裏無いし
……………………わっわあああ! うわあっ
いてて……あ、あんた……いえ、そういえばいましたね、忘れてました……
あーおどろいた……。
気にしないでください。あたしが勝手にイスから転がり落ちただけなんですから。大丈夫です。
どうぞ、あなたも座ってください。
え? ここはどこ? あなたは誰?
お次は、私は誰? って言うんでしょうか。それは知ってる。あっそう。記憶喪失ではないようでなにより。
いいえ、ここはあなたの家じゃありません。あたしの家です。
あたしはヤマダ。あなたは? ……キタガワさん、キタガワさんね。
どうですか? 少しは気分が良くなりましたか?
……ずいぶんと言葉につまっているようですが、日本語以外の方が話しやすければ、別のことばでも構いませんよ。
そうじゃない。どうしてここにいるのかわからなくて戸惑っている。そうですか。じゃああたしの知っていることを教えてあげます。
あなたは雪も凍える寒空の下で、あたしの部屋のドアに何度も頭を打ちつけながら、静かになみだを流していたんです。
……ええ……、どうしてまた泣くんですか。
謝らなくていいです。なにかあたたかい飲み物でも作りましょうか。
なにせあなたは、去年からなにも口にしていないはずですから。
はい。明けています。いまは夜中の……もうすぐ三時です。
ああ、言うんですね。明けましておめでとうございます。いえ、キタガワさんはそんな気分じゃなさそうだと思っていたものですから。
出先から戻ってくるとあなたがいて、声をかけても反応がうすい。そしてどうやら熱がある。
というわけで、とりあえず中に入って寝てもらったんです。
ただ、さすがにちょっと怖かったので、心臓のありかだけは先に確かめさせてもらいました。それ以外は誓ってなにもしていません。
ええと、ミルクティーを作っているんですが、ここにジンジャーシロップ入れても飲めますか? 飲める。じゃあ入れますね。
どうぞ。
……それで、キタガワさんはいったいどんな事情で、夜遅くにあんなところであんなことを?
…………………………。
へえ。
年末は実家に帰省するはずだったのに、高熱を出してしまい帰れなくなった。ずっと寝てばかりいたせいで食べられるものが家からなくなり、コンビニに出かけた。数日ぶりに外に出て、夜だったこともあり雪に足をとられて行きも帰りも道で転んだ。
やっとの思いで部屋まで戻ってきたのに、どういうわけか家の鍵が鍵穴に入らない。
そこで、悲しみをこらえきれずとうとう泣きだした、というわけですね。
泣いて泣いて泣きまくって、気がついたら自分の部屋とよく似た知らない場所で横になっていたと。
じゃあドアの前であたしと会ったことは覚えてないんだ。
いえ、吐いたりはしていませんでしたよ。
キタガワさんは泣いたままずるずるとその場に崩れ落ちたんです。
救急車を呼んだ方がいいか訊ねたところ、あなたはガタガタと肩を震わせながら首を横に振りました。だから、意識はあるけれど余裕がないんだなと思って。
放っておくわけにもいかないし、あたしも早く部屋に入りたかったので、中に入れました。
実際は意識もはっきりしていなかったんですね。
あ、また泣いた。キタガワさんてあたしより泣き虫ですねえ。ふだんはちがう。ほんとかなあ。もう一杯紅茶いれますね。
キタガワさんは、どこから来た人なんですか。
静岡。
新幹線で帰ろうと指定をとっていたのに乗れなかった。それは残念でしたね。
こちらにはどういった用事で来ているんですか。
仕事。
人を探す仕事ですか? 誰かに会いに来た? ちがう。
……仕事で今年からこちらに来て、休日に遊べるような友だちもまだおらず、年末に地元に戻って友人と会うのをとても楽しみにしていた……
実家に帰ってこたつにもぐって、家族で鍋つつきながらテレビ見るのを心の支えに頑張っていたのに、と、……そういうことなんですね。
こんなご迷惑をかけて申し訳ないって……迷惑だとは思ってないです。何度かおどろきはしましたけれど。
そんなことより、確認したいことがあります。
キタガワさんが自分の家だと思って入ろうとしていた場所はあたしの部屋だったわけですが、あなたはいったいどこから来たんですか?
……ああ。
なるほど。
それはこのマンションの、いまいるところの一つ上の階ですね。
ここは二階です。
そうみたいですね、ええ。ただの部屋間違い。
よかったですね。キタガワさんのおうちがとつぜん別の人の家、あたしの家になってしまったわけではないみたいです。
あれ、でもおかしいな。上の階には小さな子どものいる家族が住んでいると思っていました。
なにせ、軽い足音や小さい子の笑い声がしょっちゅう聞こえてくるので………………
ほら。いまも聞こえましたよね。こんな夜中ですが、元気に笑いながらドタドタと走り回って、……
冗談です。いま嘘をつきました。
子どもの足音や笑い声が聞こえてきたことはありません。いま聞こえたというのも嘘ですから。
安心してください。
あなたを泣かせるために嘘をついたわけじゃないんです。
本当に上の階に住んでる人なのか、気になったものですから。
……キタガワさん、ほんとはなにしに来たんですか?
紅茶を飲みながら世間話をするために来たんですか?
ちょっと。お邪魔しましたといって帰ろうとしないでください。帰れと言っているわけではありません。
……様子からして、あなたの話に裏なんてないことはわかっています。でもね、一応ということもあるから、念のためにもう一度聞かせてください。
キタガワさんはあたしに用があって、あそこに立っていたわけではないんですね?
……はあ。
こみいった話のできる人がとうとうやってきたのかと、期待してしまいました。
あなたは、本当に年末に体調を崩して実家に帰れなかっただけの人なんですね。
……具合が良くないのに、色々と質問したり、いじわるなことを言ったりして、ごめんなさい。
静岡、行ったことありますよ。湧水群が特に印象に残っています。とてもきれいなところですよね。
行ったことない? そっか。じゃあ次に帰ったときに行ってください。
眠そうですね。横になった方がいいんじゃないですか。
夜明けまでには、まだ時間がありますし。
いていいですよ。明日は仕事もないし、他の用事もありませんから。
うつしたら悪いって?
うつってるとしたら、あなたを部屋に寝かせるために肩を貸したときでしょうねえ。そんなのいまさら、気にしちゃいません。
部屋に戻っても一人なんでしょ?
ええそうです。あたしもここに一人で住んでいて、家族のところへは帰れません。
だから、知り合いのいない心細さはよくわかっているつもりなんです。
仲のいい人ですか? あたしによくしてくれる人ならいますよ。
もう何年も厚意に甘えてその人のお世話になっています。でも、さすがに家族水入らずの海外旅行にまでついていくことはできないでしょう。
あたしもどこかの旅館で年を越そうかと思いましたが、なんとなく今年は家でいいかと、こうしてここにいるわけです。
よかったですね。あたしが旅に出ていたら、キタガワさんは力尽きるまでドアの前で泣き続ける羽目になっていたことでしょう。
さ。ほら、立ってください。
起きたら、あなたが玄関先に落としていたレトルトのおかゆくらいは温めてあげますから。どうぞ寝てください。
え? あたしは寝ないのかって?
眠くなったら寝るので、あたしのことはお気になさらず。
寝つけないのでパソコンで作業をしながら考え事をしていたら、どんどん目が冴えてきてしまったんです。別にあなたがいたから起きていたというわけじゃありません。
そうだ。キタガワさん、あたしと友だちになりましょうよ。
ふだんはだいたい駅前の喫茶店にいますから、さみしくなったら会いに来てください。
仕事? してますよ。その喫茶店で働いているんです。
……いえ、そっちの喫茶店じゃなくて、反対側の出口の方の。あとで詳しく教えてあげますから。
じゃおやすみなさい。
……なんですか? 言ってなかったことがある? ええ、いまさらなんだっていうんでしょう。
…………ああ。
ふふっ。いえ。律儀な人だなと思って。
こちらこそ。
今年からよろしくお願いします。