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カミの迷宮  作者: ディアス
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MAP No.08 第二階層へ至る傾斜路──山羊足の騎士




 『冥き泉の街』で三日を過ごしたフェイリルは、この街のことが大雑把につかめた。


 まず、街の由来である『冥き泉』とは、この街に来る途中で通過した部屋の泉のことであった。あの泉の水には不思議な力があり、飲むと体力が回復したり、病が快癒するらしい。


 この街の人間は探索や物資調達に行く前に必ず立ち寄って、水を補給していくのだ。

 ちなみに水は『輝きの水』と呼ばれているそうだが、『冥き泉』の『輝きの水』とはこれいかに。


 次に特筆すべき点はヴィノディオリ教が力を持っていないことだ。


 ヴィノディオリと言いえば、シールルィン大陸では宗教・オブ・デファクトスタンダードである。

 大陸最大のマヴィオリ帝国が国教と定めており、帝国に属する各国で相当幅を利かせている。


 さすがに教会自体はひっそりと街外れに建っているが、篤い信者と呼べるほどの人物は数える程度しかいない。


 それは何故か?


 この町には『嘆き姫信仰』があるからである。


 では、『嘆き姫信仰』とは何ぞや?


 どうやらこの迷宮の土着の信仰のようだが地上ではついぞ聞いたことのない名前であり、軍学校で様々なことを学んだフェイリルにもまったく心当たりがなかった。

 だが、この街で最古参の自警団、互助会、迷宮探索ギルドが信奉しており、ある種の宗教とすらいってよいものであった。


 また、この三大ギルドはこの街最古の団体で基本的に街全体の利益のために動いている。自警団が生活圏を守備し、互助会が日常生活を廻す。

 迷宮探索ギルドはその名の通り『欠けたる月の鉄鎖宮』を探索して、迷宮脱出や活動範囲の拡大を使命としている。


 他のギルドは郷土色の強いギルドばかりで、縄張りと街での権力に執着しているようであった。

 だが、その分仲間意識が強く、心地よいのは確かだ。


 郷土系ギルドの問題はこの胡散臭い迷宮を終の住処とする気があるということだ。だから、権力の保持に努めている。

 ある意味、多くの人種がいるこの街は複雑な外の世界の縮図だった。


 最後にフェイリルがこの迷宮で初めて出逢った初老の彫刻家についてだ。


 街に着いた翌日、頼まれたものを調達して石像の部屋を訪れたのだが、老人の姿はなく、命のない石像が並んでいるだけだった。

 念のために頼まれたものはおいてきた。


 しかし、さらに翌日に行くと、その荷物はなくなっていたが、やはり老人の姿はなかった。


 不思議な話である。


 おまけにもう一つ不思議なことと言えば、老人に遭遇する前に通過した扉がどこを探しても見つけることができなかったのだ。

 もしかすると、あの扉が『セルテス・ルーの迷宮』と『欠けたる月の鉄鎖宮』とを隔てていたのかもしれない。


 そう思うと、魔法で閉じてあったのも頷ける。

 あんな扉が開放されていたら、いかに迷宮内とはいえ、行方不明者の数はもっと増えていたことだろう。


  ただ、上官に言われた救い出すべき三人の貴婦人と剣についてはまったく情報が得られなかった。それらしいことを知っている人さえ見つけられなかった。


 以上が、この三日間の彼の行動である。


 街での滞在が四日目に突入し、充分に休息がとれたフェイリルはモルガンヌ・ギルドに顔を出した。

 ホールに入るなり、カウンターから呼び止められる。


「フェイリル・マリアティッティ、ちょうど人を呼びに遣るところだった」


 顔を向けると見覚えのある男だったので元気な足取りで近づいた。

 その四十ほどに見える男はフェイリルをここに連れ込んでくれた人物で、名をティライル・ファフヌスという。ギルド長ペリドリィン・グウァルニールの片腕として実働部隊である外廻り組を取り仕切っていた。


 フェイリルは片手を上げて陽気に挨拶する。


「よ、どうした。俺を呼ぶときは、かわいい女の子を寄越してくれ。それなら、早く見つけられるぞ。こっちから近づいていくから」


「噂通りだな」


「どんな噂だ」


「無類の女好き」


「いや、男より女が好きなだけだ。あんたは違うのか?」


 ティライルは苦笑した。


「違わんよ」


 と座るように腰高の椅子を示した。


 座ると、ティライルの左こめかみから頬にかけて完治した刀創があるのがわかった。


 だが、その向こうに明らかに不機嫌なミェルニルの顔が見えたので、すぐにそちらに興味は移った。

 彼女がちらりと横目で視線をとばしてきたのをすかさず捕まえる。


「やあ、ミェルニル、今日も不機嫌そうで何よりだ」


 ティライルを挟んで彼女の平手が苛立たしげにカウンターを叩く。


「ティライルの旦那、あたしはこいつと組みたくない」


「おいおい、そのことは了解したはずだろう」


「今のこいつの挨拶を聞いてなかったの?」


 受けてティライルが険しい目つきで新参者を見た。


「まだ何も話してないのに挑発するような真似はするな」


「すまん。ミェルニルに逢えて、つい嬉しくて」


 と掌を見せて謝る。


「おまえの喜びの表現はひねくれてるな」


「よく言われる。ところで、何か用か?」


「ああ──」


 ティライルは席を立って、二人を見た。


「──カゥライエン・ギルドから救援要請が来た。三日前に迷宮探索で西へ向かった七名が帰ってこないらしい」


 フェイリルの頭に泉の部屋で遭遇した一団のことが頭をよぎり、口にした。


「七名ってのは騎士団か?」


「よく知ってるな」


「自警団のザラテスが言ってた」


「そうか。その七名は肩慣らしに下層階へ行く道を目指して西ブロックの探索をしていたわけだが、予定日を過ぎても戻ってこないらしい。それで様子を見に行ってきてほしいとのことだ」


 先に話を聞いているらしいミェルニルは敢えて無難な可能性を提示する。


「ちょっと遅れてるだけじゃないの?」


「かもしれんが、その七名はまだこの迷宮に来て一ヶ月も経ってない初心者だ。だから、なにがしかのトラブルか、もしくは道に迷ってるとも考えられる」


「なら、それこそ自分たちでどうにかすればいいだろう」


 とフェイリルは眉をひそめる。


 ティライルの頭が残念そうに横に振られた。


「今、カゥライエンの実働部隊の大多数は互助会の大規模な物資調達遠征のために出払ってる」


 互助会ギルドの大規模遠征においては召集が全ギルドにかかることを知っているミェルニルは冷静に指摘する。


「それはあたしたちも同じでしょう」


「だから、員数外のフェイリルとその水先案内人として休暇中のミェルニルに行ってもらうわけだ」


 ミェルニルがさも不快げに鼻を鳴らしたが、それを打ち消す勢いでフェイリルが立ち上がった。

 そして、誠実な顔つきでティライルに片手を差し出す。


「了解した。行かせてもらう。もちろん、先輩であるミェルニルの指示には従うし、からかうような真似も決してしない」


 殊勝なセリフにティライルの顔が満足そうにほころび、握手が交わされた。


「ミェルニル、君もいいな。所属チームがないのだから、わがままを言える立場ではないんだ。少なくとも任務中は諍いは忘れるように」


「……了解」


 顔をしかめ、嫌そうに肩をすくめるミェルニルだった。


 その後、ティライルは細かい指示をミェルニルに出し、準備を含めて一時間後に街の入口で集合することになった。


 フェイリルは一旦宿に戻って奪った大剣とマントを身につけると、中身の確認をしたポーチを腰に装着して簡単に準備を整えた。

 そして、早めに集合場所を訪れることにした。


 この探索では遠くまで行く必要はなく、迷宮の地理や勝手を知るには絶好の機会だった。つまり、手始めの肩慣らしにはちょうどよいということだ。


 だが、少し引っかかることもあった。随分と歴史のありそうな街と迷宮なのに未だに活動拠点と同じ階層の探索で迷子になりうるものなのか。

 迷宮探索ギルドなどというものもあるからには何階層分も地図ぐらいできているはずである。


 先に着くつもりだったが、到着してみるとすでにミェルニルが腕組みをして待っていた。薄手の革鎧の上にファーのある袖なし上着をはおり、大きなウェストポーチに細剣という出で立ちだ。

 彼女は待とうか待つまいかとそわそわした様子で、あたりを見廻した。


 フェイリルを目にするや否や舌打ちとともに眉根にしわが寄る。


「チッ……来たのか」


 ストレートかつ痛烈な嫌みにフェイリルはとぼけて首を傾げる。


「あれ、歓迎されてないようだ」


「当然だ。あんたに受けた屈辱は一生忘れられないからな」


「屈辱?」


「美人だと持ち上げておいて、すぐに冷たい女だと(おとし)めたくせに!」


 美形は怒った顔も様になる、という感想はおくびにも出さず、心外だなと言い返した。


「美人に美人と言って何が悪い」


「その後だ!」


「冷たい対応に冷たいと言って何が悪い」


 そして、理解できないとばかりに両手を広げてみせる。


 怒り心頭に達したミェルニルは両目を吊り上げて怒鳴った。


「そうじゃない! あたしを口説きにかかって、脈がないとわかったら、あっさり掌を返す、その態度が気に入らないんだ!」


「おいおい、蒸し返すなよ。ティライルに言われたことを忘れたのか?」


 痛いところを突かれてミェルニルは言葉を詰まらせる。


 彼女の肩がゆっくりと内側に曲がった。

 次の瞬間、フェイリルの喉元には細い剣尖が突きつけられていた。その冷たい感触に本気が感じられた。


 凄みのある眼差しを見せるや彼女は細剣(レイピア)を納め、吐き捨てるように言い残した。


「二度と話しかけるな!」


 そして、顔を背けると、一人ですたすたと歩いていってしまった。


 肩を怒らせた背中を追いながら、鷹のような相貌の頬を緩める。

 楽しい探索になりそうな予感が働いたフェイリルであった。


 扉を抜けると妖しい光の灯る通路には今日もオーヴェルヌがいて、緊張気味のミェルニルが申告する内容を、帳面に書き留めていた。

 彼の無愛想なセリフ回しや荒い動作の端々から小娘の相手を面倒だと思っているふしが窺い知れる。


 特に今日は小娘も虫の居所が悪いので、受付の一帯は一触即発な空気に包まれていった。

 不意にミェルニルが片手を背中で隠して拳を握り締めた。


 微笑ましく彼らのやりとりを楽しんでいたフェイリルだったが、そろそろ頃合いと元気よく声をかける。


「よ、隊長、今日も職務熱心だな」


「フェイリル、邪魔するな」


 とひと睨みを投げてきた。


 だが、すぐに書き物は終わって隻腕の男は、いってよし、とミェルニルに申し渡した。

 それからフェイリルに厳しい顔を向けた。


「今日が初任務か?」


 オーヴェルヌは言葉短く声をかけ、フェイリルも短く答えた。


「まあね」


「無事に帰れよ」


「ああ。行ってくる」


「武運を祈る」


「ありがとう。帰ったら、俺の奢りで一杯やろうや、隊長。あんたにはいろいろ教えてもらいたいことがある」


 オーヴェルヌはニヤリと笑って鼻を鳴らした。


「フン……いいだろう。その代わり、無傷で帰れよ」


「努力しよう。またな」


 だが、いざ行かんとしたフェイリルに、待て、と声がかかった。


 呼び止めたオーヴェルヌは悩む素振りでじいっと猛禽類に似た双眸を見つめていたが、重々しく忠告をした。


「つば広の帽子をかぶった幅広のマントの男に出くわしたら、迷わず逃げろ」


「何故?」


 とフェイリルは軽く訊き返す。


 しかし、オーヴェルヌの回答は予想外に激しい語気を伴った。


「わしがおまえに贈ってやれる最大の生き抜く秘訣だ。わかったな!」


 握り締めた拳が机をドンと叩き、帳面が床に落ちる。

その有無を言わせない迫力にフェイリルは頷くしかなかった。


「わかった。またな」


 先に歩き始めたフェイリルに追いつくと、ミェルニルが恐れ入った様子で話しかけてきた。


「偏屈で有名なオーヴェルヌとよく会話ができるな」


「ちゃんと向き合えば、話せるオヤジだぞ」


「いつも口うるさいし、睨みつけてくるから、あたしは苦手だ」


 と背後をこっそり覗く。


「そりゃ、食わず嫌いってもんだ。……それより、俺に怒ってもう話しかけないんじゃないのか?」


 少し不思議に思って問いかけると、想像より穏やかな回答が返ってきた。


「今はそれほど怒ってない」


「劇的な変化だ」


「激しく憎んでるだけで」


「劇的な悪化だ」


「そうかもしれない。しかし、あの偏屈オーヴェルヌと飲み友達になれることから、ただの女たらしではないことはわかった」


「それは、つまり?」


 ミェルニルの人差し指が立ち、彼女は恩着せがましく言った。


「会話するぐらいの価値はあると考え直してやった」


 フェイリルは心の中で隊長に激しく感謝した。


 二人の間で会話が解禁になると同時に迷宮側の扉に着いた。

 今日も自警団ギルドから武装した門番が派遣されており、声をかけて先へ進んだ。


 何度も探索の足を延ばしているミェルニルが先導する形で泉の部屋を目指した。


 ひと気がない通路で光球の照らす床石を踏んでいると、ここが迷宮であることを嫌でも思い知らされる。あんな人の営みがある街がここに存在することが異常なのだ。


 道々フェイリルは疑問をぶつけてみた。


「ミェルニル先輩、質問してもいいか?」


 先輩は速度を緩めて並んだ。


「いいけど、プライベートな質問は却下」


「それは後日の楽しみにとっておく」


 壁際の光の玉を締め出すようにフェイリルは両目を半眼に閉じ、頭を働かせながら尋ねた。


「迷子になる理由がわからないんだ。この階層ぐらいなら地図はあるんじゃないのか?」


「もっともな質問だ。長くいるとわかるんだけど、実はこの迷宮はときどきだけど形を変えることがあるのよ」


フェイリルは鷹のような目を大きく見開いた。


「それはまた厄介な……」


「正確には気がつくと通路がなくなり、新しい部屋が現れたりしていて、いつの間にか地図通りの構造ではなくなってるわ」


「ただの建造物ではないのか。その増改築に巻き込まれるとどうなる?」


 ミェルニルの泣きボクロのある目が突き放すような冷たい視線を送ってきた。


「もしかすると、帰ってこない人の何人かはそのせいかもね」


「勘弁してくれ」


 行方不明者リストに自分の名前が載る様を想像して悄然と頬を撫でる。


 しかし、ミェルニルは安心させるようにこともなげに言った。


「心配はしなくていいぞ。変化に前兆というものがあって、情報さえあれば巻き込まれることはない。迷宮探索ギルドにその手の情報は集まることになってるから、情報収集さえ怠らなければ大丈夫よ」


「後学のために訊いておくが、どんな前兆があるんだ?」


「よくあるのが、床や天井、壁の亀裂ね」


 フェイリルは驚く。


「泉の部屋は床に割れ目があったぞ」


「あの部屋は大丈夫。街や『冥き泉の部屋』みたいな要所は不思議と変わらないのよ。嘆き姫のご加護、と迷宮探索ギルドの連中は言ってるわ。もし、そういう部屋にもひびが現れたら、崩れないようにちゃんと左官仕事で手を入れてる」


 言われてみれば、ザラテスのいた部屋にも補強用の梁が設置してあったことを思い出した。



 ちょうど肉の焼ける芳ばしい香りが鼻孔をくすぐり始めた。

 そして、ザラテスのいる部屋に到着すると、ザラテスが相変わらずの疲れた様子で座り、焚き火では肉が脂汁を垂らしながら炙られていた。

 煙は天井を這い、どこへともなく消え去る。


 ザラテスのやる気のない視線が二人を撫で、ミェルニルのところで執拗に上下に泳いだ後、肉に戻った。

 唾を呑み込み、羨ましそうな顔でフェイリルから挨拶をする。


「ザラテス、うまそうな肉だな」


「ああ、ようやくマシな肉が来るようになった」


 と肉から目を離さずに笑った。


 ミェルニルが不機嫌そうに腕組みをして口を挟む。


「聞きたいことがあるんだけど」


「ちょっと待ってくれ、今焼きの大事なところで手が放せない」


 そう言いつつも彼の目はミェルニルの肢体の上を行き来する。


 舐め回すようにじろじろと見られ、耐えられなくなったミェルニルはフェイリルの背後に隠れた。

 ザラテスの視線移動には甚だ共感を覚えるところがあるのだが、フェイリルは仕方なくその後の対応を引き受けることにした。


「カゥライエンの騎士様御一行はまだ帰ってきてないか?」


「まだだな。バカ正直な奴らだから、固い頭で道に迷ったのかもしれんぞ」


 ザラテスはまた肉の焼け具合を確認しながら、言葉を続けた。


「二人で探しに行くのかね?」


「ああ、依頼を受けてね。何か情報はあるかい?」


「西にある下層階への道を確認しにいくとは言っていた。調子にのって下まで行ってしまったかもしれない。そこまで追いかけるなら、気をつけていくんだな」


「ありがとう」


 フェイリルはミェルニルに促されて言葉短く切り上げ、押されるようにして、部屋を出た。


 肉の香りが届かなくなったあたりでミェルニルの悪態が廊下に響き渡った。


「ああ、もう、何で変な男の相手ばっかりしなきゃいけないの!?」


「さあ──人徳?」


 とフェイリルはニヤニヤ笑う。


「あんたも『変な男』カテゴリーの住人だ」


「つまり今、君はとっても、スリリング」


「変なコト、したらおまえは、串刺しング」


 腰の細剣をゆっくり撫でる女剣士にフェイリルは怯えたふりをする。


「刺されるより刺すほうが得意だ」


 一瞬の間の後、顔を赤くしたミェルニルの踵がしたたかに脛を痛打した。

 言葉にならない声を洩らして立ち止まるフェイリルだったが、おいていかれそうになって急いで追いかけた。


 しばらくして、泉の部屋に到着した。

 やはり、部屋やその周辺の光球は元気がなく、歩いてきた通路と比べて薄暗かった。

 ミェルニルに倣って水筒に冷たい水を汲むと、入ってきた口から出て、先へ進んだ。


 先輩が地図をウェストポーチから取り出して広げたので、フェイリルは肩越しに覗き込んだ。

 『冥き泉の街』と『冥き泉の部屋』の場所はすぐにわかったが、ミェルニルは地図が苦手なたちと見え、右に左に回転させて唸る。


 フェイリルは恐れながらと下手に申し出て、地図の片端を摘まんで下層階へ続く道を指で示してやった。


 ミェルニルは顔を赤くしてうそぶく。


「それぐらいわかってる! 危ない所が途中にあるから、ちょっと計算してただけ!」


「もちろん、その通りだ──」


 フェイリルは至極真面目に言った。


「──だが、男は地図を持った『いい女』の前では、知ったかぶりをしたくなる生き物なんだ。子犬のおしっこみたいに自分ではどうにもならない習性だ。許してほしい」


 ミェルニルの目は疑いに満ち満ちていたが、鼻を鳴らして地図を乱暴にしまうと、ついてこいとばかりに先導し始めた。


 地図を暗記できたフェイリルは鼻歌まじりに後ろを歩く。

 視線の先で左右にしなる腰のくびれは絶品だ。この『人類の至宝』は何としても無傷で街に戻さないといけない。

 そう心に誓うフェイリルだった。


 先輩としてさすがに道に迷うことはなかったが、三度目に地図を見直したときは、口を挟みそうになった。


 長らく歩き詰めて下層階へ続く一本道の途中までやって来た。

 その先は石組みの壁が右に大きく湾曲して、床は目に見えて下っている。


 ここまで来るのに約三時間はかかった。光の玉がなければ、簡易松明では何本あっても足りるものではない。


 フェイリルは道順を反芻しながら話しかける。


「まったく何事もないな。怪物はおろか、虫一匹いない」


「ここは、まだね」


 そう言うミェルニルは両肩をリラックスさせて、油断なくいつでも抜けるような態勢をとっている。


 黒マントの下でフェイリルは左腰の長剣と右腰の大剣の柄を撫でて感触を確かめた。

 二本も腰に提げると結構な重量だが、普段の行軍訓練と比べれば大したことはない。


 下に行くのはまだ早いと考えたフェイリルは灰色がかった黒髪の頭をかいて訊く。


「どうする?」


「最短距離できたから、どこかで行き違ってるかもしれない」


「戻るか」


「下へは一本道だから、もう少し進んでからでも──」


そのとき、硬いものが床石を打つ音が聞こえた。


フェイリルはもの問いたげにミェルニルを見る。


 彼女の顔は訝しげに背後を向く。鎧の重ねがこすれるような金属音が続いて鳴った。


 ミェルニルは完全に振り返って言った。


「追い抜いた?」


「かもしれない」


「戻りましょう」


「了解」


二人は用心深く足音を忍ばせて一本道を戻り始めた。


 だが、その先にいたのは、全く別の人物だった。いや、それは人物とは呼べない代物。

 悠然と歩いてくる姿を目にして、さすがの二人も口を閉ざして硬直してしまった。


 全身が銀色の鎧に覆われ、腰に大人一人ほどの長大な剣を吊した騎士。

 ただし、フェイリルの頭が胸より下の位置になるぐらいの巨体で、兜のこめかみから渦を巻くような角が突き出ており、両足は銀色に輝く割れた蹄になっていた。


 一歩一歩を踏み出すたびに蹄の上の房毛が揺れ、床石が沈むように感じられた。

 足を止めた二人の前方からゆっくりと近づいてくる。


 不気味な異形であること以上にあまりにも危険な気配を放出しており、二人の本能が撤退を強く推奨した。

 面頬の奥に覗く赤い瞳の眼光はまるで心を射抜くようで、視線を逸らせないフェイリルは恐怖心を無理矢理抑え込んで隣に囁いた。


「なあ、先輩、あれは多分あんたの悩み多き恋人の一人に違いない。踏み潰される前に挨拶してくれないか。俺には誤解を解く話術の用意がある」


 同様に目を奪われたミェルニルも驚愕を隠せず、生唾を呑み込んだ。


「あたしにそんな気の利いたものはいないよ。そもそも山羊の割れた蹄の彼氏なんて願い下げ」


「古い知り合いでもない?」


「そんなわけないでしょ!? 人間でもないし、あんな怪物は聞いたこともない」


「なら、三択だ。逃げるか、戦うか、友達になる。お勧めは、尻に帆掛けて『逃げる』だ」


「それ採用」


 再度向きを変えた二人は脱兎のごとく逃げ出した。


 坂を死に物狂いに走って、下りに下って、下層へと進んでいった。




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