MAP No.19 円柱の並ぶ大広間──漆黒の怪
フェイリル・マリアティッティがだらしなくうつ伏せに倒れたとき、同パーティー二人の行動は眼を見張るほど早かった。
ミスティオルは剣を構えてフェイリルの前に移動し、ミェルニルが左右に揺れるような足取りでさらに前に陣取る。
幻惑する足の動きに合わせて剣尖を不規則に動かして黒い霧の怪人を牽制した。
一方、迷宮探索ギルドの男たちは頬髭の男の合図で一斉に剣を抜いた。
頬髭の男が黒い霧に激しく斬りつけると、それを皮切りにしてギルドの一団は戦闘に突入していった。
この隙にミェルニルとミスティオルはフェイリルを引き摺って後退することができた。
猛禽類に似た顔が珍しく弱々しい表情を見せる。
「すまん。助かった」
庇うように中腰だったミェルニルは手を放して腰を上げた。斬り合う一団を油断なく見張りながら言葉を返す。
「まったく……大丈夫なの?」
「まあ、な。あの霧の怪人は相当だぞ。策がなければ太刀打ちできない」
言ってからフェイリルは立ち上がり、痛む背中を伸ばして剣を拾った。そして無念そうに呻く。
「ちきしょう。刃の欠けが深すぎる。刀身が完全にイカれちまった。高かったのに……」
ミェルニルは横目で乱戦の模様を観察しつつ言う。
「そんなことより早く逃げるわよ」
「そうだな。霧の奴とは一合だって打ち合えるかよ」
「そっちじゃなくて、本当にヤバイのは迷宮探索ギルドのほう」
フェイリルも近衛親衛隊の目を一対多の戦闘に向けた。
黒い霧の怪人は一対一では力負けする膂力の持ち主だが、防御に目まぐるしく剣を振り動かしているため、攻撃の手数が少なかった。
迷宮探索ギルドの連中もなかなか戦い慣れてるな、とフェイリルは唸る。
「ああ、確かに怪しい感じだ」
同意を無視し、ミェルニルは小声で言った。
「あいつらのなかに……死人がまじってる」
そして、黒い霧の怪人と争う迷宮探索ギルドの一団に切なげに視線を投げかける。
そのもの悲しい双眸には、不吉な内容のセリフとはかけ離れて男の心を打つものがあった。
フェイリルはマントを翻して右腰の大剣を抜くと、用心しながらミェルニルの前に出た。
「死人とは、またキナ臭い話だな。それが気になるのか?」
「気になんか──質問の意味がわからない」
尻切れに否定する女剣士に対して、フェイリルは食い下がった。
「さっきのは相当未練があるって顔だったぞ。……気になるんだろ?」
「それは下衆の勘繰りだ。それよりこの戦いでの私たちの立ち位置がわからないから、ヘタな加勢はしたくない」
冷静に状況を読もうとして打算的なセリフを口にするが、彼女の瞳には明らかな感情の揺らめきが見える。
何を隠したいのかわからず、フェイリルは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
抜き身の大剣を肩に担いでから同意した。
「フン……。ごもっともで」
周囲を見回して逃げ道を確認すると、やはり後方へ退いて来た道を引き返すのがもっとも安全そうだった。
多少遠回りになっても別のルートを通ったほうが、少なくともここで怪我をするよりは時間を無駄にしない。
ミスティオルに詳しいわけは話さずに撤退することを告げると、フェイリルは徐々に後ずさった。
せき立て役のミェルニルは彼女を連れてフェイリルの背後へ回り、そこで後ろ髪を引かれるように戦闘の渦中へ再度目を向けた。
そのとき、迷宮探索ギルドの一団のなかから咆哮が轟いた。
一人の男が髪を振り乱して体をくの字に折り、震えた。男の蒼白な顔色がさらに白くなり、濁った瞳の虚ろな両目がカッと見開いた。
フェイリルが目を細めて観察していると、その男は口から泡を噴いて再度獣じみた叫びをあげた。
そして、人間離れした脚力で黒い霧へ飛びかかっていった。
巨剣が刃を弾き返すが、男の狂ったような斬撃の嵐は止まらない。
男の口は限界以上に開いて頬肉が裂け、傷口や鼻から濁り血が滴り、飛び散った。
獣の唸り声とともに男の腕の振りがますます加速して、ギルドの男たちは好機を逃さずに黒い霧の怪人へ斬りかかっていった。
黒霧の怪は宙を滑るようにして剣撃を避けるも囲みを突破することはできない。
その戦闘を食い入るように見つめるミェルニルが口のなかで呟いた。
「何でなの? 何であんな化け物みたいになってるの?」
聞き逃さなかったフェイリルは改めて剣を構えた。
「加勢すれば、あとで話を聞けるが──どうする?」
突然判断を求められて狼狽するミェルニル。
「や、やめてよ。バカなことするのは……」
そう言って猛り狂う青白い男へ視線を向け、彼女は黙ってしまった。
フェイリルが話しかけようとしたとき、背中に何かがぶつかった。
少しよろめいたフェイリルは背後に強く叱りつける。
「おい、気をつけろ!」
だが、返事はなく背中を強く叩かれた。
その反抗的な態度にフェイリルは荒々しく振り返ると、ミスティオルの涙ぐんだ顔が歯の根も合わない様子で見返していた。
バカ野郎と怒鳴りつけたいのをグッとこらえ、フェイリルはただ冷たく上から見下ろした。
「今は取り込み中だ。あとにしてくれ」
ミスティオルの頭が激しく左右に動いて金髪のボブカットが乱れ、より一層泣き顔に近くなった。
フェイリルに我慢の限界が近づいて頬がピクリと動いたが、それはすぐに別の震えにとって変わられた。
床石が沈むほどの振動が伝わったのだ。
フェイリルの両目がようやくそれを認識した。
なぜすぐに目に入らなかったのかわからないぐらいの巨体。体が震えるほどの地響き。眩しいほどに輝く白銀の鎧。そして、床石に醜い割れ目を刻み付けていく、重そうな先の割れた蹄。
その姿はまだ記憶の浅瀬にある山羊足の怪物騎士のものだった。
銀色の鎧に巨体を覆われ、その腰に提げる巨剣は黒い霧の怪人のものにひけをとらない。魂を貫くような真紅の瞳が得体の知れない眼光を放つ。
背筋に悪寒を走らせたフェイリルは山羊足の怪物と黒い霧の怪人と獣のような男を見比べた。
脳細胞は即座に判断を下し、手加減なしに二人の尻を叩いた。
バチン、バチンと音がする。
「走れ!」
二人は尾を踏まれた猫のような声を上げた。
ミェルニルは走り出すフェイリルの背後を見てすぐに事態を理解し、ミスティオルはようやく震えが収まった。そして、脱兎のごとき勢いで追いかけた。
山羊足の怪物とは反対の方向──つまり黒い霧の怪人のほうへフェイリルは突進する。
通路の中央では怪人と獣のような男が激しく打ち合っていて、まばらに取り囲む形でギルドの男たちが代わる代わる助勢している。
刺激しないように廻りをゆっくりと通るのが最良だ。ただし、余裕がある場合の話である。
頬髭の男に制止する間も与えず、フェイリルは前に抜け出た。
手のなかの大剣が黒い霧目掛けて振り下ろされ、軽く弾き返される。その勢いで駆け抜けようと体の向きを変え、飛び出した。
その前を今度は別の長剣が遮った。ギルドの一人が抜け目なく立ちふさがってきたのだ。
フェイリルは軽い舌打ちをして足を止めずに振りかぶった。
ここで一番の下策は立ち止まって応戦することである。
その場合、前後左右のすべてを怪物に囲まれて、あっという間に全滅する。迷宮探索ギルドに敵対するつもりはないが、この場は勢いで突き抜けるしかない。
フェイリルは有無を言わさずに全力で打ち込んで大きく弾き、その隙に脇を通り過ぎた。
視線がそこに集中した間隙を縫ってミェルニルとミスティオルもギルドの男たちの間を駆け抜けた。
黒い霧の怪人は突然向きを変え、まるで三人を追うように移動し始めた。
獣のような男がさらにそれを追跡するべく走り出すと、迷宮探索ギルドの一団は慌てて獣のような男の後についていった。
ミェルニルは輝く鎧の化け物もついてきているのを見て、走りながらフェイリルに訊く。
「どうするつもり?」
「もう少し走ると大きくひらけた場所があるはずだ。そこでうまくまければと思ってる」
「うまくって?」
飛ぶように走る三人の背後には文字通り飛んでいる黒い霧がピタリと張り付き、ミスティオルでさえ泣き言を言わずに両足を動かした。
前方に部屋の入り口らしきものが見え、すぐに答えなかったフェイリルの口が開いた。
「黒い霧がなんでついてきてるのかはわからんが、あの獣みたいな男は黒い霧を狙っているらしいから、それを目眩ましにして逃げられたらってとこだ」
「あの山羊足の化け物は?」
「追ってくるなら、また走って逃げるさ」
「いい加減な男ね」
「さあ、つくぞ!」
通路を抜けたフェイリルたちは高い円柱が何本も立ち並ぶ大広間に入り込んだ。
フェイリルは入り口付近で立ち止まり、二人を先に進ませる。
息を整えるため、ハンドサインで出口側へ向かうように指示して、自分は担いでいた大剣を下ろして肩を回してから構えた。
黒霧の塊が迷いなく一直線にフェイリルに向かってくる。
ついてきた以上この場での一戦はやむなしと大剣を頭上に大きく振りかぶり、大広間に轟き渡る雄叫びとともに黒い霧に斬りつけた。
澄んだ清らかな金属音が雄叫びを切り裂き、大剣と巨剣の刃が咬み合う。黒い霧が視界のノイズのように眼前に迫り、次の瞬間にフェイリルの体は遥か後方に払い飛ばされていた。
大の大人がボールのようにゴロゴロと転がり、床にうつ伏せになってようやく止まった。
出口へ行きかけた二人は慌てて方向転換して駆けつける。
いち早く走り寄ったミェルニルが悲鳴のような声で名前を呼んだ。
「フェイリル! 大丈夫!? 意識はある!?」
目の覚める甲高さに驚いてフェイリルは瞬きしながら体をゆっくり起こした。
「……頭は打ってない。うまく受け身がとれたから、ダメージは受けてない」
「よかった──もう、心配させるな!」
「面目ない。俺もここまでとは思わなかった」
フェイリルは立ち上がって刃を調べるが傷ひとつなく、あれだけの打ち込みにもびくともしていない。
憮然とした表情ながらも頑強な刀身に感謝した。すでに手元にない長剣では刀身ごと体を真っ二つにされていたはずだ。
鷹の目が向いた先では、獣のような男に追いつかれた黒い霧の怪人がギルドの包囲網のなかで打ち合っていた。
巨剣の華麗にひらひらと舞う姿が整列した黒柱の隙間から激しい舞踏のように現れ消える。
目をこらすと、獣のような男の体の節々から灰色の煙のようなものが滲み出て、それが黒い霧と空間の領土を獲り合っているように見えた。
多勢に無勢ながら黒い霧の怪人は一歩も引かず、互角の勝負を繰り広げている。
一蹴されたにもかかわらず、フェイリルは黒い霧の怪人にちょっとした尊敬の念を抱いた。
そこへ全力疾走で息も絶え絶えになったミスティオルがようやくやってきた。
最後まで見届けられないことを残念に思いつつ、フェイリルは剣を鞘に納める。
「どうやら、まだ逃げる隙はありそうだ。いくか?」
「そうね……」
ミェルニルの切なげな視線がもう一度獣のような男に向いたときだった。
白銀の巨体が遅れて到着した。
騎士のような格好の山羊足をもつ怪人は大広間の争いに近づくやロープを跨ぐ気軽さで包囲網を越えた。そして、ためらいなく巨剣を腰から引き抜く。
ギルドの男たちは警戒を強めるが、鎧兜に覆われた怪人の異様な気配を感じとり、迂闊に襲いかかることは避けて包囲を広げた。
対照的に山羊足の怪人は変わらぬ足取りで輪の中心へ近づいていく。
黒い霧の怪人と対決していた獣のような男はハッと身構え、やにわに山羊足の怪人に斬りかかった。
巨剣がその凶刃を受け止めると同時にねじれた角飾りのある兜の奥で赤い目が輝いた。
途端に男の全身がバチバチとはぜるように燃え熔け、そこには灰色の霧のような人型の影が残った。
もう一度赤い輝きが閃くとその影すら灰となって散ってしまった。
瞬く間の出来事であった。
ギルドの男たちから狼狽のどよめきが聞こえて包囲が崩れた。
だが、黒い霧の怪人は白銀の鎧の怪人と対峙して双方ともに動かなかった。
リーダーとおぼしき頬髭の男は唸り、怪人二人の動向を見守る。
ギルドの面々は黒い霧の怪人を襲っていたことから、山羊足の怪人の出方次第で継戦か撤退を判断するのだろう。
──ずらかるなら、今のうちだな。
フェイリルは二人に目配せして少し下がらせた。
代わりに自分は横に移動して林立する黒い円柱へにじり寄っていく。柱の陰に入り込んでから出口を目指そうと、踵を返した。
その向いた方向の壁に異変があった。
それを見逃していたら、フェイリルは間違いなく生きてはいなかったであろう。
その壁は真っ白で大型帆船のレリーフが彫り込まれており、メインマストのてっぺんは魂の光球とともに、人間の頭よりずっと高い位置にあった。
フェイリルはその壁の、ちょうど目の高さの辺りに黒いシミが見えたような気がした。
いや、現れた。
堅牢な石壁が黒い虫に覆われているように細かくうごめく。黒いシミはみるみるうちに範囲を広げ、壁一面が黒壁と化した。
背後では金属を激しく打ち合う高い音が始まり、それとともに荒々しい息遣いが幾つも響くようになったが、黒いシミは一切の音を発しなかった。
呪縛されたかのように動かないフェイリルの頭のなかは怒濤の勢いで『危険!』で埋まっていく。
その目の前の壁でさざ波めいた波紋が揺れて盛り上がった。
そこでようやく脳髄の危機管理回路が回避行動を指示する。フェイリルは二人が先に向かった出口へ全力疾走のスタートをきりながら胴間声を張り上げた。
「逃げろおッ!」
フェイリルのうなじが焦げるようにヒリついた。
反射的に後ろ手に斬りつけるとブツンと肉を断ち切る手応えがあり、気配は退いた。
首を向けると、黒い獣毛がまばらに生える太い腕が転がっていくのが見えた。そのすぐそばを黒い影の群れが猛烈な勢いで進んでいく。
黒い影の群れは部屋の中央に達すると急角度で左に曲がり、フェイリルたちが入ってきた入り口を目指した。
その道程に怪人たちとその包囲網があった。
頬髭の男が影の群れに気がついた。その口から女の悲鳴のような声で警告が飛ぶ。
「妖怪狩猟群だ! 部屋が崩壊するぞ!」
だが、一足遅かった。
大小無数の影が激しい奔流となって黒い霧の怪人や山羊足の怪物騎士それにギルドの男たちを呑み込んでいく。
押し流されるように男たちは運び去られ、手から離れた剣が床に転がった。
奔流はそこからぐるりと部屋を巡り、今度は反対の方向へ進路をとった。出口に近いミェルニルたちのいるところへ黒い影が殺到する。
フェイリルは奥歯を噛み締めて大剣を握ると、上体を沈めて前へ飛び出した。
黒い影の群れのなかに白い光が煌めいた。
白銀の鎧の巨躯が激流を遮る大岩のようにせり上がり、巨剣が影を払った。怪物の血肉が数多撒き散らされ、円柱にぶつかり落ちる。
フェイリルが目を見張って足を止めると、その瞳にほんの一瞬の攻防が写った。
山羊足の怪人の前に槍の穂先が飛来して、それを巨剣が打ち払う。
弾かれた槍は影の群れのなかに落ちる前にそこから現れた手袋を嵌めた手がつかみ取った。
そして白馬に跨がったマント姿の男がその手槍で再度山羊足の怪人に打ちかかっていった。
白銀の鎧にせき止められた黒い奔流はふくれ上がり、次の瞬間には二人の姿は影の群れに覆われて見えなくなった。
四方八方から何か砕けゆく音が唸り始めて、それはクライマックスに向けて大きくなっていった。
合わせて黒い影の群れは思い思いの方向へ飛び散り、多くの柱の間を埋めてしまった。
頬髭の男が再び叫んだ。
「部屋が崩れ始めた! 各自自分の身を守って街に戻れ!」
その声で我に返ったフェイリルは、何本もの石柱が傾き倒れゆく様を見て、無心に出口へと駆けた。
大広間のすぐ外、廊下へ出たところからミェルニルが腕をちぎらんばかりにぐるぐる廻して、フェイリルを手招きしている。
しかし、フェイリルの背中にのしかかるように黒い影の山が盛り上がった。
それを目の当たりにしたミスティオルの金切り声が響く。
激浪のような影の群れにフェイリルの全身が埋もれ沈んだ。
視界が暗黒で蓋をされ、前後左右からごつごつした肉体が激しくぶつかってきて、もみくちゃにされた。
周囲の獣じみた悪臭に嗅覚までもが奪い取られた。
不意に側頭部に硬いものが叩きつけられ、目から火花が散る。
頭がくらくらしている間に首の付け根によだれの滴る牙が鋭く打ち込まれるのを感じた。
その痛みは死が近づいてきたことをフェイリルに強く直感させた。
が、次の瞬間、首筋に噛みついた影が四散した。
それとともに黒い影の化け物群が弾き飛ばされて、フェイリルの周囲がひらけた。
そのそばを黒い霧の怪人が巨剣を風車のように回して走り抜ける。
フェイリルはがむしゃらにそのあとを追った。
巨剣の勢いに敵しうるものはなく、黒い霧の怪人は難なく出口に到達すると、ミェルニルとミスティオルの傍らを滑るようにすり抜けて去っていった。
五秒遅れでフェイリルも出口にたどり着く。
三人は言葉を交わすことなく、一目散に大広間をあとにした。