結
七
ネタをばらしてしまうと犯人は彼女の親友だった。
親友は天才たる彼女への羨望から最近ついに悪戯をするようになった。初めは例えば筆記具を隠す程度であったが、彼女が全く疑おうともしない様子からエスカレートし、学生証や定期を盗むでは飽き足らずとうとう彼女の研究成果であり研究道具であるシステムのシステムファイルを壊した。
親友の狂気的な犯行がオペランド条件付けによるものか、羨望に秘められた嫉妬によるものなのかは定かではないが、親友は一線を越えてしまった。その時点で許されまじ悪人と化した。だから俺は奴を裁くことにしたのだ、悪人として。
システムファイルは彼女のユーザにログオンせずとも破壊は可能だった。二人のユーザは同じコンピュータ上にあった。親友は自分のユーザから彼女のデータにアクセスできることを知ったのだ。
意外だったろう、普通ならそんなことはできないように設定されていると考えるだろう。親友も思い込んで実際にパスワードを突きとめて一度侵入した。これもまたコンピュータに疎くなくても、知らない内に忍び込んだことがばれるなどありえないと思うだろう。しかし全くの偶然で犯行が判明した。ログオンの履歴が残ることは今でも知らないだろうから、何故パスワードが変更されたのか驚いたはずだ。
そうして彼女の悪心は刺激され、データの破壊へと至った。途轍もなく簡潔に言うならば、学校のコンピュータのセキュリティが甘過ぎたというのが謎の答えだ。どうやってデータを破壊したかは知らないが。
真相を解明した俺は、どうにも彼女には伝えてはならないと察した。彼女は純粋無垢な少女にして社会的に立派な才女、批判に対する耐性はあれど、親友から隠れていじめを受けていたなどという酷な現実に耐性はない。
彼女の心を折りたくはない。だから俺はこの事実を心に押し込めて彼女と生きていくと決意した。隠し事。俺は悪人だ。
看過はできない、もし真相を完全に秘匿してしまえば、俺は親友のいじめを見過ごすことになる。それは結局彼女のためにならない。俺は彼女を守りたい。そのために俺は親友とかいう悪人を彼女から突き放す。関係の壊滅。俺は悪人だ。
電話で脅迫してから三日。親友が彼女をいじめることはなくなった。平穏な日常はもう俺の目には見えなくなってしまったが、灰色の世界で彼女がいつまでも輝いてくれるなら、俺はそれでも良い。そう覚悟したのだから。
彼女は親友へ幾度か話しかけに行くことがあったが、相手も状況を把握してかギスギスしながら対応しているようだった。俺は心の中で、良く覚えておけ、それがいじめをした奴が今後一生背負うことになる混沌の感情だ、と軽蔑していた。
「見て下さい、一緒に心理学を勉強した甲斐がありましたね、心の成長と発達の搭載が実現しました」
と彼女は画面へ両手をひらひらさせた。
俺がお疲れ様と言うと彼女は笑んだ。
研究は相変わらず順調であった。その速度も彼女を天才たらしめる一つなのだろう。彼女は、まだ基礎部分ですからとか謙遜するが、そもそも新しい学問を立ち上げている時点で天才と呼ばれるべきなのだ。
四日目、彼女より先にゼミ室に到着した、天気は最近やたら多い雨。季節に反して部屋は少し肌に寒かった。
彼女を上の空で待っていると、教授が顔を出した。
「そうだ」とまるで今思いついたではない様子で教授は言った。「かの少女からわたしにちょっとした告白があったよ」
「それ、俺に関係ありますか」
ジョーク殺しにかかると盛大に回避され、教授は続けた。
「〝わたしの理解者でいて頂きありがとうございました〟だとさ」
俺ははっと思った。俺の全思考回路をぶっ壊すのに十分な言葉だった。体が動くままに支度をして大学を飛び出る。教授は何も妨げなかった。
いつかは訪問したいと望んでいた住所だ、まさか忘れるはずもなく、電車に急いで乗り込んだ。移動時間が惜しく自然と足が地面を鳴らしていた。目的地の最寄駅に到着するなり、走り出した。携帯電話のGPS機能を利用してそこへ駆け抜ける。
そうして一軒家に辿り着く。車がないことから在住の人物が限られる。俺はインターホンを押す。頼む出てくれと祈る。暫くして何者かが受話器を取った音がした。開けて欲しいと加減を知らずに声を荒げて依頼する。また暫しの沈黙の後、玄関のドアが開いた。
彼女が姿を現す。その目元には影が落ちていて、全く生気が感じ取れなかった。俺は彼女の承諾も得ずにずかずかと玄関に踏み込み、部屋に連れて行って欲しいと言う。
彼女は頷いて俺を自室と思しき場所に案内した。部屋には電子機器が多く置かれていて、その中に可愛さが潜んでいた。彼女らしい部屋だった。彼女は俺に背を向けていて顔を窺い知れない。だからより意を決して言わねばならない。
「今まで隠していた、ごめん。俺は君を心のどこかで馬鹿にしていたのだろう、ごめん。しっかりとあの場で話すべきだった。例え君が傷ついても、それがいかに酷であっても、君一人に背負わせるべきではなかった。俺は自惚れていた、きっと君を守ってみせるヒーローのように。ごめん、もう少ししたら俺はここから消える」
なんで、と彼女は小さく小さな声で言った。
「俺はまだ幼い頃皆に勇気を与えるヒーローに憧れていた。君に出会うまで一切を忘れていたけれど。でも思い出したからには意識的に行動せざるをえなくなった。俺は君を好きになった以上君を守りたいと思った。そのためなら悪人にでもなってやると、その所為でいつか本物のヒーローに倒されたって良いと思った。ただ、それだけなんだ……」
弁明だとは自覚している。言い訳だとは自覚している。君に嫌われても仕方ないとも思っている。俺も君の親友と同じことをしたのだから。君に隠し事をした、君と偽りの自分で言葉を交わしていた。君が悪だと言ったそれをしてしまった。君の信頼を裏切った。同時に君から一人友人を奪ってしまった。どう言い繕おうとも酌量の余地はない。
「もう少し俺が冷徹であれば君を守れたかもしれない、そうして破滅することを潔く受け入れて死んでしまえただろうし、もう少し俺が君の近くにいたなら君を慰めてやれたかもしれない、そうして苦難を共に背負えただろう。だが俺は結局無意識に世間体を気にするあまり君と一線を越えるのを拒んだ。俺は……君を好きになるべきではなかった」
「――違う!」
彼女は怒鳴った。
「そうじゃない、なんで……なんで、そんな自虐をするんですか。わたしがあなたを許さないはずがないじゃないですか。……許さないのはきっとあなたです。わたしはどうしようもない人間なのです、せっかくあなたに勇気を貰ったのに、今日こうして絶望してしまった。わたしは消えてしまうべきなのです」
「何言っているんだ、君が消えても何の意味もない」
「……申し訳ありません、一人にして下さい、あなたに合わせる顔がもうありませんから」
彼女は静かに、強い口調で言った。その言葉には力があって俺を頷かせようと働いた。だがここで俺は頷いてはならなかった。まだ悪人にならねばならなかった。
「嫌だ。全ての前言を撤回する、君が俺に怒りの感情を抱いていないのなら、抱くまで撤回を撤回しない。俺の好きな君はこういう時俺を怒る君だから、君が俺の好きな君になるまでここにいる」
どうしてと彼女は何度も呟いた。
わたしはずっと嘘を吐いていたのですよ、本当のわたしは貧弱な人間、いつでも倒れてしまいそうな足を無理矢理立たせて平生を繕っていた、あなたに並ぼうとするあまり丁度良い仮面を着けてあなたと向かい合っていた。
本当のわたしはこうなのです、何事にも挫折して絶望して自虐して自殺しようとして、あなたに貰った勇気を今日ないがしろにした。誰かに甘えないと生きていけない癖に、自立していると嘘を吐いてきた。あなたが悪人だなんてとんでもない、それならわたしは一体どこまで堕ちればいいのですか。
――彼女の声は暗澹としていた。
「無理をして、疲弊して、破綻したんだろう。だがはっきり言うよ。それがどうした。君は全く嘘を吐いていない。俺のように俺へ何かを隠したか? 親友のように俺をいじめたりしたか? していない、君のそれはひたむきな努力だ」
「努力だとしても、耐えられなくなってしまったのですよ、苦労しても誰にも理解されないのなら努力するだけ無駄、もう努力したくない、死んだように生きていたい、いや死にたいって、そう思っているんですよ!」
彼女はようやく振り返った。
その頬に涙が伝っていた。それを見俺は冷静さを取り戻す。
「嘘は本当になる。俺が本当にしてみせる。いや、既に君は本当にしている。俺は何事にも諦めない君を好きになった。だから君が本当に絶望をしていたら、俺は君を好きでいられなくなる。俺は物質の君を愛せない」
その話は昔にした。彼女も思い出しているはずだ。
「だが俺は今も尚君を好きでいる。原因は、分からない。でも多分君にまだ嘘を吐こうという気があるからだと思う」
絶望したと言う嘘を。
「その裏に俺はまだ努力をしようという君の意志を見出しているのだろう。こうして曝け出した以上、今まで通り〝かっこいい〟君にはなれないかもしれない。でも、もし孤独を棄てて俺といようとする気持ちがあるのなら、それはやっぱりそれだけで努力なのだと思う」
自分の弱さと戦う努力。それを嘘だと言うのなら、俺は何も責めない。
むしろ本当への変換を手助けをする。結果彼女はいっそうかっこよくなるのだから。努力なしに自分の弱さと戦うなんて、それこそヒーローじゃないか。
「何も自分を疑わなくて良い。君はもう立派に自分の道を歩んでいるのだから」
迷わずにその道を進め、俺はいつでも君の道を追いかける。
彼女は深く俯いて俺に歩み寄り、
小さく握り拳を作って胸を叩いた。
「……わたしの横を歩いて下さい……、……怒りますよ」
最後の最後の台詞に駄目だしを受けてしまった。
怒る彼女は満更でもなさそうだった。
八
彼女の部屋の窓から重厚感のある雲と激しい雨が見える。
思い出しませんか、と彼女は再び問うた。俺は何も思い出せずに首を振る。
「もう、いい加減思い出して下さい、そうでなくてはわたしの自信がなくなってしまいます」
一体彼女は何を言っているのだろうか、全く見当もつかないで黙っていると彼女はとうとう隠してきたのだろう本来隠す必要もない現実を明かした。
「わたしとあなたは同じ高校出身なのですよ」
え、と声が漏れる。その直後記憶映像が脳を駆け巡る。
フラッシュバック、少し色褪せた懐かしい青春の一部分。そうだ、あの日も雨だった。それだけは何故だか確信をもって言える。
閑散とした薄暗い進路センター、そこに君はいた。
「そうです、あなたはわたしが進路について悩んでいたときにわたしを導いてくれたのです。あの頃わたしは自分の惨めさに絶望していました。友人は一人もいないし、彼氏なんてありえないありえない、クラスの皆からは疎外されるし、担任におまえの学力ではどの大学にも受からないと言われるし、自己否定感に酷く苛まれていました。日本の教育方針が悪いと言っても、わたしが惨めなのは否定できないのですから、言い訳の余地はありません」
そうだ、君は机に突っ伏せてつまらなそうに虚空を覗いていた。
「そこへあなたが現れて言ったのです、〝君には進みたい道があるのかい〟って。恥ずかしいことに当時のわたしには目指すべき進路はありませんでした。ただ、社会的に大学には進学したいと思っていましたから、少し虚勢を張って、行きたい大学はあります、と答えました。すると〝ならその道に進めば良い。何も悩む必要はない。いちいち周りの目を気にしていたらもったいないだろう〟と言うのです」
君は、そのためにわたしは何をすれば良いと問うた。
「あなたは〝取り敢えずは数学を勉強すると良い〟とてきとうに答えましたね。わたしはそれを受けて数学と物理を勉強しました、全教科全体的に苦手でしたから何でも良かったのです、所属学系が何せ文系でしたから進む大学は文系でしたけれど」
そんなてきとうな答えでここまで偉大な成績を叩き出したのだから、まごうことなく君は天才だ、少し自分で考えて欲しかった気もするが。
「進路センターの別れ際、あなたは最後にある言葉を置いて行きました。〝きっと君ならできる。君が何事にも諦めないかっこいい子になってくれたら、俺も喜ばしいことだし、もしその道を誰にも理解されなかった時は、俺が理解者になってやる〟と。その態度も口調も全く異次元で、変な人と思っていましたが、時間が経る度、校内ですれ違う度、あなたの話を耳に挟む度、あなたへの不思議な想いが膨れていきました」
あなたは良くも悪くも有名人でしたから、と彼女は悪戯っぽく笑む。
「結局あなたがどの大学に行くのか知れずじまいで卒業し、この大学に入学したのですが、そこにあなたがいたのです。運命だと思いました。あなたの言葉を信じて勉強をしていればいつかはあなたはわたしを振り向いてくれると思って頑張りました。そうして今があるのです。わ、分かりましたか、わたしの一方的な恋心を」
頬を赤く染めて彼女は尋ねた。俺も体が火照るのを感じつつ応える。
「十二分理解した。不思議だな、俺たちは片方が連結を切らしていても、どこかで強く繋がっていたんだな。君の恋心を理解して、それを受け入れて改めて思うよ。俺も君のように強く君を想いたい。そのためにはまだ絶対的に時間が不足している」
だから、その、と言葉を詰めて、はっきりと言う。
「俺と付き合ってくれ」
彼女はお得意の穏やかで綺麗な満面の笑みを浮かべて、はい、と返事をした。
続けて、ちょっと教授にはまだ打ち明けられませんね、と茶化した。
確かにそれはまだ難しいかもしれないな、と俺も茶化し返す。
レズビアンのカップルができたと聞けばあの人は仕事を放棄してしまうだろうから。
あとがき
初めまして、雪斎拓馬と申します。
これにて本編完結で、後に番外編が一話あります。
解説等はその番外編のあとがきに記すとして、ここには軽く与太話を書きます。
※以降他作家様の名前が登場します、軽く閲覧注意です※
当作品は分かる方にはお分かりになられるかと思いますが、夏目漱石大先生のこころや円城塔大先生のSelf-Reference ENGINE等に影響されています。(両者非常におすすめなので是非)
この小説を書いて痛感したのは、例え出番を抑えたとはいえ、架空の理論を小説に書き起こすというのは大変なことだということです。本当に円城塔大先生には心から尊敬します……。
ところで特別主人公が女であることを重要視しているわけではありませんが、一応小ネタなのでネタバレを気にしてGLの必須キーワードをチェックしていないのですが、いつか注意されそうですね。「駄目やろ!」とお思いになった方はコメントして下さい、恥ずかしながら私はその線引きを良く把握しておりませんから。
――と記す予定だったのですが、この結を投稿するに際してGLタグを付けることにしました。「GL要素なくない?」というのが狙いですね。キーワードを読み飛ばして頂いた方にはもれなく旧いネタをご覧になって頂きますが。
当作品ではわざと誤った日本語、比喩表現がしばしば見受けられますが、誤字脱字以外は殆どがわざとです。特に首を傾げられるだろう箇所には傍点を打っています。(傍点の使い方が強調だけでなくこういうことにあると思うのは私だけでしょうか。ゴールディング大先生の蠅の王で〝ぜーんそく〟に傍点が打たれていたのがとても印象に強いのです)
傍点といえば、当作品の〝俺ははっと思った〟にも打たれていますが、夏目漱石こころの〝私ははっと思った〟のオマージュであることが理由です。
ここで縮小された二万文字の余白を拡大するのはナンですから、切り上げましょう。
ここまでお読み下さりありがとうございます。
では是非また番外編で。