MAP No.20 熔岩と凍土の部屋: In front of a castle wall ──優男
太い円柱の大広間から充分離れたところで三人はようやく逃げ足を緩めた。
でこぼこした不揃いな石が積み上がって腸の内壁のような廊下を形成する。床は堅く踏み固められた土のところどころから玉石が頭を覗かせて歩きにくく、現役軍人であるフェイリルですら何度も足を滑らせた。
大広間を蹂躙する破滅の音もここまで届くことはなく、静かな通路が続いていた。
安全を確認したミェルニルが落ち着いてメンバーを見るなりびっくりした声を発する。
「フェイリル、大丈夫なの!?」
相棒の首の付け根から肩にかけてが血に汚れていることに気づいたのだ。
彼女はすぐさま駆け寄り、自分の背嚢を下ろして手当てを始めた。
マントと服を脱がせて上半身を裸にすると、水筒の中身を流して傷口を洗い、仔細に眺める。さらにミェルニルは腰のポーチから干からびた焦茶色の粒を取り出した。
身を屈めているフェイリルは疲れきった様子でため息をつく。
予感の正体が先ほどの、壁を突き破って現れた暗黒の群であることは疑いようがなかった。あれは自分たち以外のすべてを呑み込み、部屋ごと喰らい尽くそうとしているようだった。
悪寒も収まりつつあり、いつも通りに口調に気楽さの厚底靴を履かせる。
「さすがに命からがらってところだ」
「そうね。あたしもあんなのは初めて見たな。で、負傷の程度は──」
ミェルニルの目が傷口を仔細に観察し、診断を下した。
「──軽く咬まれたって感じだ。安心して。軽傷よ。傷口を清潔にしていたら問題なし」
「それはよかった。それにしても、先輩にも知らないことがあるんだな──痛たたッ、しみるッ!」
ミェルニルは山椒の実のような粒を指の間で憎しみを込めてすり潰し、泣き言は無視して粉を傷口へ振りかける。
「あたしも来てまだ三年しか経ってないから、知らないことはまだまだあるぞ。でも、これがスゴくしみるけど、消毒効果のある粉であることは知っている。だから、我慢しなさい」
「てっきり嫌がらせだとばかり……。これでもか弱い男なんだ。もっと優しくしてくれ」
「意味不明」
無愛想な顔に変じたミェルニルはそっけなく応えた。
背嚢から清潔な布と包帯を取り出し、心配して損をしたと言いたげな荒っぽさで手当てを続ける。
イタズラ心を誘われてフェイリルはムズムズする背中を曲げた。
「文法上の誤りはないよ」
「こら、動くな──おまえをか弱いと表現することに問題がある」
「それは見解の相違にすぎない。それより、この先の道はわかって──痛いッ!」
包帯を結び終えた平手が力一杯背中を叩き、フェイリルは飛び上がるほど痛がった。
着衣を直して立ち上がるときに横目で魅惑のウェストラインを眺めながらぶつぶつと文句を呟いた。
「近頃は何かと暴力に訴えるな。ツンデレ強化週間か?」
聞き咎めたミェルニルの右手が細剣の柄にかかる。氷結しそうな視線を飛ばして彼女は訂正を入れた。
「デレはない。ツンだ。ツンツンだ」
フェイリルが珍しく弱気な様子で大きな掌を見せた。
「わ、わかった。俺が悪かった。その細い剣先は鞘にしまってくれ。俺もさすがに疲れてる。避けきる自信がない」
「うむ。わかればよろしい」
「おっと芸のないセリフは受け付けないよ──あうッ!」
脛を蹴られて呻くフェイリル。
怒った相棒は背を向けてしまった。細剣を持つ手は下ろされ、代わりに地図を見るため床においた背嚢を探りだす。
フェイリルは慌てて名を呼び、注意を引いた。
「ミェルニル、最後に礼だけ言っておく。手当てしてくれてありがとう。あとは黙る」
彼女は面喰らったような顔をしたが、はにかんだ笑顔を一瞬だけ見せてから取り出した地図に目を戻した。
水筒を逆さにして雫が垂れるのを見ていたミスティオルが、傷の手当てが終わるのを見計らって近づいてきた。
空の水筒を突き出して言う。
「おかわり」
あれだけの騒動があったにも関わらずペースを崩さないところは、さすがという他はない。
フェイリルは自分の荷物がないことに気づき、辺りを見回したが見つからなかった。舌打ちをして頭をかく。
少し間をあけて苛立ちを静めてから応えた。
「すまない。俺の荷物は、あの騒ぎのなかで持ってくることができなかった。だから、水のおかわりはない」
目を見開いたミスティオルの手から水筒が落ちて、カランと音を立てて転がった。
「なんだと──」
体をわなわなと震わせて自分よりひと回り以上大きな男の両腕をつかむ。
「──あれには、国宝級の我が枕が入っていたのだぞ! なんということをしてくれたんだ!」
フェイリルは単なる枕を国宝並みに扱うカゥライエンの国宝認定基準を罵倒したくなった。だが、現実問題として取りに戻ることは困難であり、諦めるしかない。
むしろ、貴重品を腰のポーチに入れておいた己の用心深さに拍手を贈りたかった。
ただし、泣きそうな彼女に対しては、表面上は申し訳なさそうに謝っておく。
「悪かった。俺もそこまで余裕がなかったんだ」
ミスティオルの両手が組まれて、祈りが口から洩れた。
「神よ、この愚か者に安らぎを与えたまえ。この愚か者は、今後の全人生を私に仕えることによってこの罪科の許しを乞うことになるのですから」
「仕方ないな。今後、この迷宮にいる間はおまえ専用の『膝枕』として奉仕してやろう」
「わかった。それで手を打とう」
嫌がらせのつもりの申し出が受け入れられてしまった不条理にモルガンヌ近衛親衛隊兵士の腰が砕けた。
「俺にはおまえが求めているものが、まったくわからん」
「下賤な一般庶民に高貴な魂の高潔な精神は理解できるはずもあるまい」
眉間にシワを寄せたミスティオルはボブカットの金髪頭を傲然と反らせ、見下し気味の目線でそう言いきった。
鼻息の荒いお嬢様に対する教育は諦めるべきかと悩みつつもフェイリルは言い返した。
「あいにく、この世の大多数を占める一般庶民を下賤と断定できるほどの高貴さは持ち合わせちゃいない」
「なんと、向上心に欠ける奴だ」
「何事もほどほどが一番さ」
苦々しい顔のミスティオルに対して肩をすくめてみせた。
ちょうどそのとき、地図とにらめっこしていたミェルニルが二人に声をかけてきた。
「水はもう予備がないから、我慢しなさい。それより目的地は、ここからなら近いぞ。あと十分も歩けば到着できるはず」
ミスティオルがブスッとした顔で囁いた。
「あと十分だと、信じられるか?」
「俺の脳内地図も同じ結論だ」
「ならば、先を急がねばならぬ」
ミスティオルの籠手を嵌めた手が差し出される。それは思ったより使い込まれてはいたが、指先までピカピカに磨き上げられており、普段の手入れが行き届いていることを示していた。
その籠手から視線を上にずらして、目で問いかける。
ミスティオルの半眼に閉じた目が籠手からぶら下がる物に移った。
フェイリルはため息とともに高貴な身分のお嬢様の高潔な荷袋を受け取った。
ミェルニルの手招きする姿が見えた。二人は急いで彼女を追いかけていった。
少し歩くと、でこぼこした壁に水滴が浮かび始めた。
壁の上部で列をなす魂の球はその輝きを弱めて揺らめく。
さらに進むと、再び白い靄が立ち込めてきた。
フェイリルは舌打ちをして左腰に差し直した大剣を抜き放った。
「気をつけろ。また、霧だ」
先頭を歩くミェルニルも剣に手をかけて前方に目を凝らす。
「少し見てくるから、二人はここで待ってて」
お嬢様は鷹揚に頷いた。
「うむ。斥候を志願するか。大儀である」
「あたしはそこの愚かなノッポみたいにあんたの家来になった覚えはないからな。この探索中、あんたにも容赦なく斥候でも、後詰めでも、何でもやってもらうぞ」
「お、おう。望むところだ」
顔を青くしながらもミスティオルは固めた拳を掲げて応えた。
それを鼻で笑ってミェルニルはその姿を濃い靄のなかへ沈みこませて消えた。
二人きりになるなり、荷物持ちの意地悪な言葉が突き刺さる。
「顔色が悪いな。ビビったか」
「!!」
顔を真っ赤にして言い返そうとするミスティオルであるが、勢いのあまり言葉にならず、ただ、う~う~と唸り声を洩らすばかりであった。
そして、彼女の気持ちが落ち着くより先に二人を呼ぶ声がした。
睨みつけてくるお嬢様を連れて先へ進むと、はっきりとわかるくらいに空気が温かくなり、湿気も増して床には水溜まりが現れた。
もしやと思ったときには、先が見えないほどの蒸気がところどころに漂う様が目に入ってきた。
隣で子供じみた驚きの声が聞こえ、案の定ミスティオルが興味津々に駆け寄っていく。
また面倒な、とフェイリルが長い腕を伸ばしかけたときにミェルニルの警告が飛んだ。
「止まりなさい!」
立ち止まったお嬢様は見慣れてきたブスッとした顔で文句をつける。
「私が何かやったか? ちょっと前に出ただけだぞ」
蒸気のベールの向こうからミェルニルのホッとした声の返答があった。
「足元をよく見なさい」
指示に従った結果、お嬢様は思わず二歩下がることになった。
その足元の先では熱水が湯気をたてており、左右の壁をつなぐように流れる水路となっていた。水路は幅が広く、流れも早い。
熱水の流れが点在する飛び石にぶつかって飛沫を上げていて、黒い飛び石は濡れて滑りやすくなっていた。
口笛を吹くフェイリル。
「あと一歩でボチャンだったな」
「余計なお世話である。……あっ、そうだ!」
ミスティオルが手を打って得意気に言う。
「水筒にこの湯を汲んでいこう。冷めれば水になる」
フェイリルの鼻がクンクンと鳴り、しかめっ面でたしなめた。
「やめたほうがいいな。かすかに硫黄の臭いがする。害はないとしても、俺ならともかくお嬢様があとで腹を下したらやっかいだ」
ミスティオルは唇を尖らせて文句を言ったが、結局水筒に湯を汲むことはしなかった。
湯気の向こうからミェルニルの見守る姿が見える。
せかされている気がしたフェイリルは、下を向いて飛び石の位置を確認しながら湯の流れる水路を五歩で渡りきった。
しかし、おいていかれた情けない声が背後から届く。
「なんたる軽挙蒙動。一人で渡るなど、まさに言語道断」
フェイリルは何も言わずに戻ると、再度足場を確認してからお嬢様騎士を先導しつつ一緒に渡ってやった。
途中で蒸気を吸った彼女が咳き込んで大騒ぎをしたことを除けば何の問題もなく渡ることができた。
熱水路を過ぎ、ほどなくして大きな扉が見えてきた。その扉は黒塗りの金属製で、小ぶりだが門と呼んでも差し支えないほどの大きさであった。
三人は用心して周囲に待ち伏せの気配がないか調べるが、特に怪しいものはなく、警戒を解いた。
気を緩めるつもりはないのだろうが、目的地に到着したことからミスティオルの顔から気難しい気配が幾分消えた。
「タイムリミットまでには充分間に合いそうだな」
フェイリルが安心させるつもりでそう言うと、お嬢様騎士の口元が引き締まり、頷いた。
気負いが過ぎるように思われたが、それぐらいでないとわがままなお嬢様が頑張るきっかけにはならないのだろう。
黒い鉄製の扉に取っ手はなく、フェイリルが肩を当てて押すと、重さを感じさせないほどスムーズに開いて拍子抜けした。
だが、室内の様相に三人とも唖然とする。
腐った卵の臭いが熱気とともに吹き付けて、それと同時に凍りそうな寒風が喉元をかき切るように通り過ぎる。
ミェルニルが背嚢に引っ掛けていた手拭いで口と鼻を覆って呟いた。
「こんな部屋は初めて……」
そこは、雪と氷の氷原が横たわり、ところどころに覗く赤い亀裂ではマグマが大地を突き上げる『熔岩と凍土の部屋』であった。
林もなければ、草の生える平地もない。
仄かに明るい空は厚い雲が重く垂れ込めて薄暗く、その足下では篝火のように赤い光が不気味に周囲を照らした。
影にしか見えない離れた火山では粉塵を巻き上げる噴火が続き、噴き出たドロドロのマグマが飛沫となって塊を撒き散らしている。赤い粘塊が滑りゆく様が遠目にもハッキリと写った。
その遥か上では稲光がまばらに弾け、そのつど白と灰色の一瞬を切り取っていく。
フェイリルは背筋を伸ばして首を撫でる。見た目が恐ろしいだけではなく、ここを探索するには危険が伴う。
圧倒的な景色に息を殺している二人にわざと明るい声で呼びかけた。
「部屋を間違えたか?」
「いえ──」
ミェルニルが神妙な面持ちで否定する。
「──地図上ではここだ。それにカザックにも聞いた通りに来たんだ。ここしかない」
ミスティオルも頷く。
フェイリルは怪しいと思うが、確かに教わった順路と地図を見た限りでは自分でもここがお目当ての部屋だ。
ならば、と疲れをおして行動を促す。
「なら、お目当ての薬草を探しにいくしかないな。この広い部屋をどこから探す?」
すると、無言のままミェルニルの眼差しがミスティオルへ向けられ、続いてそっくりな眼差しがたすきリレーのようにお嬢様から近衛親衛隊の兵士へと向けられる。
フェイリルが自分のたすきをどこへもっていこうかと見回したとき、すぐ背後に黒々とそびえる城があることに気づいた。
他の二人も同時に気づいて驚きの顔になる。
それは三つの塔と城郭からなり、城壁がいびつなカーブを描いて本丸を囲う。塔の先端にはそれぞれポッカリと穴があり、何かうごめく影を目にすることができた。
怪しい城の奇怪な住人を想像して寒気を覚え、三人は視線を戻す。
自分たちがたった今出てきた黒塗りの鉄扉は、その城壁に通用口として違和感なく存在していた。
「こいつは驚いた。先輩、この城は?」
「だーから、あたしもこの部屋は初めてだって──」
と首が横に振られる。
「──だけど、薬草が生えるなら、石畳じゃなくて土の上だと思う」
フェイリルが無言で頭をかくと火山灰が落ちてきた。灰色がかった黒い短髪がどんどんグレーに染まっていく。
それはミェルニルも同じで、ミスティオルに至っては灰色がかった金髪へと変じ、まるでモルガンヌ人のようになっていた。
フェイリルも腰の手拭いを口元に巻き付け、ミスティオルには雑嚢から取り出して別の手拭いを渡すと細かい灰を吸わないように指示した。
それから、飄々とした顔でミェルニルに言った。
「役割分担をしよう。レディーファーストだ、先輩」
危険を予感させる景色のなか、女性に先に行けと言う態度は先輩をして呆れさせた。
彼女もすぐに冷たい仮面をかぶって腰に手を当てた。
ただし、フェイリルの自分勝手さを実感するのに時間がかかったのか、文句を口にするまでに間があいた。
「……ガッカリだよ。まさか、あんたがそんなことを言うなんて」
怒りのこもったセリフを受け流し、フェイリルはさらに斬り込む。
「う~ん。俺を善人だと思っていたのなら、それは大間違いだ。基本的に自分の命と使命を第一に考えている。疲れはてた上に鉄鎖宮初心者の俺としては、こんな危ないところは他人に露払いをしてもらわないと進めないね」
ミェルニルはしばらく腕組みをして怒りと恐怖の葛藤に難しい顔をしていた。
ぶつけようのない感情を呑み込み、渋々頷いた。
「わかったわ。でも、あんたに砦で持ちかけたことは考え直す。あれはなかったことにしてもらうわ」
「けっこうだ。ごたくはいいからさっさと先に行け」
素っ気ない口調に鼻白んだミェルニルは大股で歩きだした。
突然の険悪な雰囲気にミスティオルがどうしようと右往左往するので、フェイリルがキツく睨むと彼女はすっ飛んで先輩のあとを追った。
でこぼこした大地を歩く二人の脇にはボコボコと泡を噴く黄色い穴がいくつも口を開けている。寒暖の入り交じる土地で遠ざかる背中はか弱く心細げに見えた。
ただ、黒い火成岩と白い氷雪が両立する風景は異常かもしれないが、少なくとも剣で襲いかかってくることはない。
フェイリルは、さて、と呟くと、荷袋を持つ手を開いた。荷袋が大地に届く前に、大剣を抜き放って肩に担いだ。
舞い上がる灰に注意して空気を深く吸って止める。全身に力を込めて気合いを発すると、顔に赤みがさして首や腕の筋肉が膨らんだ。
一時的に血流がよくなって軽くなった肩を回し、気持ちを荒々しく高めていく。最後に肺に溜めた息を鋭く吐き出した。
向き直ると、そこには黒い霧の怪人が静謐に佇んでいた。
まるで可憐な百合の花束のように巨剣を胸に押し抱き、すさんだ景観のせいか吹けば飛ぶ儚げな乙女の風情であった。
怪人を覆う黒霧は風になびいて消えていくが、いくらでも湧いてなくなることはない。
先行した二人が異変に気づく前に場所を移動しようと、フェイリルは怪人に顎を振る。灰色の石を積んだ城壁に沿って歩くと、黒い霧も静かについてきた。
城壁を右手にして左の小高い岩の丘をときおり見やりながら、少し先にある開けた土の地面へと戦いの場所を移す。
途中、フェイリルは少し咳き込んだ。城壁には火山灰が大量に付着して石材の色が火山灰のせいなのか、地の色なのかわからないほどだった。
ある程度歩いたところで我慢できなくなったフェイリルは足を止め、振り返る。左に移った丘の向こうでひと際高くそびえる影の山が噴火し、轟音がわずかな遅れで大気を振動させた。
黒い霧の怪人も合わせて止まり、足場を確認するように踏みしめた。
マグマを吐き出す低い唸りにまざって足の下ではバリバリと霜の割れる音が響く。
両手の巨剣が中段青眼の位置で構えられ、籠手をはめた手が絞るような手つきでギリギリと長い柄を握った。
怪しい化け物のくせに正統剣術を修めたような堅い構えである。
フェイリルの喉が生唾を呑み込み、これまでにない緊張感に額が汗ばんできた。
負けないように気合いを込めて声を発する。大剣を肩から下ろして相青眼に構えた。
叩きつけるような戦いの気配が二人の間に満ちた。
フェイリルは苦々しく顔を歪める。
ヘッドレス・ライダーや失われた英雄とは桁違いの迫力に否応なく気圧されてしまう。この迷宮を単独で徘徊するなかでも相当な大物であることを、嫌でも直感させられた。
怪人の足がドンと地面を踏みつけると、地面の下で硬い岩の割れる鈍い音が聞こえ、フェイリルは少しよろめいた。
おそらく牽制のひと踏みだったのだろうが、それだけで戦意が萎縮する。
黒い霧の怪人の構えが上段に変化した。途端に気配も一層荒々しいものに化ける。
完全に格下と見下され、一撃で勝負を決めるつもりになったようだ。
フェイリルは息苦しさを覚えながらも逆転の一手を考えるが、自分の実力では相打ちすら難しい。あまりにも緊迫した空気のせいで両足から力が抜けていくのを防ぐのがやっとだった。
そのとき、さわやかな声が降ってきた。
「そこにいたのか。探したよ、愛しの君」
それまで強い風にゆらゆらとたなびくだけだった黒い霧が激しく渦を巻き、ふくらんだ。
眼球だけ動かして声の主を探すと、右手の丘からおりてくる人影が一つ。
これ幸いとフェイリルは怪人から距離をとった。
黒い霧のざわめきはより一層激しさを増し、動揺している様子が見てとれた。
逆に仕掛けるチャンスだったとフェイリルが悔やんだときには人影は丘を下りきっていた。
それは若い男性の見た目で、二十代半ばといったところだ。腰に剣を吊り、鍔広の帽子と緑のマントで体を火山灰から守っている。
穏やかな雰囲気の整った顔立ちで金色の巻き毛が帽子から覗いており、両手を広げて黒い霧の怪人へ近寄っていった。
「さあ、そろそろ残りも受け取ろうと思って、ね」
優男は二人が剣を構えて対峙していることには、まるっきり気づかない様子で間に入り込んだ。
どれだけバカなのかとフェイリルは思ったが、その男には妙に無視できない存在感があった。
違和感を抱きつつも男へ向けて鋭く警告を発した。
「おい、おまえ! そいつは危ない奴だ。怪我をしないように下がっていろ!」
優男はゆっくり首を回して、声の主を認識する。
「やあ、心配してもらってすまないね。だが、ご無用だ。むしろ、君のほうがよっぽど助けが必要そうだね。僕は迷宮探索ギルドの者で扱い方は心得ている。彼女を長らく捜していてようやく見つけたところなんだ──」
と嬉しそうな顔で怪人を指し示す。
「──だから、邪魔しないでくれ」
キナ臭い空気を嗅いだフェイリルは剣は下ろさずに難しい顔で言う。
「そいつは俺に用事があるらしいぞ。相手をしてくれるというなら、喜んでお譲りするが……」
黒い霧の怪人に顔を戻した優男は背中を向けたまま問いかけてきた。
「ほう……。親切な御仁、あなたはなんでこんなところにいるんだ?」
「知り合いの知り合いが瘴気にあたってね。それを祓う薬草を取りに来た。そいつにからまれたのは単なる偶然だ」
迷宮探索ギルドの外回り組にしては妙な雰囲気だと思ったが、手短にそう説明した。
優男が再び振り向いた。そして、思い当たるものがあると口を開く。
「そうか……。お探しの薬草は『ヒカリヒメクサ』のことだね。それなら、この城の中にあるよ。この部屋がこんなになる前は、普通にそこいらに生えていたものだけど」
実物を見たことのないフェイリルの目が細くなる。
「本当か?」
「間違いない。城内で見たことがある。さて、それじゃあ、この人のことはこちらにあずからせてもらうよ。それに、そもそもこの部屋をこんな状態にしたのは、こいつなんだ」
不意に黒い霧が滑るように下がった。
フェイリルが気づいてそちらを見ると、向こうから城壁沿いにミェルニルとミスティオルの二人が駆けてくる姿があった。
舌打ちをして、大声で怒鳴る。
「来るなッ!」
優男も、つい二人に目を向けてしまい、戻したときには黒い霧がすでに遠くへ去りつつあった。
そのため慌てて追いかけ始める。
かくして、黒い霧の怪人と優男は岩の丘を登り、風のように向こう側へと消えてしまった。
フェイリルは前屈みになると、大きく息を吐き出し、結局一度も打ち合うことのなかった大剣を鞘に納めた。
口元の手拭いが冷や汗を吸って冷たく感じられた。代わりに足下からマグマの噴出による微細な振動が伝わってくる。
少しぼうっとしている間に、短い黒髪の女が走り寄ってきた。籠手を重そうに振って走るお嬢様は後方に置き去りにされている。
「あんたって男はッ!」
そう怒鳴る先輩の形相は激しい怒りに満ち、革のグローブに包まれた両手の拳は固く握り締められている。
危険を察知したフェイリルは軽くバックステップして射程を外した。だが、それでも振り抜いた拳は頬を浅く叩いた。
泣きボクロのある顔が本当に泣きそうに見えた。
そこには、不意打ちのような強い衝撃があった。同時に軽い感銘も受けた。
がらにもなくフェイリルの心は動揺する。だが、そんな気配は微塵も感じさせず、無表情に頬に手を当てて謝った。
「すまなかった」
「本当に危険なときにあたしたちを追っ払いやがって。危険を背負い込みたがるあんたの言うことは、今度から信用しないから! そのつもりで!」
吐き捨てるように言い放つミェルニルは憤懣やるかたないといった風情だったが、それでも安堵を隠せないでふっと微笑みを浮かべた。
わざわざ訊くことではないと思いつつも、質問が口をついて出る。
「なんで俺の心配してくれるんだ?」
ミェルニルの顔に戸惑いの表情が浮かんだが、諦めととれる深いため息が洩れた。
遥か後方をヨタヨタと走るお嬢様騎士を見やり、待つ間の暇潰しにと口を開いた。
「誤解のないように言っておくよ。半年前まであたしは八人組みのグループの一員だったんだ」
へえ、と意外そうな顔で彼女を見直す。
大規模遠征にも参加せず、あまり集団行動を好まないタイプと見たフェイリルの見立ては大幅に修正された。
何かと冷めた態度をとりたがるくせに、妙にお嬢様のことにも気を配っているのは彼女にとって自然なことだったのだ。
その表情に気づいたミェルニルは口元を覆い隠す手拭いを直して文句を言う。
「なんで意外そうなんだよ」
「ちょっとだけだ」
人差し指と親指で隙間を作る男は蹴りを入れたそうな気配に気づいて目で笑った。
ミェルニルは顔をしかめて話を続ける。
「ここに迷い込んだとき、まだあたしも経験が足らなくて、それでももがきながら何とかやってたわ」
聞き手が腕組みをして楽な体勢になるのを見て、ミェルニルは本格的に記憶の深みをあさっていった。




