MAP No.17 カルスツール砦──誘う女
カルスツール砦は槍の穂先のように尖った岩々の狭間にあった。
稜線にのった建造物は薄く降り積もった雪を思わせ、石灰のスレート屋根が黒い火成岩の間から幾つも覗いている。
集落の端から先は急斜面の山肌となり、建物のある土地は幅が三十メートルもなく、奥行きも五百メートルほどだ。山の尾根の猫の額ほどの狭く細長い土地に人間の生活圏があるのだ。
迷宮にあったみすぼらしい木製の扉は尾根道に繋がり、おっかなびっくりした三人は足下を確かめながらそろそろと進んでいった。
迷宮内よりも冷たい風が身を切る寒さで吹きつけて鳥肌が立ったが、澄みきった空気と茜射す青空が心地よかった。
十五分とかからずに集落に行き着き、入る直前に振り返ってみると、尾根道の先はより高い峰につながっていて、その途中の山肌に埋め込まれたような異質な扉が見えていた。
この違和感のある光景に納得のいかないモヤモヤしたものを抱えたフェイリルは二人に続いて砦に足を踏み入れた。
カルスツール砦はディナス・カルスツールと呼ばれる迷宮探索ギルドの拠点であり、駐留人員が二百人程度の集落を形成している。
大小様々なギルドから派遣された人々がこうした中継地点を経由しながら探索をおこなうため、長期滞在や定期的に実施される大規模遠征の経由地として耐えられるよう宿泊施設や貯蔵庫を多数抱えるとともに、妖怪や妖精の襲撃を防げる要害としての機能もあった。
そのため、人の居住区の周りは斜面に腰丈の低い石垣が巡らせてあり、黒く平たい石が積み上げてあった。
石垣の内側では尾根道に沿ってまだ水平に近い土地に家が建てられ、建物と建物の間には青みを帯びた黒い岩が山を突き破って幾つも天を差す。
足下には緑の下草が剥げかけた絨毯のように点々と大地にへばりつくのが奇妙なまだら模様に見えた。
砦の体をとってはいるが、運営スタッフにより普通の生活を送っている村の様相も兼ね備えており、武装した人たちが忙しそうに立ち働いていた。ただし、幼い子供たちの姿はなかった。
滞在経験のあるミェルニルは勝手知ったる砦の中をすたすたと進み、中心にある一番大きな建物へ入る。
屋内は『冥き泉の街』にある迷宮探索ギルドと同じ造りでカウンターが左右に別れて設けられいた。左にマップカウンター、右に探索カウンターである。
先輩は誰もいない探索カウンターに行くと、ハンドベルで人を呼んだ。
すると、奥から目付きの鋭い男が現れた。その男は自分を呼び出した若い女性に手を振って挨拶に代え、両腕をカウンターに載せた。
男は四十代前半といったところで、初見のフェイリルとミスティオルにも慣れた様子で警戒の目を配る。しかし、少なくとも敵ではないと判断を下して日に焼けた顔に歓迎の微笑を浮かべた。
「ミェルニル……この前会ったときからあまり日が経ってないが、急ぎの用件でも入ったのか?」
「う~ん、ちょっとね。非公式にカゥライエンのヘルプを……」
「歯切れが悪いな。しかし、非公式にとは、貸し借りを好むモルガンヌ・ギルドらしくない」
男が息を吐きながら重々しくそう指摘すると、ミェルニルはさあねとフェイリルを横目で見た。
男はすぐに悟って話しかけた。
「おまえ、モルガンヌの新入りかね?」
フェイリルはよそ行きの澄まし顔で答える。
「そうだ。俺はフェイリル・マリアティッティ。ミェルニル先輩の忠実な下僕──痛ッ!」
脛を蹴られて顔をしかめた。
男は蔑むような一瞥の後、ギザギザした切れ込みのある耳をかいてミェルニルに顔を戻した。
「相棒は慎重に選んだほうがいい」
「腕は確かなんだ、これでも」
「ふ~む……」
腕組みをして男は考え込んだ。そして、ミスティオルにも目を向ける。
「お嬢ちゃんもモルガンヌかね?」
そのあやすような扱いにミスティオルは鼻息荒く言い返す。
「むむッ! お嬢ちゃんではない! ましてやモルガンヌの厚顔無恥どもと一緒にするとは何事ぞ! 我が名はミスティオル=ストーマ=デースティン、カゥライエン国はデースティン公の娘にして、カゥライエン最強の第十三独立強襲騎士団『ハイ・カイラル』の団員だ!」
さらに高々と右腕を振り上げてのたまった。
「全騎士団中で恐らく三本の指に入る騎士だぞ?」
男は首をひねった。
「『恐らく──だぞ?』とは?」
苦笑いをしながらフェイリルが代わりに答える。
「いや、彼女は間違いなく最強クラスの騎士だ──なんというか──魂的に。モルガンヌ人の面前でモルガンヌを罵倒できるぐらいだ。絶対に間違いない」
理解に苦しむと男は目でミェルニルに助けを求める。
ミェルニルも苦笑しながらわかりやすく解説した。
「この男のセリフはかなりおちゃらけていい加減だから、聞き流してもらっていいよ。彼女が依頼主で、ま、見た通りの人物。ただし、フェイリルは相当の腕っこきよ──」
ミェルニルはカウンターに身を乗り出すや自慢げに連れの戦歴を披露する。
「──ビギナーのくせにこの数日での戦績は二戦二勝で、ひとつはヘッドレス・ライダーを奇襲で撃破、もうひとつはつい二時間ほど前のことだけど『失われた英雄』をサシのガチで撃破」
途端に男の顔色が変わり、仰け反って驚嘆の声を発する。
「マジかよ!?」
「大マジ」
男は信じられないとフェイリルをしげしげと眺め、のっそりした口調で尋ねた。
「『失われた英雄』だぞ。一対一で相手ができる人間はほとんどいない。どうやって倒したんだ?」
「気合とお色気で」
「確かに聞き流すに値する回答だ」
男の顔色が怒りを示したので、フェイリルは慌てて言い直した。
「訂正する。奴より俺のほうが腕と剣が少し長くて、運が良かっただけだ」
顔が良かった、 という言葉は呑み込んでおいた。
男は表情を和らげて頷いた。
「そうか。今度機会があったら詳しくその話を聞かせてくれ」
「喜んで」
男はミェルニルに愛想のない顔を向け直す。
「ふ~む……少人数すぎるパーティだが、まあ、よかろう」
腕組みをほどき、憂いを含む眉のひそみをといた。
「迷宮探索ギルドは『欠けたる月の鉄鎖宮』を探索する万人に対して開かれている。おまえたちを歓迎しよう。俺の名はカザックだ。このカルスツールの責任者だ。よろしくな、二人とも」
フェイリルは頷き返したが、ミスティオルは金髪のボブカットを揺らしてそっぽを向いてしまった。お嬢ちゃん扱いがよほど腹に据えかねたらしい。
そんなことはさておきと、ミェルニルはカウンターをノックしてカザックの注意をひいた。
「早速で悪いけど、今晩泊めてほしいの。部屋はあいてる?」
「ああ、がらがらだ。大規模遠征の部隊が戻るのはまだ少し先だからな。ところで、どこまでいくんだ? このところ騒がしくて危険な奴が浅い階層まで出歩いているらしいから、少し様子を見たほうがいいんだが」
ミェルニルは小さく唸り、ミスティオルをちらりと眺める。
「第五階層の『林のある平地の部屋』まで」
「また、微妙な危険地帯へ……」
とカザックの節くれだった指が四角い顎を撫でる。
「あたしは行ったことないんだけど、危険なの?」
「微妙にな。本来は嘆き姫のご加護のある安全な部屋なんだが、最近不安定でな。そう遠くないうちになくなるかもしれん。ま、狭いし敵はいないが、第五階層は三人だけでは心許ないぞ」
忠告され、ミェルニルの薄赤色の唇が困ったなと尖る。
「ん~、ちょっと急ぎ、らしいのよね」
「らしい、とはらしくない」
「あたしも理由は知らないの。非公式にしたい理由を含めて、ね」
カザックの落ち着いた鳶色の瞳がミスティオルを静かに見つめた。
魂的に最強クラスと太鼓判を押された女騎士はしばらく耐えていたが、やがて泣きそうな顔になってフェイリルの背中に隠れてしまった。
川の急流のようにカザックとミェルニルの強い視線がフェイリルの頭部を直撃する。
先程のモルガンヌ厚顔無恥発言の仕返しにフェイリルは背中にしがみつく娘を突き出してやろうかとも思ったが、諦めてため息まじりに説明した。
「実は……このミスティオルが迷宮に来て以来お世話になった御仁が瘴気にあたってしまって、その恩返しに『瘴気祓いの薬草』を採ってきてあげたい、のだそうだ」
カザックが無愛想な顔に似合わず優しい笑顔で感心したように頷いた。
「『ヒカリヒメクサ』のことか、なるほど。確かに安全に採集しようと思ったら、あの部屋しかないな。ま、助け合いはこの迷宮で生き抜く秘訣であり、人生を豊かにする秘訣でもある。とてもよいことだ」
「ここにはないのか?」
もっともな問いかけにカザックの顔が曇る。
「悪いが品切れだ。大規模遠征隊に分けてもらおうと考えている」
そして、下の棚から鍵を取り出してカウンターにおいた。
「さあ、ニジマスの──この家を使っていい。寝室が二つあって、ベッドは計四つある」
「ありがと」
礼を述べてミェルニルは木彫りの魚の飾りがついた鍵をつかみ取った。
フェイリルとミスティオルはミェルニルの後について迷宮探索ギルドを出ると、ギルドより奥へ向けて少し歩く。すると、すぐに鍵の木彫り細工と同じニジマスをかたどった飾りが玄関先にぶら下がっている家を見つけた。
灰褐色の石灰スレートが瓦として屋根に積まれており、壁は石造りに白い漆喰を塗った堅牢なもので狭い土地にこじんまりと建てられていた。
建物の裏側では急激に土地が落ち込み、そのギリギリのところに低い防塁が築かれていた。
ミェルニルが鍵を使い、扉を開けて屋内に入ったので、二人も続いた。
入り口の内側は思ったより天井が低く、三本の細めの丸太が梁として渡してあった。
入って左右に寝室があり、男性は右、女性二人は左の部屋を使うこととした。
フェイリルは装備を外して肩の荷を下ろすと大きく伸びをする。しかし、ゆっくり休む前にひとつやっておかなければならないことがあった。
使い慣れた長剣だけを身に帯び、寝室を出てミェルニルを呼ぶ。
「なによ? 装備の手入れがあるんだから、用件は手短に頼むわ」
革鎧を脱いでシャツにファー付きベストの姿で現れたミェルニルの言葉は素っ気ない。
フェイリルは親指で玄関を差して小声で言った。
「ちょっと話せないか」
「……ま、いいけど」
「じゃあ、外に出よう」
「わかった」
外気が室内より寒く感じるのは、峰を吹きすさぶ山風のせいだろう。先立って外に出たフェイリルは寒さのあまり立ち止まり、黒いマントを身に引き寄せた。
それに比べてミェルニルは寒そうであっても、体で表現するほど辛くはないようだった。背の高い男の情けない格好をせせら笑って建物が風の陰になるところまで連れていった。
集落と外の世界を隔てる低い石垣までいくと、ミェルニルは石垣に腰を下ろして隣を二度叩いて座るような仕種をした。
フェイリルは石垣から伸びる急勾配の遥か先を見下ろして顔色を青くする。この石垣は外からの侵入を阻止するためよりも、内側から誤って落下するのを防ぐためだとわかった。
怖がって座ることをためらっていると、ミェルニルがバカにした声で話しかけてきた。
「高いところは苦手なの?」
「ま、ボチボチだ」
「怖がるなんてがらでもない。それに寒がりすぎ。これぐらいの気温は温かいぐらいよ。北国モルガンヌの国人ならシャキッとしなさい」
フェイリルは下を見ないようにして石垣に腰を下ろした。
「悪いな出身は南の平野──マルツィト州だから、寒さは苦手だ」
「高さも、でしょう。腕はたつけど、順応性が低いわね。あんたの上司もどうしてこんな偏った奴を一人で寄越したのかしら」
「右に同じ。何でも、俺にしかできない、とか言っていた」
「えらく信頼されてるんだ」
「みすみすおっ死ぬのに他の奴は行かせられない、とも」
ミェルニルの顔が軽蔑と同情をないまぜにした複雑な表情を形作った。
「とんでもないことをさらっと言ってくれるな。それであんたは何て言い返したのよ」
「サー、イエッサー!」
「あんた、バカでしょ」
呆れ顔でそう言われたフェイリルは人差し指をピンと立て、ニッコリと微笑んだ。
「お、鋭い」
怖い顔で睨まれて微笑みは淡雪のごとく溶け去った。
妙齢の女性から受ける蔑視に耐えかね、急いで真面目顔で言い足した。
「命令は救出任務だったし、敬愛するさるお方からの期待もある。適当に受けたわけじゃない」
「あっそう。この迷宮から脱出できた人は今まで誰一人いないのよ。単に厄介払いされただけじゃない?」
冷たい指摘にも関わらず、猛禽類に似た顔には不敵な笑みが浮かんだ。
「それはない。うちの部隊長は真剣だった。救出については、完遂しないと素手で解体してくれると脅されてるくらいだ。それにいろいろ貴重なものらしい魔法の品々も預かってきてもいる」
「ふ~ん、あんた、魔法も使えるんだ」
珍しく称賛のこもった言葉をかけてもらえたのだが、礼を言う間もなく背後から強い風が吹きつけてフェイリルは寒さしのぎに腕組みをした。
いっこうに寒くなさそうなミェルニルは風で乱れた短い黒髪を撫でて整える。薄く灰色がかった黒髪はうなじで白い肌にとって代わられて、ファーのくすんだ白色の下にその雪の白さは消えた。
ただ寒さに粟立つ様子がはっきり目に写った。
思わずその仕種に見とれていたフェイリルは舌打ちをして、一言呪文を呟いた。
仄かな暖気が周囲を取り囲む。
ミェルニルが少し驚いた顔をしたが、すぐに余裕の表情に戻った。
「ありがと。あんたもたまにはさりげない気遣いができるのね。その救出する相手はどんな人なの? 仕方ないから、今度暇なときにあたしも聞き込みぐらいはしてあげる」
「そりゃ助かる。実は三人の貴婦人らしいんだが──ええっと──一人は『ライオンの皮をまとった少女』、もう一人は『泣きやまない姫』で、最後の一人は『黒いベールに顔を隠した娘』の三人だそうだ」
「貴婦人の定義を大きく覆してくれるわね。それで、謎めいたセリフはおいといて、その人たちはいったいどんな人たちで、どこに囚われているの?」
「いや、それだけ」
フェイリルが悪びれずにそう言って両腕を広げると、ほとほと呆れ果てたとミェルニルは頭を落としてため息をつく。
「よくそれでここに来ようと思ったなあ。最初の二人はおとぎ話に出てくる人になぞらえているから鉄鎖宮に関連する人物と考えて対象を捜索するのも一つの方法だ」
ここでフェイリルは少し迷った。
『嘆き姫』はこの迷宮に暮らす人間にとって信仰であり、また語り伝えられた昔話にすぎないのだ。宗教的な無形文化遺産と言ってもいい。
実体のない信仰対象に血肉を与えるようなことを言えば、おおむね頭のなかを疑われるに違いない。
だが、自分自身でも半信半疑にもかかわらず、フェイリルは衝動にかられて言葉を吐き出した。
「実は『嘆き姫』は生きているらしい」
ついに壊れたかと気温以上に寒々しい憐れみの視線が寄せられる。
フェイリルはそれを甘んじて受けた上で妖精君主アーリィの話を披露した。
知らないところでおこなわれた密談に不快な顔をしたが、彼女は強い口調で言った。
「そう。あの翅虫はあなたを助けたのね。そして、あなたは嘆き姫を助ける約束をした、と」
そして横を向き、腕組みをして深く考え込んでしまった。妖精に否定的だった彼女の態度からあまり好ましくないことを考えているのであろうことは想像に難くない。
フェイリルが戦々恐々としばらく黙って待っていると、彼女の口が開いた。そこから出た言葉は信じられない内容だった。
「ねえ、フェイリル、その嘆き姫の救出にあたしが手を貸してあげるから、一緒に最下層を目指してみない?」
想像もしなかった申し出にフェイリルは豆鉄砲を喰らったようにポカンとしたが、数瞬で我に返り、泣きボクロのある顔を見つめた。
思考に集中している彼女の顔は表情が乏しく、真意を図りかねて問い返した。
「任務に必要なことなら、まったく異論はないが。急に他人の仕事を手伝おうなんて、どうしたんだ?」
「あたしはこの迷宮の最下層に行きたいの。そこにはこの迷宮の出口があると言われている」
ミェルニルが教え諭すように言う顔には強い決意が感じられ、フェイリルは黙って続きを聞いた。
「あたしはこの迷宮から脱出したい。あなたも救出が成功したあと脱出しないといけない。つまり最下層にはいずれいかなければならない」
「脱出できた奴はいないんだろう? どうしてそれで最下層から脱出できると言える」
彼女は意味ありげに見返してきた。
「そういう話を流布させたのは迷宮探索ギルドよ。正確に言うと、迷宮探索ギルドに多く加入している〈預言眼〉の持ち主たち──嘆き姫から言葉を授かると自称している人たちなの」
「まてよ。とすると、嘆き姫の臣下らしいアーリィが嘆き姫が生きてると言ったことが嘘じゃないとしたら──」
考えるように切った言葉をミェルニルが継いだ。
「──まだ存命の嘆き姫が迷宮について脱出方法とか何かしらの示唆を与えていると考えられるわけよ。おとぎ話の人がと思うと眉唾な気がするけど、その先入観さえ除外すれば、彼女はこの迷宮のことを詳しく知っているはず。嘆き姫が伝説通りの人物なら、脱出方法について期待してもあながち的外れじゃないと、私は思ってる」
興奮した彼女の顔は少し赤みが差して、黒い瞳がキラキラと輝いていた。シャープな輪郭が夕陽に映えて、とても美しいものが目に飛び込んでくる。
その美しさにフェイリルは思わず無条件に受け入れそうになった。
そこは意識的に踏みとどまって指摘した。
「一つ忘れているようだが、最下層では悪魔と契約して『失われた連中』になっちまうんじゃないのか?」
「え、い、ゆ、う、よ。そもそも悪魔との契約を結ばなければいいだけのような気がするけど、それが許されないことなら、嘆き姫を助け出して情報を入手して対策を立てるしかないわ」
「ふむ。いいだろう。これまでが手探りだったから、少し先が見えた気がする」
猛禽に似た顔がニヤリと笑うと、ミェルニルの肘鉄が不愉快そうに肋をどつく。
フェイリルは情けない悲鳴を上げた。
「ひどいな! ミェルニル先輩、ようやく本当の相棒になったってのに!」
「もっと爽やかに笑いなさいよ。なんでそんな風に腹に逸物あるように笑うの!?」
「逸物はその下……なんでもない。俺が悪かった」
フェイリルはミェルニルの怒気に恐れをなして発言を撤回した。
蔑みもあらわに彼女は立ち上がる。
「次に下ネタを会話にまぜてきたらペナルティね」
「お手柔らかに」
「そんなことより、そもそもあたしはなんでこんな寒いところに呼び出されているのかなあ?」
デキの悪い生徒を誘導するようなセリフを浴びせかけられ、フェイリルは苦笑とともにゆっくりと立ち上がった。
「ん? ……ああ、忘れてた。今回の探索のことなんだが、カゥライエンの騎士たちがヘッドレス・ライダーの瘴気にあたって寝込んでしまったことが発端だ。街では薬を切らしていてね。次回の入荷まではどうやら待てなさそうだから、自分たちで採集に来たのさ」
想像の範囲内である内容にミェルニルはため息をつく。
「ま、そんなところよね。それより、秘密なんじゃなかったの?」
「ミスティオルも本来、この迷宮で頼るべきは、ビギナーの俺じゃなくて、ミェルニル先輩だろ」
今度は鼻で笑われた。
「でも、なんで非公式にしてるの? 所属ギルドのバックアップが受けられないじゃない」
「あのお嬢様のことだ、カゥライエン・ギルドで冷たいあしらいでも受けて、ギルドの意向なんかお構いなしに、いや、そもそも許可をとることすらせずに近所の有力ギルドに駆け込んだに違いない。だからさ──」
フェイリルが最後まで話す前にミェルニルは踵を返した。泣きボクロのある横顔が艶のある流し目で笑っていた。
「聞いてないことにしてあげるわ」
そして貸家のなかに戻っていった。
寒風が通り抜けてわずかな暖気は散り散りに消えていき、一人取り残されたフェイリルはマントを体に巻きつける。強風に煽られながら空を見上げた。
少しずつだが、この迷宮は単なる遺跡ではなく多くの隠されたもので構成された鉄の鎖の監獄であることがわかってきた。
過去の謎の一つは《嘆き姫》の物語。
現在の謎の一つはミスティオルの人目を忍ぶ謎の行動。
そして未来の謎として、フェイリル自信が抱えている、赤毛の部隊長から託された任務の謎。
カゥライエンの騎士たちが、オーヴェルヌが、その他の多くの者がなにがしかを心の奥底に秘めている。
フェイリルは我知らず厳しくなった表情を消した。
夕闇に包まれつつある空には飛ぶように動く雲が見えるが峰々はひっそりとしてそんな様子は微塵も感じさせない。少しずつだが形を変える雲は人間を、対してまったく動じない山はこの迷宮を連想させた。
フェイリルは峰渡る風に深山の息吹を感じ、胸一杯に吸い込むと遣い慣れた長剣を抜き放った。
考えが過ぎると、迷いが生じる。迷いは判断を遅らせて死を招き寄せる。
マントをなびかせてフェイリルは、迷いを断ち切るべく剣をゆっくりと振り始めた。彼の型稽古は、太陽が地平の下へ隠れ去り、ミスティオルが夕食に呼びに来るまで続いた。