MAP No.15 迷える小路──彷徨える幻影
『滝上』のあばら屋で一晩過ごした感想としては、戸外で寝るよりはマシという程度だった。とは言え、それでも野宿せずにすんだ満足感からか、翌朝には疲れが抜けて体が軽くなった気がした。
朝食をすませてから出発し、すぐ近くにあった下り坂を通って第三階層に入った。
それから三時間もたたないうちに第四階層にたどり着いたのだが、そのあとが長かった。
第四階層に入ってすぐは曲がりくねった道であった。そこから粗い石組みが続く分かれ道の多い通路に入った。
そこまでは順調だった。
その先をしばらく進んだ後、これまでとは違った雰囲気の五叉路に出くわし、そこで薬草採集御一行は立ち往生することとなった。
フェイリルは左右の壁を形成するゴツゴツした岩を眺めた。
白っぽい岩だけでなく黒灰色の岩がまざり、ところどころに酸化した鉄分らしき赤紫色も点在する。ザラザラした肌触りからもありふれた玄武岩ばかりであることは一目瞭然だった。
御一行が取り立てて立ち止まる場所ではない。
しかし、立ち止まっているのはなぜか。それはどの道を行くべきかがわからないからだ。
フェイリルは小休止がてら背中から大剣を外し雑嚢とともに床におくと、今回の探索行の移動予定をおさらいした。
街→泉→野宿(滝上の小屋)→中継拠点(砦)→薬草採集地(部屋)→中継拠点(砦)→野宿(未定)→街
そして、今いるところは、中継拠点である砦のすぐ手前……のはずだった。
フェイリルの眼前で灰色がかった黒髪の女性が地図と睨み合いを繰り広げている。地図の読めない女、ミェルニル先輩である。
先輩探索者は自信なさげに言った。
「この五叉路は『迷いの小路』の奥の五叉路よね。こっちで間違いないはず──多分」
疑いを禁じ得ない二人の眼差しにたじろぐミェルニル。
「な、なによ……」
「いや──」
とフェイリル。
「──特に何も」
とミスティオル。
先輩の地図の読めなさが、まさか迷宮探索者として致命的なほど、というのはまさに誤算の極み。この事実の前にこのまま彼女に任せてしまってよいものか判断に苦しむ状況である。
おもむろにミスティオルが咳払いをし、重々しく言った。
「ミェルニル女史、貴女は疲れているようだ。少し休憩しないか?」
「は? さっき休んだばかりじゃない。これ以上休んだら間に合わなくなるぞ」
「そ、それは困る……」
女騎士はうろたえて口ごもり、目でフェイリルに助けを求めた。が、猛禽類に似た顔の上でも眉が波打つように歪んだ。苦悶の表情である。
物事にはタイミングというものがある。
本人が薄々気づいていることを指摘するにしても、相手が受け入れやすいときに言わなくては意固地にさせるだけである。
拾い損なった火中の栗を押しつけられ、フェイリルは恐る恐る口を開いた。
「先輩、質問がある」
案の定、不機嫌そうな顔が見返してきた。
「なに?」
「先輩のいう中継拠点『ディナス・カルスツール』はここからだとどういった道順になるのかな?」
「それはどういう意味?」
「今日中に着かない可能性があるなら途中に体を休める場所があるか確認をしておきたい」
「よっぽどあたしの道案内に信用がおけないらしいね」
トゲトゲしい声に対してフェイリルは疲れたように唇を開いて否定した。
「そんなことは言ってない」
「じゃあ、何でそんなことを訊くのよ」
「俺はご存じの通り職業軍人であり、このエリアに来たのは初めてだ。ここは冷えるし、安全を考えるなら、当然情報は確認しておきたい」
ミェルニルの顔に一瞬の迷いが見えた。
そこへ口を挟む愚行の名手。
「我々は何も疑ってはいない。ただ貴女が道に『迷った』のではないかと心配しているだけだ」
「迷ってなんかいない!」
ミェルニルは怒鳴り声寸前の声量でそう吐き捨てると、スタスタと一人で先に行ってしまった。五叉路を右端の通路へ折れ、ますます迷い込む勢いである。
ミスティオルはため息をつき、肩をすくめた。
その仕種を見て怒りにかられるフェイリル。
しかし、その怒りを形にしている暇などはなく、視界から消えたミェルニルの後ろ姿を追うべく重い荷物と大剣を担ぎ直した。
ガシャガシャと音を響かせて小走りに近づくと、彼女の足は早まった。
慌てて声をかける。
「待ってくれ」
ますます速度が上がった。ミスティオルは遥か後方においてけぼりだ。
第四階層の中でもこの『迷いの小路』は石積みが荒く、床石もでこぼこしたところが多いため、走りにくい。通路も狭いところでは大人一人分の幅しかないところもしばしばだ。
にもかかわらずミェルニルは速度を落とさず、次の三叉路を左に曲がる。
そこへ短い悲鳴が聞こえた。
フェイリルは舌打ちとともに荷物を投げ捨てて駆け出した。背中の大剣より遣い慣れた長剣を引き抜き、角を左に飛び込む。
すると、そこでは足を止めたミェルニルが筋骨隆々の戦士と対峙していた。驚いたことにそれは人間だった。
その戦士は丸い兜をかぶり、上半身は赤銅色の素肌をさらしている。太く堅い革ベルトが腰をきつく巻きついており 大地がまだ熱かりし古代の闘士と形容したくなる装束だった。
背丈こそフェイリルより低いが瘤のように盛り上がった筋肉が凶悪なまでの腕力を想像させた。
フェイリルは不用意に剣を見せつけて刺激しないように充分注意をしながら近づいた。
「ミェルニル、どうした?」
「……」
問いかけに対し返事はおろか身じろぎ一つしない。
それどころか剣をすぐに抜けるよう肩の力を抜き、両の眼は睨みを利かせて男を牽制する。
ただ事ならない気配にその背後で立ち止まり、様子を見ることにした。
男は明らかな敵愾心に満ちた表情で二人を見つめてくる。ただ、どこか夢うつつで、待ちに待ったものとようやく遭遇できた喜びにひたっているでようでもあった。
男の手が腰の剣に静かに伸びる。
やはりな、とフェイリルはゆっくり前に出た。
ミェルニルが緊張した声でささやく。
「うかつに前に出ないで。『失われた英雄』だから」
「確か……それはこの間言っていたアレか?」
視線はそのままにして、彼女の口は長いセリフをひと息に喋った。
「鉄鎖宮史上で最深部へたどり着いた戦士というのは、これまでに幾人かはいたのよ。彼らは街に戻る途中や戻って数日のうちにみんな失踪して行方不明になったのよ。初めこそ皆脱出したものと思われていたけど、その後迷宮内で彼らの姿が見かけられ、しかも街の探索者たちを襲ってきたんだ。だから、今では、彼らは最深部で悪魔と契約して悪魔の戦士になり、迷宮を放浪し続ける呪いにかかってしまったと言い伝えられているの。でも、こんなに浅いところで遭遇するなんて話は聞いたことないわ」
「解説ご苦労。それで、外見が人間にしか見えないが、本当に敵なのか?」
「遭遇した探索者は例外なく襲われている。油断しないで。言い伝え通りなら最下層に到達できる手練れなんだから」
フェイリルは唇をぺろりとなめて荒々しい吐息を放った。
「わかった。ここは俺がひとあたりしてこよう」
「勝手なこと言うな! こいつはあたしがやる!」
怒鳴って彼女は細剣を引き抜くと、体格に勝るフェイリルを押しのけて前をふさいだ。
フェイリルは再度前に出ようと手を伸ばすが、時すでに遅く、男が剣を手に襲いかかってきた。狭い通路でミェルニルが存分に剣を揮えるよう後退を余儀なくされた。
眼前で激しい打ち込みが細い刀身に器用に受け流される。
入り組んだ細い通路では長い得物を振り回せる広さはなく、刺突を多用する細剣のほうが有利な状況ではある。
数合の後、ミェルニルの突きが男の左手首をかすめる。
フェイリルは口笛を吹いた。
彼女の戦いっぷりをじっくり見るのは初めてだったが、剣捌きは想像以上で、特に敏捷な身のこなしには目を見張るものがあった。
だが、相手はそれを上回る恐るべき遣い手だった。
さらに五合も打ち合うと均衡が崩れてミェルニルの旗色が悪くなり、八合目には剣ごと押し返され、たたらを踏んで後ずさる。
何とか助太刀に入ろうとフェイリルは左右の隙間を窺うが、一歩前進するたびに男の刺し貫く眼光に出鼻をくじかれた。
男はエラの張ったいかつい顔に豆粒のような小さい目の持ち主で、鋭い眼差しはギラギラと激しく輝く。
腕の振りもぶれがなく、ピタリピタリと剣先が揺れずに止まるのは手首が相当強い証拠だ。
フェイリルの顔に焦りが浮かんだ。
豆粒のような瞳には狂気にも似たキナ臭い気配が見え隠れしており、奴の攻撃には鈍る気配はない。このままではいずれミェルニルは一太刀浴びるだろう。
フェイリルはどこかのタイミングで突き入れようと剣の腹を左腕にのせて剣尖と視線を男の眉間に集中させた。
下っ腹に気迫を溜めて睨みつけていると、意外にも男は気を散らされたかのように小うるさそうな顔をした。おもむろに大きく横一線に薙いで強引にミェルニルを下がらせる。
フェイリルはそれに乗じて先輩の肩をつかんで大きく引く。彼女は崩れたバランスを正そうとさらに半歩下がって半身の体勢となる。
「あ!?」
ここぞとばかりにフェイリルは壁際とからひょいと飛び出て、まんまと前衛と後衛を入れ替えてしまった。
「やったな!」
背後でミェルニルが悪態をつくが、もはや左右に割り込むスペースはない。
「なんて危ない真似するのよ!」
「二列目だと、セクシーな後ろ姿を眺めるぐらいしかやることがなくてね」
とフェイリルは長剣を構えて男に選手交替を知らせる。
すると男は嬉しそうに笑って応えた。
背後ではミェルニルのセリフの文句が続いている。
「嫌な視線の正体はおまえか!」
「アジアィンス連峰の雪のような白い肌、その裾野に横たわるターリアェン湖を思わせるウェストからヒップにかけての優美なライン。まさにモルガンヌ美人の代表格だ。つまり、俺が意図せず見つめてしまうのは自然の摂理だ」
後退しつつミェルニルは軽口をたしなめた。
「ああッ! もう、勝手なことばかり言って! どれほどの強敵を前にしているのか、あなた、わかってる?」
「それはこれから確かめる」
フェイリルは不敵な笑みを浮かべてそう答えた。
そのとき、遠く離れたところからかすかに悲鳴が聞こえた。確認するまでもなくミスティオルの声だ。
ミェルニルの息を呑む音が聞こえ、フェイリルは早口にまくし立てた。
「説教はあとで聞く。悪いが、あいつのところへ行ってやってくれ! 気をつけてな!」
「あんたもね!」
納得のいかないミェルニルは無念の表情でそう言った。そして、身をひるがえして通路を戻っていった。
足音がある程度離れてから、フェイリルは改めて男に相対した。
戦士の赤銅色の肌にはさらに赤みがさし、丸兜の庇の陰から攻撃的な両目が見返してくる。
フェイリルは視線の先を定めずに男を全体で捉え、悠々と話しかけた。
「待ってくれるとは意外に紳士だな。さて、さっきの話が真実なら、あんたは人間ということになる。どうして俺たちにそんな殺気を向けてくるのか、その理由を教えてほしいな」
エラの張った顔が、薄ら笑いとともに左右に振られた。拒否という感じではなく、言葉が通じていないようだ。
再度問いかけた。
「マヴィオリの共用語はだめか? モルガノ語は? 何語ならいける?」
不意に頭上から鈴の音のような声が降ってきた。
「残念だけど、その者に人の言葉は届かないわ」
聞き覚えのある声。そして、頭上という意外な方向からの声。
これは妖精君主アーリィの声だ。続いて耳元で聞こえる。
「彼らは《憤激の支配者》の軍門に降った愚かな者。つまり、人間を駆り出すための猟犬の一匹。言葉や人間的な思考様式はなくしているのよ」
猛禽の顔を眼前の男から逸らさずに語気強く聞き返す。
「どういう意味だ?」
「ヘッドレス・ライダーと同じく『妖怪狩猟群』の一員ということ」
「なんだ、それ──はッ!」
咄嗟に痛烈な斬撃を受け止めたため、会話は中断された。
男の黄色い歯が剥き出しになり、生臭い息が顔にかかる。歯の隙間には食べかすらしい生肉が挟まっていた。
アーリィはすばやく飛び退いたようだ。今度は右後方から声が飛んでくる。
「フェイリル・マリアティッティ、用心しなさい。その者はもはやただの人間ではありません!」
フェイリルは全力で剣を押し返しながら、男の息遣いに獣じみた狂気を感じ取った。人間らしいのは見た目だけだった。
凶悪な膂力で突き飛ばされたフェイリルは足を引いてバランスを保つ。たたらを踏みつつも剣を中段青眼に構えてつけ入る隙は与えない。
続けざまに袈裟懸けが襲ってきたが、慌てずに強く弾いて刃の軌道を逸らせた。
『失われた英雄』の一撃一撃は想定以上に重く、受け止めるのは確かに骨が折れる。しかし、単なる腕力だけなら技術で覆すことは可能だ。その上、ここは狭く力いっぱい武器を振り回せるほどのスペースもない。
フェイリルの突きが分厚い胸板を狙うが、男はサッと退きながら体を斜めに開いて刃をやり過ごした。
そして、引く手をめがけて下から剣を振る。
フェイリルが全力で左腕を戻すと、刀身に直撃して大きく弾かれた。そのまま飛びすさって距離をとる。
敵の手強さに唸るフェイリル。
男は剣を右手に構え、舌なめずりをして無造作に前進した。
フェイリルは舌打ちをして再度中段青眼に構えなおす。
相手の威圧感が煩わしく、イメージできる守備範囲が狭い。このままではどこかで斬り込まれてしまう。
まずは敵の優勢を崩して、攻めの気配を鎮めてやる必要がある。
フェイリルは切っ先をゆらゆら揺らして相手の攻撃を誘った。
男の黒豆のような瞳が赤い光を放ち、疾風のごとき一閃が走る。フェイリルの長剣が激しく弾かれて手から離れた。猛禽の相貌が驚愕に染まる。
が、相手の踏み込みを察知して咄嗟に左半身で鋭く踏み込む。
フェイリルの左肩でやかましい金属音が響いた。男の剣の鍔が首筋を叩いたが、刃が深く斬り下ろされることはなかった。
逆に男の顔が痛みにしかめられる。いつの間にかフェイリルの左手に握られた短剣が男の右脇腹を抉っていた。
男が呻いて後退して、フェイリルも同様に退いた。
フェイリルは痛む首を振り、しかし、視線は外さずにたった今刃を受けてくれた背中の大剣を抜き放った。鍔元近くまで大きく踏み込んだため、斬られずにすんだのだ。
フェイリルは大剣を柄を握る両手に更なる力を込めた。
男の顔が野獣のごとく狂暴な表情を見せる。血走った両目を裂けんばかりの力で見開いた。まるで毛細血管が破裂したように眼球全体が赤く染まり、嵌め込まれたルビーを思わせた。
男は唐突に雄叫びをあげて突進してきた。
刃が首の右付け根を狙って振り下ろされる。逃げ場のないフェイリルは全身全霊の力で斬り上げつつ再度踏み込み、刀身の根元で攻撃を受け止めた。
火花が散るも、辛うじて鍔で押し支えることができた。
さほどもたずに膝が折れて床につく。脇腹を刺されたとは思えない怪力だ。
少し離れたところからアーリィの声が聞こえた。
「何とかしなさい! あなたはここで死んではいけません!」
「チィッ──!」
「見事、嘆きの姫君の期待に応えてみせなさい」
革のサンダルを履いた足に胸を蹴られてフェイリルは仰け反って倒れた。
かつて『欠けたる月の鉄鎖宮』の最深部を征服した者の顔が野卑た勝利の喜びに満ち溢れ、右手の剣を高々と掲げた。
この距離では転がってよけても腕のひと振りですぐに刃が追いついてしまう。それにこの体勢では剣撃を受けきれない。
フェイリルは威嚇するように歯を剥き出しにして大剣をきつく握りしめた。
「諦めてはダメッ!」
翅を広げたアーリィが小さな体で二人の間に滑り込んだ。
委細構わず『失われた英雄』の剣が振り下ろされる。だが、刃は妖精君主を逸れフェイリルの左肩のそばの床に当たって跳ね返った。
男は顔を歪めて下を見る。長靴の先が脇腹の傷口に突き入れられていた。
力任せにねじ込むと、男は苦痛の呻き声を洩らしてよろめいた。
胸の上に墜落した妖精をガラス細工のように優しく抱えてフェイリルは立ち上がった。
ポーチから小瓶を取り出すと、親指でコルクの蓋を弾き飛ばして中身を一気に飲み干した。
その隙に『失われた英雄』は体勢を立て直した。
フェイリルも両手持ちの大剣を右肩に担ぐと鍔元近くの柄を小指から絞り込むようにして片手で握る。
それから大きく息を吸い、男を睨みつけた。
それを男は正面から受け止める。剣を両手で持ち直すと、頭上に振りかぶった。
フェイリルは肉厚の刃を乗せた右肩を前に出して、背筋を伸ばしたまま腰を深々と落とす。右手一本で大剣を握り、左腕は優しく妖精を抱いたままだ。
男が吠え、フェイリルはやや上ずった気合声で応じた。
待ちかねた男の右足が踏み出す。
次の瞬間、大剣が元英雄の体を深々と斬り裂いていた。
男の弾かれた刃は欠け、刀身はひしゃげて床に転がった。男は無言のままうつ伏せに倒れた。
フェイリルは片手で器用に大剣を逆手に持ち直し、両目を細めて背中から心臓のあたりを刺し貫いた。
短い間全身が痙攣していたが、やがて動かなくなり、『迷いの小道』には完全な静寂が戻った。
猛禽類に似た顔が冷たい表情で見下ろす。
元英雄が完全に絶命したことを確認すると、フェイリルはマントで刃を簡単にぬぐってその場を立ち去った。