MAP No.09 広い石畳の通路──首のない騎手
巨大な螺旋階段のように大きな円を描く通路を三分間は全力疾走した。
軍人の潤沢なスタミナをもってしてもトップスピードを維持できたのはそこまでだった。
だが、ミェルニルの速度はさらに落ちる。最高速度で、と考えるとよくもったほうだ。
息の続かない彼女を担ぎ上げたフェイリルは底力を発揮して、そこから五分を駆け続けた。
最初の十字路を右に曲がると、そこはすでに下のフロアだった。
蹄の床を叩く音はとっくに聞こえなくなっていたが、恐怖心が足を動かし続けた。
左手に木の扉が見えたので、中に飛び込んだ。後ろ手に扉を閉めてミェルニルを下ろす。
二人は剣を抜き、扉の両側に張りついて息を整えながら廊下の様子を窺った。
しばらく待つうちに呼吸は落ち着いたが、足音はせずに聞こえるのは二人の息遣いだけだった。
ミェルニルが深く息を吐いた。
「うまくまけたようね」
「そうだな」
とフェイリルは抜き身の長剣を納める。
壁から離れてミェルニルを見やった。
短めの灰色がかった黒髪が乱れて疲れた様子だが、それ以上に見たことのない化け物に怯え、落ち着かないようだった。
フェイリルは頭を整理するつもりで話しかける。
「さっきのあれはいったい何だったんだ? 危険な臭いがぷんぷんしていたが……」
首が力なく横に振られた。
「あんな奴は初めて見た。この迷宮には死者の霊や魔物がたくさんいるけど、それはもっと深い階層の話だし、ヤバい魔物について聞かされてるなかに白銀の鎧の奴はいない」
「そうか……。ところで一番ヤバい化け物っていうと、どんな奴がいるんだ?」
「そうね──」
言葉を切って、深呼吸をしてから彼女は続けた。
「──この迷宮に来て一番手強かったのは『失われた英雄』かな。その力は男が五人がかりでも止められなかった。他にヤバいっていうと、伝説的な『ハッケルバレント』──オーヴェルヌが言ってた大妖怪よ。大昔の記録によると、大部隊が何度も壊滅させられたとあるけど、『ハッケルバレント』を実際に見たことのある人はいない──少なくともあたしは知らない」
フェイリルはおどけた風に口笛を吹いて横を向いた。
改めて部屋を見渡すと部屋自体は広めだが、廊下と異なり、天井は低く、飛び上がれば手が届きそうなぐらいだ。
そして、奥には細長い通路が口を開けていた。
納剣したミェルニルの浮かない顔を見て訊いた。
「さて、どうする?」
「決まってるでしょ。カゥライエンの迷子の一団を捜すのよ」
「そうだな」
フェイリルは素直に返事をしたが、心中穏やかではない。
どうする、の回答があれでは、この先あまり彼女を頼るのは危険だ。今の騒動で気が動転して、明らかに具体的にはどうやって捜せばいいのか頭に浮かんでこないようだ。
フェイリルは扉から頭を出して廊下を確認したが、危険の気配はなかった。馬車が通れるぐらい広い廊下は静まり返っている。
この状態なら、上層階へ戻る道は単純なので、帰ることは造作もない。
扉を閉めてから、難しい顔をしたままのミェルニルに提案した。
「まず決める事柄は、このままこのフロアでの捜索を続行するか、一旦上に引き返すかだ。俺がいつもこなしているような任務なら続行だが、この迷宮のことはまだよくわからんから判断が下せん。ミェルニル、君ならどっちだ?」
突然の問いかけに彼女は迷った様子ですぐに返事ができなかったので、フェイリルは言い換えた。
「質問を変えよう。今の俺たちでこの階層の探索は可能か?」
「この階層ぐらいなら、できないことはないけど──いや、やっぱり無理。さっきの化け物みたいなのがうろついていることを考えると、敵に遭遇しても、たった二人で対処できる相手とは限らない」
細剣の柄に手をおいた彼女は無念そうだった。
フェイリルは優しく微笑んだ。
「いい判断だ。なら、ひとまず上に戻ってそっちの探索を先に済ませよう。その後どうするかは、またそのときに検討だ」
「わかった」
方針が決まり、ようやくミェルニルの表情に柔らかさが戻った。
二人は部屋を出ると道を戻り始めた。
フェイリルは周囲を警戒しながら尋ねる。
「普段ここでぶつかるような化け物にはどんな奴らがいるんだ?」
そのまま一歩下がってしんがりを買って出ると、ミェルニルは前衛を受け持った。
彼女は用心深く進みながら、答えた。
「この階層で注意したほうがいいのは、ニッカール。本来、五から八階層あたりが棲息地なんだけど、水棲の化け物でなぜかこの辺りの水辺で目にすることがある。稀にね」
「他には?」
「ミーン・シー」
「『小さい人』か。それなら知ってる」
「妖精にはいろんな奴がいるけど、こいつらは滅多に見ない割りにどこにでも出るし、強力な魔法を操るから油断は禁物」
「了解だ」
四つ角まで戻れたところでフェイリルは前に出て安全を確かめたが、幸い山羊足の怪物はいなかった。
別の道へ行ってしまったようだ。
フェイリルが来るように合図を出したときだった。
鎧のガチャガチャいう音がいくつもの声に重なって聞こえてきた。
二人の間に緊張が走る。
フェイリルは唇に人差し指を当てて静かにさせ、聴覚を研ぎ澄ませた。聞こえるのは後方からで、足音は七人分。
みな鎧を着込んでいるように重い金属の乱打音を派手に立てている。
話し声には聞き覚えがあった。
まず、間違いない。
自分たちが歩いてきた道へ鋭い鷹の目を向けるなり、意匠を凝らした鎧の集団が追い立てられるようにしてこちらへ走ってくるのがわかった。
剣の打ち合う音が響いた。
フェイリルは耳打ちする。
「俺はこの十字路の右手に隠れるから、そっちは左へ誘導して彼らを上層階へ逃がしてやってくれ」
「何をする気?」
青ざめたミェルニルは相手の肩をつかんだ。
その手をふりほどくようにしてフェイリルは両腰の剣を抜き、ともに鍔際をしっかりと握る。
「追跡してくる奴らの不意を衝こうと思ってね。大丈夫、背後から奇襲をかけてから、混乱に乗じてすぐに追いかける。先導は任せたぞ、先輩」
言うべきことを言い終えて、フェイリルは上層階へ続く道とは反対側へ退き、角の陰に隠れた。
困った顔を見せたミェルニルだったが、決心したのか細剣を抜き、大声で通路の向こうへ呼びかけた。
「ラゥカイエンの方々! 私はモルガンヌ・ギルドの者です! 依頼を受けてあなた方を迎えにきました! こっちへ!」
「かたじけない!」
野太い声が応えて、すぐに叱咤激励するのが聞こえた。
フェイリルの脳裏に堅物のダークロット隊長の見たこともない姿が浮かんだ。豊かな口髭を蓄えた軍学校の校長にそっくりだった。
自分の想像力の貧困さを鼻で笑い、滑り止めに巻いてある柄の革に唾を吐いてこすりつけた。
馴染むと充分に片手で振れるだけのグリップが得られ、安心感が増した。
それから、腰のポーチに手を伸ばし、部隊長から渡された小瓶を取り出した。コルクの蓋を取ると苦そうな臭気が漂ってくる。
少し躊躇してから思いきって飲み下した。
部隊長の話では、膂力が増す特別な薬であるらしい。役に立つという噂通りのものなら斬撃の威力が増すはずだ。
フェイリルにとってこれは気休め程度のものだった。
ミェルニルは右手に細剣を持ち、左手を大きく動かして上層階へ回した。
顔を向けることはおろか、決して横目でフェイリルを見るような真似すらしない。
彼女がフェイリルの隠れている角を背にして誘導すると、うまく三人の騎士は曲がっていった。そのうちの一人は細身の女性で、おそらくは愚考の名手『ミスティオル』殿。
急造コンビにしてはいい連携ぶりなので、フェイリルは戦いを前にして思わずニヤリと笑った。
不意に相棒の口が悲鳴のような声を発した。
「ヘッドレス・ライダー!? 何でこんなところに!?」
ヘッドレス・ライダーとは呪いをまき散らす首なし騎手で、青黒い鎧をまとって町から町へと伝馬のように駆け抜けていくという。
フェイリルが軍学校で習ったのはそれくらいのものであまり噂を聞かない妖霊だが、こんな迷宮にまで出入りしているとは、どうりで地上ではあまり見かけないはずである。
フェイリルは背後から低い声で鋭く言った。
「しんがりと一緒にさっさと行けよ。『首なし騎手』を支えようなんて思うな。そいつは俺が潰す──」
最後まで言い切る前に二人の青年騎士が五つの黒い小人のような姿に囲まれながら現れた。
ミェルニルの細剣が敵の一人を貫いた瞬間を捉えて、彼らは駆け抜けざまにすべて斬り捨てていった。惚れ惚れするような太刀筋だ。
彼らは背を見せる前にフェイリルに一瞥をくれたが、足を止めることはなかった。
続いて、ひときわ立派な鎧の貫禄ある騎士と体格のよい騎士が、青毛馬に乗った首のない騎士と斬り結びながら姿を見せた。
体格のよい騎士は雲霞のごとくまとわりつく黒い小人を斬り伏せ、貫禄のある騎士が馬上からの斬撃を受け止めた。
青黒い鎧の妖怪が乗馬の胴を股で閉めて器用に操ると、主に合わせてこまめに動く蹄がカチカチと音を立てた。
首のない姿は異様で、鎧の隙間は黒い布に遮られて中身を確認することはできなかった。ただ、その技量は確かで、ヘッドレス・ライダーは一騎当千の強者だ。
二人の手練れを相手に屋内騎乗のハンデをものともせずに圧倒している。
二人の騎士が同時に斬りかかったが、ものの見事に弾き返した。
その隙にミェルニルがヘッドレス・ライダーの弓手に回るなり、弛む手綱に斬りつける。
しかし、『首なし騎手』が冴えた手綱捌きで引き絞ると、青毛馬は嘶いて竿立ちになり、刃をかわした。
前脚の下になる騎士二人は蹄に踏みしだかれる前に跳びすさった。
フェイリルの唇が歯を剥き出して笑い、全身の筋肉に血が満ちる。
勝機だった。
フェイリルは右の長剣を捨てて、すかさず飛び出す。両手で握り直した大剣が漆黒の逞しい横腹を下からかっさばいた。
熱湯のごとき血が噴き出し、苦悶の嘶きが迷宮内に轟いてこだまする。
横倒しになる前にヘッドレス・ライダーは鐙を蹴って床に飛び降りたが、そこを狙ってフェイリルの大上段が振り下ろされた。
大剣は硬い鎧を斬り割って床石を削り取った。
『首なし騎手』は俯せに倒れた後、手足を動かしてもがいていたが、すぐに動きを止めた。
大将の負けを目の当たりにして、数人の黒い小人たちは散り散りに逃げていった。
フェイリルは詰めていた息を吐いて、周囲に警戒の視線を投げた。
妖馬の腹から流れ出た血溜まりが湯気を上げて、腐ったような臭気を放っている。
一方、ヘッドレス・ライダーは流す血もなく、黒い霧のようなものを鎧の継ぎ目や割れ目から垂れ流した。ピクリともしないのは、どちらも同じである。
ミェルニルが血溜まりや妖怪の死体を恐々よけて駆け寄ってきた。
「大丈夫? ヘッドレス・ライダーは本来もっと深いフロアを住処にしていて、こんな少人数で仕留められる相手じゃないよ」
「ナイスアシスト。今回の殊勲賞は君だ」
言葉を返しながら、フェイリルは刃を拭う。
ミェルニルも刃の血糊を丁寧に拭き取ってから親しみのこもった口調で言った。
「なら、敢闘賞はあなたね。ただの口だけ男じゃなかったわ。見直したよ」
それはこっちのセリフだと思ったフェイリルだったが、せっかくの勝利に水を差すのはやめておいた。
目配せをして、カゥライエンの騎士へ注意を向けさせる。
貫禄のある騎士が渋い顔で剣を納めて近づいてきた。
「助かった。助太刀に感謝する」
「いえ、危急に間に合って幸いです」
とミェルニルは改まった言葉遣いで返す。
貫禄のある騎士はすまなさそうに付け加えた。
「少し休みたいところだとは思うが、みな傷を負っている。すぐに街に戻りたい」
「わかりました」
ミェルニルが伺うような目を向けてきたので、後は任せるとフェイリルは鷹揚に頷いた。
先輩は踵を返すと、二人の騎士を先導するように足早に歩き始めた。
フェイリルは静かに後に続いた。と、思いがけず足元がふらつく。
薬の副作用だろうか、これまでに味わったことのない程ひどい脱力感に襲われた。下っ腹に力を込めて集中力を取り戻すとフワフワした感覚を駆逐していく。
そして、先輩には気づかれないように、そっとため息をついた。
これで肩慣らしは済み、これから本来の任務に本格的に勤しむことになる。
ミェルニルの後ろ姿を眺めていると、自然と微笑が浮かんだ。とりあえず『人類の至宝』が守られたことに満足したフェイリルだった。
画竜点睛を欠くとすれば、ダークロット卿とおぼしき人物に口髭がなかったことか。
そのあと、『冥き泉の街』まで何事もなく送り届けることができたことは言うまでもない。