そうな目が疲れもあったのだろうか、心もち曇ってもいた事も、進一は今でも忘れる事が出来ない。
「大学といっても、しょせんは暗記がほとんどだ。受験勉強をしているみたいだな」
「おお、ほんまやで。理解出来ん所は、丸暗記しかやりようがない」
教授が入室して講義が始まった。講義の内容は理解するが難しく、ノートに速記するだけの単調な作業。しかも進一は気づいていたが、大学の教員は誰もが研究中心であり教える事は下手だった。速記に追われた学生達からは、しばしばため息が漏れていた事があった。
講義が終わって、進一は疲れからなにげなく首を回していると、隣の李竜覇から声をかけられた。
「ノート、ちょっと見せてくれへんか。分からんかった所があるねん」
「おお、いいよ。もっとも俺も分からない事がほとんどだったがな」
李竜覇は進一が貸したノートを写しながら、つぶやきだした。
「こんな時にチョーがいると、熱心に教えてもくれるのやが」
「チョーって、君とよく一緒にいるあの女の人かい?」
「うん、お祖父さんが亡くなって、国に帰っておるねん。すぐに帰ってくるはずやが」
進一はふたりの国がどこかを知りたくなって、自然な口調を作って聞いた。
「チョーさんの国は遠いのかなあ」
「遠い。韓国や。俺もチョーもソウル出身や。ふたりとも同じ小学校におったから、よく知っとるねん。もっとも俺は中学は家族と一緒で日本に来て、名古屋の中学に通ったがな。チョーは高校時代に日本へ来たねん」
「日本語は難しかったろう。俺たち日本人でも、特に敬語はしょっちゅう間違えるよ」
「うん。それに俺達は名古屋や大阪や東京に行き来したから、その土地の方言も慣れるのに大変やった。俺達の言葉は、大阪弁と名古屋弁と標準語が混同しとるはずや。まるでカクテルみたいや」
李竜覇は明るく笑った。隣で進一は、そうだったのか韓国の人達か、と思っていた。身近な国だが、彼は行ったことがなかった。しかしこれを機会に、李竜覇と張美恵の事がよく分かった。
年が明けて一年で最も寒い一月下旬。進一は大学の図書館で進級試験の勉強に追われていた。留年はしたくない。早く社会に出て親を楽にしたい。一刻も早く給与を貯めて一人前になりたい。そんな思いが逆に進一を苦しめていた。留年したらどうしよう。親の資金は? 留年は就職に不利だからな。進一の胸は張り裂けそうだった。
前の机に男女がやって来て、座りながら進一に声をかけた。
「よう、山田、頑張っとるな」
李竜覇と張美恵である。二人とも厚いセーターを着て寒そうな顔をしていた。
「うん、心配でたまらん。科目はどれも難しくて、合格する自信が全然ない」
張美恵が真剣な顔でささやくように話し出した。
「みんな同じよ。私だって女だから留年したら就職はほとんどないし。男の人はいいなあ。余裕があって」
「チョーさんは大丈夫ですよ。あんなに勉強していて、どの先生からも覚えられているよ」
「でも試験は先が分からないからね。どんな問題が出題されるか分からなくて、とても心配。大学入試と変わらないわね」
進級の不安と寒さとで、どことなく重苦しい不安な雰囲気が漂っていた。
「人事尽くして天命を待つ。それだけや」
豪放な李竜覇が気合を入れてくれた。
2.学部で
学部のデラックスな建物の傍らには、桜の木が満開である。近くのベンチに腰かけて、進一はその桜を満足げに見ていた。進一は何とか留年はせずに、希望する化学工学科に進級出来たのだ。桜の花びらや春らしい暖かい風もが、まるで進一の学部移行を祝福しているかのようだった。
教養部の仲間だった張美恵は優秀な成績で、希望する経営工学科に進級した。彼女はいずれ企業の品質保証部門への就職を望んでいた。勉強家の彼女の事である。事故や病気にでもならない限り、夢は実現されるであろう。経営工学は理工系の中でも最も人間臭い学問である。数式やプログラミングだけでなく、経済学など文系の素養も必要だ。彼女は勉強家だが、更に忙しくなるだろう。就職までは気が抜けない。しかし大きなヤマの学部移行は突破して、まずは明るい雰囲気に彩られていた。
しかしそこに李竜覇の姿はなかった。彼は留年したのだった。
試験後に配布された教養部の進級先名簿を見て、李竜覇の不合格を知った進一は思わず絶句した。
「あのイが!」
進一は信じられなかった。前の席で頑張っていた彼が留年するとは、何か試験の採点に誤りがあったのではないかと思ったくらいだ。進一は自分の進級の喜びとは別に、何か不条理な暗雲を感じてもいたのだった。
五月の連休が終わって鬱々とした梅雨を待つ六月頃、進一は広い学生食堂で簡単なランチを食べていた。学生の多い広いスペースで進一は食事をしながら、有機化学の講義で学んだ講義ノートを手元に置いて時々目を送っていた。担当教授は単位認定の厳しい教授である。いつ抜き打ちに学生を指名して、講義した理論を理解しているか分からない。
「山田君、相変わらず勉強しているね。」
顔を上げると、久し振りの張美恵の気品のある顔が目に入った。
「おや、チョーさん、しばらくだったね。どう? 経営工学科の講義は?」
「うん、いろいろな統計を学んだりして忙しくてねえ。山田君は食堂でも食べながら勉強しているの?」
「担当教授が厳しいから大変だよ」
張美恵はテーブルの向かいに座って、進一と一緒に食事を始めた。田舎者の進一にとって、女子学生と対で話すのは珍しい。
「山田君はイ君を覚えている? 彼は韓国に帰って貿易会社で営業をしているのよ」
「え! イ君は大学を辞めたのか!」
「うん、留年したから学費が続かなくて中退したの。二人で簡単な送別会をしたわ」
「俺も招いて欲しかったなあ」
「でも周りが進級する人ばかりでは、イ君がかわいそうだから」
「そうだな、イ君は豪傑肌だったけど、気持ちは考えてやらないとな」
話の内容が驚く事であったので、進一は相手が女子である事を忘れて熱心に受け答えしていた。食事の橋の動きも極端に遅くなり、テーブルに広げていた講義ノートも、広げたままになっていた。
「ねえ山田君、お昼が終わって今日の講義が済んだら、五号館の二七号室に来て頂戴。そこからカフェでも行かない?」
張美恵に誘われて、田舎者の進一は初めて女性と長く話していた事に気がついた。しかもお茶に誘われて面食らてしまった。しかし断る理由がないので、安易に承諾をしてしまった。
夕方に二人が入ったカフェは、大学からかなり離れていて小さなたたずまいであった。しかし趣味の良い模型の船が置いてある、個性が感じられる店であった。進一は普段食事などは学生食堂か普通の定食中心の店で、しかもほとんどは一人で食べていた。そのため張美恵と二人で、しかもあか抜けたカフェは初めてなので、どことなくそわそわしていた。
「山田君は大学を卒業したら、どういう会社に就職するつもり?」
「そうだなあ、俺の性格は会社員は無理だから、教員か市役所勤務しかないかもね。チョーさんは?」
「わたしは材料関係か電子部品よ。将来有望だからね。そういえば山田君は地味な感じだわね。確かに公務員が適任のようね」
「うん、こういうカフェも慣れていなくてね。田舎者だから」
そういった彼を張美恵は少し大きな目で、口に笑みを浮かべて凝視した。進一は彼女をまともに見る事が出来ずに、カフェの模型をすがるような気持ちで眺めた。
「山田君は知っているかな? わたしはこの大学に入る前に、三年働いていたのよ。パン屋さんのアルバイト。国籍は韓国だし、頑張って勉強しないと就職口は狭いと思う」
「おや、チョーさんは苦労していたんだなあ。講義は熱心に聞いていたし、エリートの学生さんに見ていたけど」
「あははは、違うわよ。わたしはあなたのお姉様よ」
その時の張美恵の顔は普段とは全く違う、浮世に慣れたキャリアウーマンに変質していた。しかも進一の顔を固定した目で、動かずに凝視していた。
進一は慣れないカフェで、しかもこれまた女性を前にした慣れない会話で、強いまなざし。すっかり気持ちが硬直してしまった。話のは主に張美恵であり、進一は頷くか「なるほど」「そうだね」のあいづちくらいだった。
「さ、進ちゃん、出ようか。ごめんね、お勉強があるのでしょう?」
進ちゃんと言われて、彼は更に固まってしまい、声が出なかった。会計で進一が財布をポケットから出すと、
「いいわよ、わたしが誘ったから私の驕りよ」
と言って進一の手を軽く握り、ワリカンを制した。
カフェの外は五月とはいえ少し暑かった。帰宅途中のサラリーマンが、ある人は足早に、またある人は仲間と大騒ぎして居酒屋街に向かって行った。
「チョーさんは近くに下宿していたんだっけ。僕は駅に行って電車に乗らないと」
「うふふ。混む頃だから頑張ってね」
「じゃ、コーヒーごちそうさま」
「うんん、おやすみ」
進一は足早に一人で駅に向かった。女性との二人だけの会話は新鮮だった。しかし怖くもあった。これが豪快な李竜覇だったら、あの大声で笑いながら去って行っただろうと、進一は考えた。
「チョーさんは今頃俺と李竜覇と比べて面白がっているかもしれない」
すっかり子供になってしまった進一は、帰宅の電車の中でカフェの事ばかりを考えていた。
3.就職活動
その後進一は四年生になって大学の桜並木を歩いていた。周囲は卒業研究と就職活動であわただしくなっていた。就職で一生が決まるという、真剣な声がそこらじゅうから話されていて、嫌でも進一の耳に入ってしまう。
進一は自分の性格を考えて、教職を第一候補に選んだ。どうせ企業に入社しても、複雑な人間同士の競争について行く自信はなかった。郷里の工業高校では化学科がある為、そこを就職先に狙って教職科目も履修した。しかし教員になっても相手はむずかしい年頃の高校生。まさか教師が腕力で抑えつけるわけにはいかないであろう。人格で納得させなくてはいけない。その技量があるのだろうか。不足なら早めに養わねばならぬ。進一の不安は留まる事がなかった。
色とりどりの花が咲いている大学の敷地内で、質素な服を身にまとった女子大生がベンチに腰掛けて背中を向けて静かに花を見ていた。よく見ると張美恵の沈んだ姿であった。
「チョーさん、何しているの? 日に焼けるよ」
「ああ、山田君。就職活動はうまくってるの?」
「郷里の工業高校の先生になるよ。まだ正式な内定じゃないけど、採用の担当者からは、どうやら合格のようだよ。チョーさんは?」
「・・・・・」
張美恵の返事はなかった。なにか暗い雰囲気が彼女の背中に漂っていた。どうやら張の就職は難航しているようだった。
「あのね、山田君。わたしアルバイト先のパン屋さんに勤める事になったの。いろいろ会社を回ったけど、どこも不合格だったの。三年も遅れている韓国人を雇ってくれる会社はなくてね」
「そうかい、パン屋さんに。アルバイトのままで?」
「ううん、今度は正社員としてね。頑張って働いていたから、店長が認めてくれたの」
張美恵の顔は暗かった。あれだけ真面目に勉強して、バイトも頑張っていたのに、結局は報われない就職となったのだった。進一は慰めようがなくて、黙ってしまった。
「さ、進ちゃん。飲みに行きましょ。遠くに好い飲み屋があるわよ」
張美恵は乾いた元気声を作って、立ち上がった。
張美恵が案内した店は簡単なスナックだった。カウンターは十席くらいでテーブルは二つ並べている、決して大きくない店であったが、三人の若い女子従業員がカウンターの内側から笑顔で迎えてくれた。ほかに客はいない。進一以外では四人の女性が、華やかな雰囲気で場をなごましていた。
「進ちゃん、ここはガールズバーよ。スナックはカラオケがうるさくってね。今日はここにしたの。なにか飲みましょうよ。わたしはホワイトレディー」
「僕はスコッチでいいよ。チョーさんはジンベースのカクテルで悪酔いはしないの?」
張美恵は口元に笑顔を浮かべたが、顔全体はやはり暗かった。三人のガールズは気を利かして、努めて会話には加わらなかった。
「ねえ進ちゃん、ここでバーテンにならない? バイトじゃなくて、支配人候補生として」
「はあ? 僕は国に帰って教員になる。それにガールズバーの男支配人だなんてね」
その時の張美恵の顔は普段とは違って、何か人を見下げた雰囲気が漂っていた。どうしたのだろう。アルコールが回ってきたのだろうかと、進一は彼女を真剣に見つめた。
「わたしねえ、サラリーマンだけが人生じゃないと思うけどな。学校の先生だってサラリーマンじゃない。企業に勤める会社員も一緒。そんなワンパターンな人生では、いつかは必ず後悔するわよ」
「・・・・・」
「やはり進ちゃんは、サラリーマンの夢が捨てられないのね。私の勤めるパン屋さんは老夫婦と私の三人だけど、味は良くて近所では評判いいのよ。お給料はもらうけど、家族みたいに接してくれるわよ」
進一は思わず張美恵から顔を避けてカウンターのグラスを見つめた。そして心の中で叫んだ。ウソだチョーさん。あんなに勉強していたのは、なるべく一流の会社に勤めて活躍したいはずだ。もっと探さないのか、と祈る思いで考えた。しかし彼女にはその就職先がないので、口に出して説得する事は出来なかった。
張美恵はカウンターのガールに顔を向けて、黙っている進一を指さして話し出した。
「この人は真面目だけどまだお坊ちゃんでね。サラリーマンの夢が捨てられないのよ」
進一は別に腹は立たなかった。アルコールが回ってきたのもそのすてばちな言葉の理由だと思ったが、同時に何年にも渡ってアルバイトや勉強をした結果がこんな就職で終わるという、投げやりな自己正当化も放言の理由だと感じていた。
張美恵はその後進一を忘れて、カンターガールにパンの作り方を、独演会よろしく高い声で話しまくっていた。
すっかり酔ってしまた進一は、あとの事はほとんど覚えていない。ただ張美恵の下宿の前で空を見上げて、満月が薄雲に隠れている事だけはわずかに記憶にあった。
4.卒業して
卒業後の五年目、進一は郷里の工業高校で化学の教員をしていた。血気にはやる男子学生が多く、進一のストレスは限界に達していた。加えて教員同士の競争は予想以上に醜いものだった。自分の担当生徒の自慢話や非担当生徒への罵詈雑言は日常茶飯事であり、自分や生徒の成長を考えずに相手教員への攻撃が多く、職員室は暗いものだった。
これが企業での営業マンであれば毎日が神経のすり減る人間関係であろうが、さりとて教員とてまさしく同じく対人関係に苦の多い毎日であった。
進一は夏休みを利用して、東京に旅をした。なつかしい大学を思い出して、仲の良かった友に会えるかが楽しみだったのだ。社会での仕事は忘れてリフレッシュがしたいと、進一の心はまるで藁にもすがるほど弱っていた。
東京でまず向かった所は、張美恵の働いていたパン屋であった。元気で働いているだろうかという再会の期待と、会えるのだろうかというかすかな不安が入り混じり、進一の足はかなりせかされる程の早さだった。
懐かしのパン屋と思われる場所にたどり着いた時に、進一は我が目を疑った。道路は拡張されており、周囲には初めて見る新しい店舗が軒を連ねていた。なつかしい建物もあったがそれはわずかであり、ほとんどはまるで別の街のように進一のイメージとは離れていた。
近くにコンビニがあったので、進一は入って簡単な買い物の後にレジの女性に尋ねてみた。
「すみません、あの方角におしゃれなパン屋さんはありませんでしたか?」
「さあ、わたしは昔の事は分からないのですが。店長に聞いてみます」
「お願いします」
出て来た店長は五十代くらいの太った貫禄のある男だった。
「パン屋ですか? なんか粋な店でしたね」
「今はどこかに移ったのですか?」
「ええと、引っ越しというより二年前に店じまいをしたようです。おいしいパンを作っていましたが、残念でした」
「え! 店じまい。その店の人達はどこへ行ったのでしょう? 分かりますか?」
「ごめんなさい、分かりません。なにしろたくさんの店が出来たり消えたりでして。私どもも、三年前にこの店を開業したばかりですよ」
三年前というと進一が卒業した後である。進一は茫然としながら店長にお礼を言って外に出た。
「街というものは動いている。すっかり寂しく変わってしまった。チョーさんはどうしているのだろう。あんなにスナックでパンの話を熱心にしていたのに、店じまいか」
暑い東京の夏ではあったが、進一の心は急に隙間風が通り抜けていくような虚しさが身にしみてきた。目に見える今のにぎやかな通りも、まるでどこかの砂漠であるかのように味が消えてしまった。
「思えばイ君もチョーさんも学生時代によく勉強していたが、思い通りの仕事にはつけなかった。むしろ俺みたいに漫然と大学に来て、単位を取るのにあくせくしていただけのほうが、希望していた教員になった。人生って不思議なものだ」
昔と比べてかなり広くなった街を、進一はため息をつきながら、ゆっくりと歩いていた。
「しかし俺の選んだその教職も、人間関係には全く俗世間とは変わりがない。醜い集団だった。考えの甘かった俺はチョーさんが見ていたように、ただのお坊ちゃんだったのか。李竜覇と張美恵は希望した進路には就けなかったが、世間通の二人はたとえどうあれ社会で頑張っているかもしれない。人生って難しい。考えるほど難しくなってしまう」
進一は東京駅から列車に乗って、郷里に帰る事に決めた。寂しさが積もり積もって、やるせない気分になってしまった。なつかしい大学を訪れる事はやめにした。多分知っている人は誰もいないだろう。張美恵が住んでいた下宿はどこにあるか忘れてしまい、行く事は出来ない。
郷里に帰る列車の車窓からは、東京の無機質な高層ビルが所狭しと乱立していた、教員になって苦しい毎日にもがいている進一を、まるで無視しているかのように車の往来がせわしげに目に入ってくる。
「これが社会か。これが人生か」
進一はただため息を交えて、つぶやくだけであった。
東京の街並みは、ますます大きく味気なく広がっていった。
〈了〉