MAP No.11 冥き泉の街:street──有望な少女
『冥き泉の街』には陽が燦々と降り注ぎ、迷宮内に病のごとく蔓延する湿り気を帯びた空気はまったく存在しなかった。
昼食時ということもあってか賑やかな人出で、スイスイ進むブリグィッドの背中を何度も見失いそうになる。
急ぐ意志のないフェイリルはのんびりした口調で先を行く少女に声をかけた。
「お嬢さん、もう少しゆっくり歩いてくれ」
「イヤ」
振り向くどころか、彼女はさらにスピードを上げた。
体の大きなフェイリルは肩をぶつけながらも足を早めるが、モルガンヌ・ギルドの石造りの建物が見えたときには、随分と距離をあけられていた。
最終的に彼女はこちらをせせら笑いながら、腰に手を当てて軒先でこちらを待った。
ブリグィッドは届け人が到着するなり、別れの挨拶もなしにトンボ帰りしようと一歩を踏み出した。
それを引き留める。
「そんなに急いで帰るなよ、ブリッギー」
「ちょっと! 変な呼び方しないでよね!」
と振り返って指を突きつけるブリッギー。侮辱されたと両目はつり上がり、憤りがオーラのように立ち上る。
まだまだ子供だなと苦笑して、フェイリルはしゃがんで目の高さを合わせた。
「悪かった。親切なお嬢さんにお礼が言いたかったんだ」
「お礼は必ず現金で。目に見えないと感謝が実感できないから」
地図屋の売り子は別人のように蠱惑的な微笑みを向けてきた。将来が実に楽しみな少女である。
返す言葉に詰まったフェイリルは腰のもの入れにちょっと素敵なものがしまってあったことを思い出した。
期待の眼差しを向けてくる相手に少し待つように言うと、ポーチから白い金属でできたネックレスを取り出し、掌においてやった。
少女の口から歓喜の悲鳴が洩れる。
青く染められた花が五つ並んだデザインはエレガントで、ブリグィッドは細い棒を繋いだ鎖を嬉しそうにもてあそんだ。
「これ、あたしにくれるの?」
「ああ。お近づきの印だ」
「わあ! つけてちょーだい!」
せがまれてフェイリルは少女のしなやかで細長い首にネックレスをつけてやった。
「きれい?」
くるりと可憐なターンを披露する少女に対し、手放しで褒めちぎる。
「凄く素敵だ。こんな美しいお嬢さんには滅多にお目にかかれないな」
「それじゃあ、あたしもお近づきの印に何かあげないと」
ブリグィッドは悦に入った笑い声を洩らした。
子供が──という言葉を危うく呑み込んでフェイリルはお願いを口にした。
「──気を遣うなよ。もしよければ、このダンジョン攻略ビギナーにいくつか質問をさせてくれないか」
「もちろんオーケーよ」
二人は立番する守衛から少し離れたところへ移動して壁にもたれかかった。
モルガンヌ・ギルドは古参ギルドだけあって、表通りに居を構えている。
ギルド周辺にはそのギルドに所属する者が住みつきやすいため、目につく人の半数は灰色がかった頭髪の持ち主だった。
ただ、モルガンヌは織物業の盛んな国で、『冥き泉の街』でも毛織物から絹織物、綿織物と多くの織物を生産しており、買い求める客が残りの半数を占めた。
中には幼子を連れた女性の姿もあり、やはり何らかの武装をしているようだった。
見るとブリグィッドですら、腰帯に短剣を差していた。
フェイリルは少女の表情を窺うように訊いた。
「『解き放つ者』って何なんだ?」
ブリグィッドの両目が大きく見開き、元に戻った。
「パージナス班長に言われたの?」
「そうだが……何かあるのか?」
「う~ん、あの人は──なんて言ったっけ──預言者?」
「預言者とは、また難しい単語を知ってるな」
驚いてみせると、少女は得意気に胸を反らせた。
「まあね。そこらの小娘と一緒にしないでよね」
フェイリルは顔を上げて苦笑いを隠す。
「それで、班長殿は預言者だと?」
「それでは、一つ教えてあげましょう」
生意気な少女は得々と語り始めた。
──ブリグィッドの話
昔々、『欠けたる月の鉄鎖宮』には一人の美しいお姫様がいました。
この宮殿には妖精や不思議な生き物がたくさんいて、優しいお姫様に仕えて楽しく暮らしていました。
宮殿は外に出られないぐらい広くて、どこまで大きいのか誰も知らないぐらいでした。
そんなに広いので、一度迷い込むと脱け出せません。
迷い込んでくる人たちをかわいそうに思ったお姫様は、『冥き街』を造ってそこにみんなを住まわせてあげました。
お姫様には素敵な友達がいました。
ライオンの少女です。
その少女は毎日宮殿を駆け廻って迷子をお姫様の元に連れてきてあげました。
ある日、お姫様の宮殿に死の臭いを漂わせた男が現れました。
その男は銀灰色の短い手槍を携え、萌葱色のロングマントをはおっていました。
巨大な白馬に跨り、闇のようなワタリガラスや怪物猟犬を従えて、宮殿を荒らし始めました。
気の弱いお姫様は勇気を振り絞って、マントの男に立ちはだかりました。
お姫様が泣きそうになりながら一所懸命に酷いことをしないように懇願すると、男は槍を振り上げて脅してきました。
そして、我が輩は狩りにきた、と怒鳴ってその槍でお姫様を刺し貫きました。
怒ったライオン少女が飛びかかると、男の剣が一閃して少女を斬り捨てました。
男は角笛を吹き鳴らして獲物を捕ったことを高らかに告げると、ライオン少女を引きずって連れ去りました。
友達をさらわれたお姫様は悲しくて泣き続けて、傷がよくならないまま亡くなってしまいました。
それからお姫様は『嘆き姫』と呼ばれるようになりました。
不思議なことに『嘆き姫』を埋葬したところから泉が湧き出し、その泉の水を飲むと怪我や病気が治ると評判になって『冥き街』は『冥き泉の街』となりました、とさ。
──おしまい
「そして、そのお姫様──『嘆き姫』は、今でもこの街の守護者として泉の底から私たちを見守っている、と班長はよく言ってるのです」
ブリグィッドは語り終えると満足そうに口を閉じ、好評価を期待して聞き手の顔を見た。
しかし、フェイリルは腕組みして遠くへ視線を投げた。
『嘆き姫』とは部隊長に救出を命じられた『泣きやまない姫』のことだろうか。
この物語が事実だとすれば、命令を下す前──それも大昔──にすでに死亡していることになる。
いいや別人だ、と判断を下して、ブリグィッドに笑顔を向けた。
「いや、素晴らしい語り聞かせだった。解説にはなってないけど」
ブリグィッドは地団太を踏んで、いきり立つ。
「それはこれから話すの!」
「よッ、待ってました」
「えへん……班長が預言者だというのは嘆き姫の〈預言眼〉を持っているからよ」
「いちおう指摘しておくが、解説中にさらに解説が必要な語句を用いた場合、それは解説にならないぞ」
「いちいちうるさいなあ……」
とうら若き少女は下唇を突き出した。
「嘆き姫は情け深い人だから、今でもあたしたちのことを心配して何がしかのメッセージを送ってくるんだって。まあ、きわめて稀なことらしいけど、そのメッセージが〈預言眼〉を持ってる人の視界に文字として現れるそうよ」
「聞き慣れないね──〈預言眼〉?」
「班長は碧の瞳をしてたでしょう。ああいう真碧の瞳を〈預言眼〉っていうの。この街で生まれ育った人の中に、たまにそんな瞳の人が現れるの」
興味深く頷き、質問を重ねる。
「それで『解放者』とはなんだ?」
「預言の人物よ」
「預言?」
「この『欠けたる月の鉄鎖宮』はまさに迷宮で、出られた人は一人もいないっていうわ。でも、いつかここからみんなを解放してくれる人が現れるって言われているの。ずっと昔から……」
「みんなが持つ願望を具現化してくれる人というわけだ。ブリグィッドも外に出たいのか」
うら若い娘は腰の後ろで両手をつなぐと恥ずかしそうに俯いた。
「あたし、ここで生まれて、この街とこの迷宮しか知らないから、ちょっと外に興味があるのよね」
年相応の仕草や表情についほだされる。
「なるほど。一緒に外へ出られる機会があったら、俺が案内してやろう」
「そ、そこまでしてもらうほど興味はないのよ! ちょっと興味があるだけよ。ほんのちょっとだけ……」
ブリグィッドは突き出した手を大きく振って、遠慮する。
彼女のはにかみと強がりがないまぜになった表情は理解できないけれども、外の世界に対する憧れがあることはよくわかった。
フェイリルは空を見上げて自分の行ったことのある土地を思い起こした。
訪問目的が軍務ばかりで観光地は一切ない。名所のある土地といえば、モルガンヌ七州の都バンヌウィンぐらいだ。ちなみに勤務地でもある。
峡谷の隙間に流れる雲を仰ぎ見ながら言った。
「何にせよ、モルガンヌ観光なら任せてくれ。それで、預言ということは、『解き放つ者』も『嘆き姫』からのメッセージとして言い伝えられてきたわけだ」
「そういうこと。だけど、班長があなたに何か言ったのが、思いつきなのか、からかったのかはわからないけどね」
雲の切れ間から太陽が覗いてまぶしくなったフェイリルは視線を落とす。この街の太陽は赤みの強い橙色で、青空にも色が薄くまざっていた。
「『解放者』はからかいにも使うぐらい軽いものなのか?」
「いやあ、ずうっと昔から言われてる伝説の人だからね。何て言うのかな──マンネリ?──重みはなくなってるかもね。確か、一週間以上前だけど、カゥライエンの女騎士にも言ってたわ」
「カゥライエンの女騎士?」
「うん、きれいな金髪のスラッとした女の騎士だった。この人も来たばかりみたいで、こんな顔して──」
ブリグィッドは両目を半眼に閉じ、眉間にしわを寄せて唇を引き結んだ。
「──『地図はすべて必要だ、と私は愚考する』って言って譲らないから、結局全階層分の詳細地図を渡してやったわ。しめて二千九百七十二枚!」
「それはそれは……」
フェイリルは想像して含み笑いを洩らす。
挨拶はおろか後ろ姿ぐらいしか見たことがないにもかかわらず、彼の頭の中では『ミスティオル殿』ほど生き生きとした人物はいない。
ブリグィッドは澄まし顔だが、してやったりといった口調で言った。
「山積みの束を見て絶句してたわね。三往復して運んでた。頼まれれば、運搬の手伝いぐらいしてあげたのに。おもしろい人ね」
そのおもしろい人も『解放者』と呼ばれたわけである。伝説の人について、フェイリルもまったく重みを感じなくなってしまった。
むしろ恥ずかしい人の称号と化しているため、次回呼ばれたときは謹んで辞退することにした。
不意に視界が暗くなる。気温が下がり、街が黒い影に覆われた。
フェイリルは何事かと驚いて空を仰いだ。
遥か高く絶壁の隙間から巨大な顔がこの街を見下ろすのが見えた。
そのニヤケた顔はまん丸で性別のよくわからない造作をして、街の人間一人一人を観察するようにじいっと眺めていた。
切れ間より覗けるのは額と下唇の間だけで首や体は隠れてまったく見えない。
そのため、峡谷どころから山脈並みに途方もない大きさであろうことは想像に難くない。
フェイリルは慌ててブリグィッドを小脇に抱え、逃げるところを探した。
ところが、予想に反して怯え逃げ惑う者などはおらず、仰天したブリグィッドが手足をバタバタさせて騒いでいるぐらいだった。
「放せー! あたしがかわいいからってさらう気か!?」
「いや──」
とフェイリルは違和感を覚えながら空を指差す。
「──逃げたほうがいいと思うぞ……」
「『天から覗く顔』は日常茶飯事じゃ!」
「怖くないのか?」
「あたしの痛恨の一撃のほうが怖いぞ!」
さすがにフェイリルも周囲の冷たい目が気になった。
モルガンヌ・ギルドの守衛が辺り一帯に響き渡る大笑いをしながら教えてくれた。
「よう、大型ルーキー、その娘の言うとおりだ。心配しなくていい。あの顔は天気みたいなもので何のちょっかいも出してこないぞ」
フェイリルは恥ずかしそうに咳払いをすると、割れ物を扱うように丁寧に少女を地面におろした。
ブリグィッドは服装の乱れを直して、当然のごとく睨みつけてくる。
「もう、いい年して怖がりなんだから」
フェイリルはかぶりを振って、もう一度天を仰ぎ見た。
子供のような中性的な顔の中で、赤い唇がニタニタと薄気味悪く笑っている。それは、ある種神秘的な光景でもあり、人の形をしながらも人の意思のようなものは感じられなかった。
なるほど、確かに天気のようなものだ。
フェイリルは、困ったな、と思った。
もし、ブリグィッドを案内してやれる日が訪れたときには、いったいどんなところへ連れていけば彼女は満足するのだろうか。