売らないし
ああ、キヨミさん。こんにちは。
いまは休憩中ですか? おつかいの帰り。そうですか、おかえりなさい。
ええ、朝から降りどおしですね。
ちょっと暖かくなったと思ったのに、また肌寒くなってしまって、なかなか長袖がしまえない。
早く明けてほしいものです。
そうだ、このあいだはいい医者を紹介してくれてどうもありがとう。
処方してもらった薬で効きました。ピークも過ぎたし、雨で花粉もあらかた洗い流されたことでしょうし、もう大丈夫です。
……いまからですか? お茶しに来ないかって、お店の迷惑にならないでしょうか。
雨でひましてる。マスターがそう言うんなら、お邪魔しようかな。
いいえ。あたしは雨がしたたり落ちてくるのをぼーっとつっ立って眺めていただけです。忙しいなんてことはありません。
スミレさん、こんにちは。朝ぶりです。お店で会うのは久しぶりですね。
あら、お客さんあたしだけですか。じゃあカウンター席ひとり占めしようっと。
そうですね、まだまだ降りつづけています。おまけに今日はよく冷えるし、二人とも、体調には気をつけてくださいね。
あたしは全然、花粉症さえ治まればこっちのもんです。
このあいだまで鼻がつまっていて、なにを口に入れても味がわからなかったんだけど、最近やっと元に戻ってきました。コーヒーのいい匂いがわかって嬉しいです。
ありがとう。いただきます。……ああ、おいしい。
おいしい。あったまるし、やっぱりコーヒーは落ちつきますね。
よかったらこれもどうぞって、なんだろう……
……バウムクーヘン?
スミレさんが作ったんですか? 試作品? 食べていいの?
おいしい!
舌触りはしっとりなめらかなのに、口の中で重くなりすぎず、すっと溶けていく。いくらでも食べられます。
うーん、そうですね。メニューとして出すなら、クリームをのせるとか、プレートの周りにベリーを散らすとか……いや、それだとパンケーキとかぶるか……
え、いままさにあたしが言ったトッピングでメニューに出そうとしていた。あはは。気が合いますねえ。
そうだ、このお菓子の飾りつけ、もう少しあたしにも考えさせてください。
ええ。「映える」メニューの方が、作る側も食べる側も楽しいですもんね。
そういえば、バウムクーヘンで一つ思い出しました。
友人を探しているという話を以前お二人にしたことがあるのですが、覚えているでしょうか。
……ええ、その人です。
東京にいたときなんですけど、一度その友を見つけたことがあります。
といっても、人ちがいだったんですけれどね。
4月か5月で……花粉症の症状が特にひどく出ていたことを覚えています。
でも、このときはまだ自分が花粉症だったなんて知りませんでした。
なんの病気かわからないけれど、病院に行くのは気乗りがしないナア。なんてことをぼんやりした頭で考えながら、街路に立って道行く人の顔を眺めていたんですよ。
そしたらね、見つけました。人の波の中に。
あたしが友人と勘違いして話しかけたのは、お菓子の移動販売をしている人でした。
探している人とは服装も髪の色も違ったのに、どうして間違えたんでしょうね。背格好は少し似ていたかな。
もしかしたら、花粉で頭がもうろうとしていたのかもしれません。
人ちがいに気づいてあやまったら、その人はバウムクーヘンを買わないかと勧めてきました。
おいしいものを食べると元気が出るし、そのなみだと鼻水も止まるかもしれませんよ、ですって。
買いました。
勘違いで話しかけた申し訳なさがありましたし、なにより、このやまいがバウムクーヘンとやらで治るのなら、という望みが大きかったです。
バウムクーヘンを買うと伝えると、販売員はたいそう喜んでいました。なんでも、お菓子を全部売り切らないと家に帰れないんだそうです。気の毒だったので、もう一つ買ってあげることにしました。
口と手を同時に動かすのが得意な人のようで、勘定や品物の受け渡しのあいだも、ずっとおしゃべりしてました。
話の中で人を探しているのかと聞かれたので、そうだと答え、探している人の特徴を伝えたんですよ。
その人は難しい顔をして少し黙ったあと、わからないと言いました。
あたしの落胆を読みとったのか、続けてこうも言ってくれました。
もっと詳しく教えてほしい。そうすれば、今後あなたの探している人に出会ったときに、気づくことができるかもしれない。もし気づけたら、あなたが探していたと伝えることができる。
ええ、いい人ですよね。あたしも目にたまったなみだをぬぐいながら、そう思ったものです。
だから、ふところから時計を取り出して、自分の手のひらにのせて見せたんです。
探している人は、これと同じものを持っている。そう言いながら。
その瞬間、お菓子屋は目の色を変えました。
あたしの手首をぎゅっとつかまえて、時計に顔を近づけてしげしげと見はじめたんですよ。
びっくりして、あと少しで時計を取り落とすところでした。
さっきまでニコニコしながら話をしていた人が、急にギラギラした顔つきになって、訊ねてくるんです。
これはどこで手に入れられるんですか?
いくらで手に入れられるんですか?
いつ頃作られたものなんですか?
誰が作ったものなんですか?
これは本当に時計ですか?
って、そんなことを、とにかく矢継ぎ早に浴びせてくるんです。全部時計のことです!
あたしは口を開けたまま、なにも言えずにつっ立っていました。
質問に答える前に、どんどん別の質問に進んでしまうものですから、答えようがありません。
もうあたしが探している人のことは頭から抜け落ちてしまっているようでした。
それどころか、あたしの存在も忘れていたんじゃないでしょうか。
その人のまなざしはすべてあたしの手のひらの上にそそがれていました。
時計、時計、時計。関心はただそれだけのようでした。
気味が悪かったので、放してくださいと言って乱暴に手を引き戻したんです。
お菓子屋はうらめしげな表情でこちらを見上げたあと、すっと表情と背すじを正しました。これもまた不気味でした。
それからどうするのか。あたしが身がまえていたら、その人は一歩踏みこんで近づいてきました。
ええと、なんだったかな……。おどろかせてすみません、実は趣味で古美術品を蒐集していて、あなたの持つそれは価値の高いものとお見受けします。奪うつもりはありませんから、いま一度その時計をよく見せてください……はっきりとは覚えてないんですけど、たしかこんなことを言ってきました。
でね、そう言いながらも、じりじり近づいてくるんです。
断りました。
時計には高価な宝石がついているわけでもなし、凝った意匠が施されているわけでもなし、その人の言う意味がわかりませんでしたから。
それに、奪うつもりはありませんなんて念を押されては、怪しまずにはいられません。
お金は払ったし、バウムクーヘンは受け取った。もうこの人から離れよう。そう思って、歩き出しました。
ついてくるんですよ。
あたしの右に並んだり左に並んだり、真後ろにぴったりついたりして、ずっとぶつぶつ言いながらついてくるんです。
なにを言っているのかと思えば、同じ時計が自分もほしいだとか、言い値で買うので売ってほしいだとか、時計の情報を教えてくれたらさらに5個バウムクーヘンをあげるだとか、そんなことばっかり。
時計は売らないしバウムクーヘンもいらない、人探しにも協力してくれなくて結構。だから、これ以上つきまとうのをやめてください。
何度もそう言ったんですが、諦めてもらえませんでした。
はい。それで最終的にどうなったかと言うと、こちらが折れました。
だって本当に、……一秒でも早く目の前からいなくなってほしかったんです!
……たしかに、スミレさんの言うように、ずっと持ち歩いていた時計です。思い入れがないわけではないです。
でも、時計はもう壊れていたんですよ。動かないんです。それに、時計よりも手放したくないものがありました。
絶対に手放したくないものです。
だから、その「もっと大事なもの」に目をつけられる前に、時計だけをくれてやろうって思ったんです。
……いいえ、あげたというか……投げました。
時計をチェーンからはずして、力の限り遠くへ放り投げました。
お菓子屋はなにやら叫びながら時計を追いかけて走り出し、あたしはそれとは逆方向に走り出しました。
時計とその人がこのあとどうなったのかは知りません。
あたしの方は、このあとしばらく落ちこみましたけど。
気が動転して時計をぶん投げてしまったけれど、本当にそんなことをして問題はなかったのか、あとになって気になりだしてしまいました。
あとやっぱり放り投げたりしないで、取れるだけふんだくっておけば良かったとも思いました。文化的生活をいとなむにはどうしたってお金がいるし……
ええ。いまはもう、時計のことは気にしていません。
大切なものはちゃんと手もとにあるし、気にしたところで戻ってくるはずもありませんから。
バウムクーヘンの話、思ったよりも長くなってしまいました。
え? お客さん来ないしもっと聞かせてほしいくらい? キヨミさん、それ笑って言うことじゃありませんよ。
……ところで、話はまったく変わるんですが……ええ、その……こっちに越してきてから日もたつし、そろそろ貯金を切り崩すだけの生活から抜け出ようと思うのですが……
このあいだのお話、ここで働かないかって話、受けさせてもらえないでしょうか。