MAP No.18 霧の漂う通路──ギルドの一団
カルスツール砦で一晩を明かした一行は、翌朝早くに出立した。
木の扉を抜けて砦のある山の頂の部屋を後にすると、警備員が挨拶してくれた。
彼らに軽く話を聞いたところ、今この付近に異変はないとのことだった。第五階層まで安心して行けそうだと、励みになる情報が仕入れられた。
また、採集する薬草の名前は『ヒカリヒメクサ』であり、今の時期はスズランのように小さく白い花を咲かせているらしい。
細長い葉と細い茎をすり潰して薬にするのだが、白い花弁は元の部分に甘味があるため、一緒にまぜて服用することが多い。ちなみに花弁の甘味のある部分は藍色をしているとのこと。
カザックの話では『林のある平地の部屋』にしか生えてないが、その部屋なら適当に群生しているから、採集に困ることはないそうだ。
恐ろしいことに、ミスティオルお嬢様は自分が探しているもののことをこれっぽっちも下調べしていなかった。
砦を出ようとした間際に発覚したことである。
おまえはバカかとフェイリルが問うと、彼女は、ぐ~、と腹の虫で返したものだ。
眠い目をこするミスティオルが寝言のように不満をぶつぶつ洩らして荷物を担ぎ直す。身支度は申し分ないが、鎖帷子や具足を付け慣れていないようで、疲労がたまっているのが傍目からよくわかった。
必要最低限の荷物だけを背負い袋に収めて軽快な出で立ちの先輩とは対照的である。
フェイリルは今日も最後尾を固め、若い女性二人の後ろ姿を堪能しながら石積みの壁に囲まれた通路で警戒にあたった。
第四階層は湾曲した道が多く、ちょっと気を緩めると頭の中の現在地が明後日のほうへとんでしまうやっかいなフロアだった。地図が苦手な人にはあまり楽しくないアトラクションである。
背筋が伸び、ほどよい緊張感が漂うミェルニル女史の背中が徐々にイライラと落ちつかなげなものに変わり始めた。
フェイリルは何気ない風を装い、その後ろ姿に声をかける。
「先輩、しんがりを代わってくれ」
足を止めた先輩が背中越しに睨みつけてきたが、怯まずに申し出た。
「今後のために先導役もこなしておきたい。地図は頭に叩き込んである。新人にもチャンスをくれ」
「何のチャンスよ」
ミェルニルは文句を言いながらもホッとした顔でポジションを代わった。
壁に沿って並ぶ光の球はやや薄暗く、ミスティオルが立ったまま寝息を立て始めたようだ。規則正しい息遣いが聞こえる。
振り返ると、先輩がグローブを外して冷たい指を金髪寝坊助のうなじを撫でるところだった。
素っ頓狂な悲鳴が上がり、一行は再出発した。
二時間もかからずに下り坂になっている通路へたどり着いた。
緩い坂は途中に扉が幾つかあり、そのつど室内に怪しい奴がいないかを探りながら進んだ。
それらの部屋ではディナス・カルスツールのように扉を開けたら即別世界ということこそなかったが、中には開ける前から怪しい気配とゴソゴソという物音がする部屋もあり、そこは静かに前を通り過ぎ、事なきを得た。
それから約一時間をかけて第五階層に下り立つことができた。
ピチャピチャと音を立てて水がしたたる音が聞こえる。光の球が力を弱めて通路の影が広くなっていることに気がついた。
よく見ると壁を伝ってところどころで水滴が滑り落ちており、石畳の隙間に染み込んで消えていった。
不意に前方に黒い人影が通り過ぎたような気がした。しかし、まばたきの後にはそんな人影はなかった。
フェイリルは足を止め、不吉な気分を味わいながら周囲を見回す。妙な気配などはないが、なぜか落ち着かないのが気に入らない。
もう一度念入りに気配を探るが、魔法の痕跡も含めてまったくもって静かなものだった。ただ、下のほうに金色の何かがちらつく。
意図的に気づかないふりをしていたのだが、背後にいるはずの金髪のお嬢様が首を伸ばして視界に自分の顔を乱入させてきた。
泣くのを我慢するかのように赤い唇をへの字に結んでいる顔がものすごい存在感を発揮する。
フェイリルはもうかれこれ三時間は歩いていることを思い出した。
本日最初の小休止を宣言すると、ミスティオルの小さな尻がドスンと床に落ちた。
フェイリルはわざとらしいぐらいに疲れた様子のお嬢様騎士をよけ、不快さもあらわにミェルニルに近づいた。
彼女は自分の水筒から一口水を飲み、感情をあからさまに出すフェイリルに対して怪訝な目を向ける。
「不満そうね。どうしたの?」
フェイリルはニコリともせずに返した。
「先輩のご機嫌を伺いにね」
「気持ち悪いわね。何なのよ」
「いや、特にどうと言うわけではないんだが、落ち着かない。はっきり言って不快だ。理由はないんだが、な」
赤い唇が不満そうに尖る。
「奇遇ね。あたしも微妙に気に入らない感じ」
「なら、休憩は最低限でさっさと動いたほうがいいか」
十分後、出発を告げると、ミスティオルがいきなり勢いよく立ち上がり、先頭に立った。
フェイリルは慌ててお嬢様に並んで歩く。
「おい、勝手なことをするな」
ミスティオルの拳が高々と突き上げられた。
「ミェルニル、フェイリルときたら、次は満を持して私、ナイト・ミスティオルしかおらんではないか」
フェイリルが真面目な顔で腕をつかんで下ろさせる。
「おまえはゲスト・ミスティオルだ、お嬢様。先頭は俺か先輩がやる」
辛辣な呼び方に彼女はムキになってくってかかってきた。
「私がやる。私だって先導ぐらいできる!」
「神経を張り詰めて進むからかなり大変だぞ」
「なら、しんがりだ!」
フェイリルの表情は変わらないが、怒りの気配が薄いベールとなってその顔を覆い始めた。
「そっちは危険だ。おまえが怪我でもすると、あとでコトだから、やめてくれ」
「なんでだ! なんでおまえまでダークロット卿と同じことを言う!?」
ヒステリックな高い声が通路に響き渡り、言葉を交わしたことのないダークロット隊長の気苦労がフェイリルにのしかかった。
その心中に冷たい空気が吹き込む。顔から一切の感情が消えてつかんだ腕をひねり上げようと手首を返した。
しかし、関節を締める前にその手首をミェルニルが押さえ、くすくす笑って間に入ってきた。
フェイリルは手を離すと無表情なまま退き、抑揚のない低い声で言った。
「なんのつもりだ、ミェルニル」
先輩は大袈裟に驚いた風を装う。
「おお、怖い──あんた、そんな顔もできるんだ。でも、そのセリフはそっくり返してあげるわ。いったいどういうつもり?」
フェイリルの目がミスティオルを一舐めする。
腕をねじあげられそうになったことに気づいていないミスティオルはキョトンとしていたが、二人の険悪な雰囲気を悟り、戸惑いの表情を浮かべた。
フェイリルは両手をあげて首を振った。
「悪かった。つい、な」
「あんたがここに一人で送り出された理由がわかったような気がする」
「冷たいね」
「それはそっちでしょ。無知に罰を与えるのは、学校のテストだけで充分よ」
スッキリしなかったが、フェイリルは冗談めかしてニヤリと笑顔で返す。
「すまなかった。俺が間違っていたから、ここは任せる」
それを見て、二人はホッとしたように緊張を解いた。
それから彼女たちは地図を広げて話し込んだ。
濡れた壁を避けてフェイリルは背もたれると、二人が道順を確認しているのを無感動に眺めた。
やはり、まだ胸の奥に焦りのようなものがあり、少しずつ大きくなってきた。
この不安には覚えがあった。
少し前の話になる。
約二年前にモルガンヌ北部地方にある険しい山岳と入り組んだ海岸が背中合わせの地域で北方部族との小規模戦闘があった。
モルガンヌはマヴィオリ帝国内では安定した強国と位置づけられているが、最北の辺境には昔ながらの生活を堅持して領主に従順ではない部族が未だに多い。
そういった部族は後先を考えずに反抗して、武力に訴えることを手段として頻繁に活用した。
大抵は辺境領地を所有する現地領主の騎士団が治安維持にあたるのだが、豊かではない領地の主には必要なだけの兵力が確保できない。
そのため、手におえないときには主君であるモルガンヌ王に救援を求め、王はそれに応えて近衛の兵を派遣するのだ。
そのときも典型的な武力衝突でフェイリルが所属する部隊に命が下った。
その作戦中に後方からの補給物資が届き、部隊で受け取りに移動していたときのことだった。なぜか落ち着かずに同じように感じたことがあった。
受領地点は前線より下がったところなので、比較的楽な任務のはずだった。
だが、蓋を開けてみると敵の待ち伏せに遭って、五十名の部隊が当時の部隊長を含めて半数が殺されてしまった。
その後、フェイリルは他の部隊に組み入れられ、三ヶ月後に紛争の終わるまで、 その地で戦闘に参加することになった。
二人が心配そうにフェイリルのほうを見た。
不安を払拭できないフェイリルは深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着けた。
おそらく考えすぎなのだろう。多少の危険は常にそこかしこに転がっている。
要は、それをいかに避けるか、その一点にすぎない。
──少し怯えていたのか?
得体の知れない迷宮に一人で送り込まれて、気持ちに少し疲れが出てきたのかもしれない。
フェイリルはにこやかな笑顔で二人に近づいた。
「やあ、決まったかな」
うむ、とミスティオルが自信満々に言った。
「私が先頭だ」
「そうか」
「道順は覚えた。どうか国人として主を信用してほしい」
「ミェルニル先輩が大丈夫と判断したのなら、文句はない」
猛禽類に似た顔が渋々頷くと、彼女は嬉しそうに笑った。
ただし、とフェイリルは付け加える。
「自分の技量はしっかりとわきまえておくんだ。危険が迫ったときに自分にできないことをやろうとして死んでいった奴はたくさんいる。いざとなったら、チームワークを武器に各人が力を尽くすしかない。そのとき、誰かが無茶をして戦列を乱せば、別の誰かの背後が危険にさらされる。わかったな」
「む、理解したぞ」
お嬢様騎士は神妙に頷いたあと、先頭に移動しながらこっそり独り言を呟いた。
「男のくせに説教の長い奴だ。乳母のセドリスにそっくりだぞ」
「聞こえてるんだが、な」
と苦々しくフェイリルは言う。
「不平ではない。事実だ。許すがよい」
動じずに応えたミスティオルはすたすたと歩いていった。
このふてぶてしさには一目置くフェイリルであった。
ため息を聞いてミェルニルは含み笑いを洩らす。
「さ、行くわよ。あたしがしんがりを続けるから、フォローをお願いね」
「面倒を押しつけたな」
恨めしげに睨むと、彼女は心外だと言い返した。
「そんなことはない。あの子、意外にあなたを信頼していてね。あなたがダメ出しするなら諦めると言ってた」
フェイリルの口から再度無念のため息が洩れる。
「わかった。俺はあのお嬢様の信頼には応える」
「いろいろとチャレンジして少しずつできることを増やしていかないと、あの子も生き残れなくなるわ。この閉鎖迷宮でいつまでもまともな主従関係なんて続かないから」
「なるほど……意外に優しいんだな」
言うや否やミェルニルの靴先がフェイリルの向こう脛を蹴りつける。
「オホホホホ、これでも優しいかしら?」
苦しむ男を見て灰色がかった黒髪の女は柔らかさのまるでない笑顔を見せた。
「なんでもあたしは冷たい女らしいから──ほら、さっさと行きなさい!」
根深いネタになったな、とフェイリルは内心辟易しながら進行方向へ向きを変えた。
そして、ミスティオルを先頭にして一行は再度出発した。
二十分も歩いた頃、水の量が増えた気がしたフェイリルは壁を見た。
水気が適度なのか苔むしたところもあり、乏しくても光があれば光合成ができることに感心をする。
さらに十分の後、今度は空気中の湿度が高まり、白い霧が出始めた。
これだけ寒い迷宮内では温泉の湯気はあっても、霧は発生するわけがない。
不安が募ったフェイリルは、前を歩く新米水先案内人に警戒するよう声をかける。
「ミスティオル、距離をあけるな。この霧はちょっとよろしくないぞ」
吐き捨てるようなセリフが返ってきた。
「霧に脅怯するとは、情けない奴め。それでもカゥライエンに身命を捧げると誓った男か」
「国人までは認めたが、そこまでは言ってない」
するとミスティオルはくるりと振り向き、上から突き下ろすようにして指を突きつけてきた。
「貴様! 霧は水源豊かな森林の国カゥライエンの象徴である! その霧は神聖にして恵みの源なのだ。それを、それを……貴様はぁ!」
ポカポカと殴り付けてきたカゥライエンのお嬢様騎士から距離をとろうとバックステップする。
その背後から剣の鍔が鳴る音が聞こえた。
すばやく視線を走らせるとミェルニルが腰の剣に手を添えていた。
フェイリルは反射的にミスティオルの両肩をつかんで自分と位置を置き換える。
「どうした、先輩?」
ミスティオルの頭越しに見えるミェルニルの顔は先程と比べると少し緊張して見えた。
「ちょっと用心のためにね。……実は二年ほど前から迷宮のなかにたまに霧が出るのよ。妙な話だけどね。で、そのときに必ずってわけじゃないけど化け物が出ることがある」
「どんな奴だ?」
記憶を呼び覚まそうと形のよい眉の間にしわが寄る。
「確か『ボダッハ・グラス』だったかな。でも、灰色の影みたいな外見だから、みんなグレイマンと呼んでる。人間の生き血を吸うそうよ。ちなみにあたしはまだ出喰わしたことはない。だから、念のために、ね」
フェイリルは唐突にミスティオルを放すや振り向いて前方に目を向けた。耳には金属がカチャカチャと立てる耳障りな音が届いていた。
フェイリルの手が腰の剣に伸びる。だが、その手は元の位置に戻った。
微風によって形を変える霧から現れたのは武装した人間の集団であった。
その腕には迷宮探索ギルド外廻り組を示す藍色の腕章をつけており、武器以外の荷物は持たずに十人ぐらいはいるようだ。
見通しの悪い回廊を無言でやつれた感じの男たちが前進する様は罪深い亡霊が出口を求めてさ迷い歩くかのごとくであり、そのまま消え去ってもおかしくない雰囲気だった。
フェイリルは鷹の鋭い眼をすうっと細めて自分から声をかけた。
「よう、精が出るな」
先頭に立つ男が警戒して立ち止まって身構え、三人にきつい視線を投げかけてきた。
「なんだ貴様は?」
言いつつ右手を上げて部隊の歩みを止める。
フェイリルは手のひらを見せて敵意のないことを示し、身分を明かした。
「こちらはモルガンヌ・ギルドの探索チームだ。そっちは迷宮探索ギルドか?」
男は、うむ、と返して黙った。
ミスティオルが元気よく言葉をつないで所属先を変更した。
「我々はカゥライエン・ギルドの者である。瘴気を祓う薬草を集めに来たんだ」
男は短い髭に覆われた頬を怪訝そうに動かした。
「たった今モルガンヌ・ギルドと聞いたはずだが……」
信憑性を損なう苦笑を浮かべてフェイリルは弁明をした。
「カゥライエン・ギルドは多くのギルドを包含する。知らないのか?」
「知らんな」
ミスティオルは無知を憐れむように言う。
「知らんのか? ここはどれほどの田舎なのだ」
そして、心底驚いているように見える彼女のおちょぼ口が滔々と解説を並べ立て始めた。
「わかっておらんようだから教えてやるが、カゥライエンはすべての王国の始まりであり、すべての国の王は血筋をたどるとカゥライエン王家へとつながる。そもそもカゥライエンの建国は三千年前に遡り───」
そのあと約二十分間のミスティオルによるカゥライエン講座が続いたが、立ち話にも関わらず探索ギルドの男たちは我慢強く最後まで話を聞いた。
ただし、周囲への警戒は怠らずに、常に視線を走らせてはいたが。
「───というわけで現カゥライエン王位はデースティン公から弟である伯父上に継承されている。わかったか、この痴れ者どもめ」
得意気に話すミスティオルは最後を極めて無礼に締めくくり、ある種の尊敬の念をフェイリルに抱かせた。
そして、探索ギルドの男たちのゆったりした聴きっぷりは、それ以上に真の大人の対応というものを教えてくれた。
ミスティオルが拍手喝采を待っていたが、リーダーらしい短い頬髭の男の反応は淡々としたものだった。
「うむ、理解した」
むしろ理解しないほうがよい内容だが、そこまで迎合するのは感心できない、とフェイリルはうなだれる。
カゥライエンの伝道師が気持ちよくもう一席ぶとうとしたので、慌てて前に出る。
伝道師はブツブツと文句を言いながらも下がった。
フェイリルは男より頭ひとつ高い位置で咳払いをした。霧が濃すぎて、深く吸うと気管支が過敏に反応してしまう。
「すまなかったな」
「いや、勉強になった」
「ところでこっちにも少し教えてくれないか。おまえさんたちは、いつから探索をしてる?」
「どういう意味だ?」
男は不審そうに問い返す。
フェイリルは寒そうにマントを引き寄せた。
「いや、気を悪くしないでくれ。あまりにも軽装すぎるから、食糧はどうしたのかな、ってね」
「食糧は───ベースキャンプにおいて普段持ち歩かない。探索は十日目だ」
「そうかそうか……」
カチャリと音がしてフェイリルは背後で柄に手を載せるミェルニルの姿が想像できた。
その早急な対応に舌打ちして会話を続ける。
「そう言えば、あんたたちはカルスツール砦の人か? 俺たちもあそこから来たんだが」
「いや……」
男は口ごもった。
代わりにフェイリルがにこやかに言い繋ぐ。
「そうか。なら、『冥き泉の街』からきたのか?」
「ああ、そうだ」
不信をありありと浮かべたフェイリルの顔が先輩を振り返る。
細剣を右手に持ったミェルニルが顔面を蒼白にして通路を横へ広がり、目配せしてきた。
フェイリルも非公式パーティーとして追い剥ぎ行為は警戒すべきと思ったが、抜刀は早すぎた。
やむを得ずミスティオルを後ろに押しやり、注意を引くように大声で言った。
「それはそうと、今は大規模な遠征が行われていて、人が足らない時期らしいな。公式な探索はあまり実施されていないんだとさ」
男は質問の意図を悟ったのか警戒して一歩後退する。
「我々は非公式に活動している。いったい何のつもりだ?」
「確かにこっちも私的な活動だが、街の出入りを厳しく管理している男の話では、俺たち以外に街を出たチームはいない、と聞いてる」
「オーヴェルヌか。奴には黙っておくよう言い含めてある」
疑わしげな表情でフェイリルはようやく剣を抜いた。
あの頑固で職務に忠実な男がそんな命令をきくわけがない。
そのとき、球からの光が弱くなった気がした。霧の白さのなかに黒い靄がまじり、ただでさえ肌寒い気温がさらに下がり、吐く息さえ白くなった。
唐突にフェイリルの体がおこりのように震え出した。荷物を落とし、立っていられずに膝をつく。
通路の後方から五感を痺れさせるような強烈な気配が現れた。
頬髭の男はギョッとして跳びすさる。
異変に気づいたミェルニルは剣で探索ギルドの男たちを威嚇して、フェイリルに近づいた。
「あんたたち、フェイリルに何したの!?」
「何もしてはおらん」
「信じられないね!」
緊張の走る顔を睨み付けるミェルニル。
フェイリルは剣を落とさないように強く握り、辛うじて言った。
「……違う……そいつ、じゃない……来るぞ!」
背後から魂が凍えるような冷たい突風が吹きつけた。風に乗って黒い影が躍り来る。
影の手には白銀に輝く巨剣が握られていて、その刃が閃くたびに壁や石畳をバターのように削り取っていった。
人影は黒い霧に覆われて正体がわからなかったが、不釣り合いな巨剣を扱う黒い袖の細腕と黒い籠手を嵌めた腕先だけが見えた。
黒い霧の人影は足音を一切立てず、宙を移動するように動いて剣を振り上げた。巨大な刃が天井を切り裂き、フェイリルを襲った。
臓腑を蹂躙する悪寒に耐えて長剣を上げて受け止める。堅牢な刀身に巨剣の刃が食い込み、支えられずに体ごと弾き飛ばされた。
そして、フェイリルはそのまま壁際に倒れ伏してしまった。