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    五



 俺の部屋を見た彼女の第一声は、思ったより質素ですね、だった。


 下宿一人暮らし、なるべく安い賃貸を借り、なるべく安い雰囲気で生活する。俺はあまり豪奢なものが好きではない。その点化粧をしない彼女は評価が高い。


「わたしは……化粧はいつもしていますよ。あなたには見えないだけで」

 彼女は決まってそう俯くのだ。そして決まって俺は、ふうん、といい加減に返す。


「テレビもパソコンもないんですね。ゲーム機も見当たらない」

 おい漁るな、と制してもきょろきょろする彼女。

「本ばっかりですね。ゲームしないんですか?」


 まずい、理系科目の参考書を発見されると恥ずかしい。俺は素早く本棚をスライドさせてその類の書物を隠し、強引にテーブルへ着かせた。家に上がらせておいて何も出さないのはなにかと思い麦茶を一杯テーブルに置く。


「ゲームは、しない。トランプは小学生の頃に良くやっていたが、他は良く分からないし何より高い。俺にゃ生活費でいっぱいいっぱいだ」

 勉強熱心なんですね、と彼女。

「君の足元にも及ばないようじゃ勉強熱心でも意味がない。俺はそういう意味で馬鹿だ」


「そうひがまないで下さい、先刻も言いましたよ。今夜はあなたの自信を復活させるために費やしましょう。わたしが徹底的にサポートします」


 結局俺と彼女は話し込むのが好きらしい。

 彼女の家に上がるなら状況は少し違ったものになるかもしれないが、どうせビデオゲームにも飽きて同じ状況に収束するだろう。心理学の話、哲学の話、数学の話、物理の話、概念の話、特に研究の話、あるいはお互いの話。その停滞を苦ともしない、外界は刻一刻と時針を進めているというのに。どこかで安堵しているのかもしれない、逃げているのかもしれない。必然的に訪れる別れから。


 出会いがあれば別れもある。システムもその関連性を強く示唆している。あまりに強固で切っては離せぬ両者、表裏関係にないところがミソだ。

 もし二つの結合を解除したいのであれば、その要素のいずれかに無限大の値を代入せねばならない。例えば宇宙のように、例えば架空の存在のように。だが両者は結局のところ概念と言っても過言ではない存在であり、やはり物理世界に存在する以上、いつかは綻ぶのである。


「人はニヒリズムに陥るよう設計されているのでしょう、神が生きていても、そこに有の価値観はありません。わたしは恐ろしいものを生み出してしまいました、フロイトの機械的で無慈悲な考察が証明されようとしているのですから。人は内に死の欲動を秘めていて、戦争が絶えず勃発するのは必然。悲しいとは思いませんか」


「悲しいさ。生命の死は全てが哀しいとかほざきながら、地球の裏側を案じないあいつらが、哀れで、悲しいのさ。この意見の一致も俺が本来君との間に隔たるべき壁を取り除いた原因なのかもしれない。俺の真愛は君のような人には向かないはずだった。どころか俺は恋愛に興味がなかった。元より俺のようないかつい奴を好む奴はいないのだ」


 それならわたしは変人ですね、と彼女は言う。

「はは、類が友を呼んでくれるなら、少し考えもんだな」

「安心して下さい、そもそもルイなんて友達、わたしたちは持っていません」


 暫く話し込んだ。かようの対談は往々にして意味を成さない。明日には忘却してしまう中身のない情報なのだ。

 だが塵も積もれば山となる、外殻個体に意味はないが、外殻の山に意味が付与される。システムも価値の変動を示している。俺たちは二度と思い出せないような情報の上に直立しているのだから、例え意識に上らなくとも、どこかで連携しているのだ。


「山も積もらねば塵と同じですけれどね」

 不条理な理論をとなえる彼女、是非やめていただきたい。彼女はシンシアジョークですとちゃらけて、

「風呂、入りませんか」


「ああ、先にどうぞ、俺は夕飯の準備をするよ」

 と促す。彼女は頬を膨らませて言う。

「違います、一緒に入りませんか、ということです」


「はあ? 何を言っているんだ、君は。流石に恥ずかしいだろう」


 何を恥ずかしいというのです、と彼女は俺の腕を引っ張ったが、断固拒否して彼女が一人で先に入ることになった。

 その間普段はしない料理を割と真剣に行い、二人分のありふれた料理が完成した。自信はない。喜んでくれるか心配ではあるが、作ってしまったものは仕方がない。正直今すぐ生ごみ袋にぶち込んでやりたい衝動が俺の胸を内側から破裂せんと膨張している。しかし料理が出ないのは問題だと思うため妥協した。


 俺も風呂から上がり、いよいよ夕食の時間。彼女の口にそれが運ばれる。


「ん……」一瞬硬直する彼女。

 これでは何を思っているのか不明瞭だ。どうだ、と尋ねる。

「あなたらしい可愛らしい味です、おいしいです」


「なんだその評価は。けど、そう言ってくれるだけありがたい。冥利に尽きるよ……」


 完食した様子を見るに、差し障りなかったようだ。いつでも彼女を歓迎できるよう料理スキルも上達させておかねば嫌われてしまう。


「今、料理も勉強しなきゃって考えましたね?」

 唐突に俺の思考を読む彼女。頷いてみせると、

「やめて下さい、わたしの、料理下手だけど頑張るあなたがいなくなってしまいます」


 そのステータスが嫌なんだけれどなあ、と苦笑せざるをえなかった。

 夕食も終えて夜も更けて、そろそろ就寝時刻が迫った。一人暮らしのため当然布団は一つしかなく、俺が床で寝ると言うも、彼女が一緒に寝ようと譲らなかったため、とうとう折れて狭い中二人並んで眠ることになった。流石に二個目の布団を買おうとは考えないが。


「君のさ」と話題を振る。「この趣味はいつからのものなの?」


「……あなたは、いつから自分を俺と呼ぶようになりましたか?」

 予期せず質問が返ってくる。回顧してもいつのことだったか全く思い出せない。

「わたしも多分同じなのです。気が付いたらこうなっていました。いやはや不思議ですね。これも運命でしょうか。でも今思えば本当運が良かったです。運命が、良かったです。あなたが理解のある人で良かった」


「時に何かは理解者を必要とするのか。嫌な現実だ。俺は何故君の才能を批判する奴がいるのか本当に疑問に思えて仕方がない。ぶん殴って目をこじ開けて、どうだおまえのちっぽけな才能とどっちが秀でているかまだ分からんかと怒鳴りつけたい」


「実際にはやらないで下さいね、わたしは気にしませんから。アインシュタインもニュートンも批判はされるのです。フロイトやらユングやらなんか今でも批判の嵐ですよ。わたしはあなたという理解者がいるだけで、どんなに幸せか言い表せません」


 けれどもしいかに幸福かを完全に表現できてしまったら、それは終焉を意味するのだとも思います。あのシステムではまだ観測されていませんが、四次元空間は流動的で、脆弱なのです。たった一言で人が救われるように、たった一言で二人が破綻することもあるのです。

 ――彼女は雄弁に語った。自身が証明してしまうかもしれない悲しい現実を。


「俺もそう思う。……たまのおよ、たえなばたえねながらへば、しのぶることの、よわりもぞする。おやすみ、また、朝に。もう寝なければ奇妙な衝動に耐えられない」


 二人は心地の良い眠りに就いた。



    六



 だからわたしたちは心の有無ではなく、外見の変異で検証すべきなのです。

 俺はグレーテじゃない、少なくともそれは確かだ。


 朝食を取り終え同じ電車に揺られんとするまでの雑談の一部分。羨ましいことに彼女は寝つきが宜しいのか髪が綺麗なままで、その点からかったところこの議論に至った訳だが、なんだか互いの愛を再確認するに終わった感じもしなくはない。


 初めて同じ屋根の下で夜を明かした日、生憎の雨で幸先が悪かった。大学の最寄駅に到着した頃には霧雨に変わっていて、水溜りはきらりともしなかった。二人肩を並べて通学路を歩く中、思い出しませんか、と彼女が言い出すのでつい空を見上げると、雨粒が目に入る。


「……、そうだね、そういえば君が俺に告白した日もこんな天気だったな」


 予想に反して彼女は静かに一度頷くだけだった。


 天気の所為か何か胸騒ぎを覚えていた。虫の知らせとでも言うのか。所謂シックスセンスは彼女の理論でも解明に至っていない。彼女曰く、四次元空間は可逆時間性を有しているため何かの拍子に未来の情報が心に干渉したものらしいが、抜本的に四次元空間の時が可逆であることを証明しない以上は何とも言えないのだ。


「それが現在のシステムの欠点です。シュミレーションのため操作可能にしていますが、実際がどうなのか全く知り得ません。現状、実質一点の時間のみを切り抜いた概念空間しか扱えないのですから。そうですね、今日はその大問題に取り組みましょう」


 ああ、そうだな、と答える一方で悪い予感が強くなるのを自覚していた。

 一歩一歩、大学の正門へ近づく。潜ればまた一歩一歩言語学科棟に近づく。入ってもまだ一歩一歩ゼミ室へと近づく。まるで寿命が迫り来るように、徐々に俺の中の何かが緊張していく。


 ゼミ室に入った途端、胸騒ぎは確信に変わった。結果など見なくとも分かる。俺が何かを促す前に彼女がコンピュータの電源を入れる。いつもと変わらぬ流れでシステムのエグゼキューションファイルを実行する。

 今まで何の異常も見当たらなかったのに、その粉々になった瓦礫は当然のように姿を現した。


「あれ、開けない」

 エラー文を何度も見返しながら彼女は忙しなくマウスを動かす。


「エラー文はなんて」

 理解できないかもしれないが、落ち着かせる意図で尋ねた。


 システムファイルがクラッシュしているらしいと彼女は応答した。画面を覗き込み精一杯把握せんと努力してみても、何が異常か全くもって分からなかった。


「わたしにも分からないのです。ファイルが消えているでもなし、何が悪いのか、どうして正常に動作しないのか」

 バックアップは、という問いには、

「あります、勿論。けれど……」


 誰かが彼女のユーザにログインし故意にクラックしたとも思えない。そもそも彼女はつい最近パスワードを変更したばかりだ。彼女級にコンピュータに精通していないとログインできまい。そんな奴がこの哲学部にいるとは到底思えない。

 やはり単純明快にシステムエラーだろうか、それで自分の身を破壊するのは賢明ではないと思うが、電子の世界だとままあることか。


「いえ、クラッシュレポートを見る限り、致命的なクラッシュをした風ではありません。むしろ、今し方起動するまで異常はなかったようです」

 なんだそりゃ、と俺。

「はい、なんだそりゃーです。……どうしようもありませんね、バックアップから復元しましょう、幸い破損データは一つのようですし」

 言ってネックレスを取り外す。


 そっちの方が俺としてはなんだそりゃだ、今まで洒落たネックレスと思っていたものが、実はUSBメモリーであった。外見の綺麗さも手伝って全く気が付かなかった。大分小さい端末に見える、容量はさほど大きくないのだろう、緊急用としてはうってつけか。


「いえ、三十二あります」メガ? と訊くと「ギガです」と答える。驚き。


 破損ファイルもバックアップを取り――後で原因を調査するのかもしれない――メモリーから上書き、実行を試みる。果たしてシステムは正常に起動した。俺たちは一旦の安堵を覚え、原因究明を後回しにした。それでも俺の中の鈍い靄は消える気配がなかった。


 原因不明のエラーは電子世界では少なくもないらしい。ブラックアウト。メモリの容量不足、CPUの処理能力不足、HDDの突然改変、ソフトウェア同士の競合、ウィルス感染、電波障害、精密機械ゆえに原因は無限個存在し、それゆえに未詳は不詳なのだ。

 そして極めつけにある程度のエラーは簡単に解決してしまうのだ。だからその原因が何であったか気にしない。デジタルの特徴。残存性、複製性、伝播性。バックアップを簡単に可能とする、復元を簡単に可能とする。これが俺たちの気を緩ませる。


 間違いなく俺たちはどこかのバルブが緩んでいる。真剣さが流れ出ている。彼女は原因不明のエラーと決めつけたが、俺はわだかまりを抱いていた。虚無に対する猜疑心、疑心暗鬼とも言える無駄な懸念。密室殺人事件は存在しえない、論理的にも理論的にも不可能なのだから。必ず穴があるのだ、それは通気口、それは過去に開いた扉、それは四次元物理空間。


「さっきまで瓦礫だったものが機械の形に戻った」俺は無意識的に呟いていた。


 それから予告通り時間の概念を搭載するため、せっかく復元したシステムを置いて、成長アルゴリズムを調べた。良くは分からないが、論理の解釈すると人工知能を製作できそうにも思えたが、彼女にそう簡単にはいきませんよと指摘された。


 時間が経過し日が落ち始める。そろそろ帰宅の時刻である。明日また彼女に会える希望と事件の謎を追う憤りを胸に、ゼミ室を後にしてエレベーターのボタンを押した。


「善と悪は渾然一体になりうるだろうか」

 俺は唐突に問うた。何の意図したところがなかったわけではない。爆発しそうな心が、その言葉を発さんと欲するのだ。もしわだかまりの奥、抑圧された無意識に謎の答えがあるのだとしたら、声に出さない由もない。


 エレベーターは早くも到着し搭乗、一階のボタンを押す。


「どうでしょう、そもそもわたしには善も悪も一緒のように思えてしまいます」

 彼女は親切にも答える。

「特にこの日本では自己欺瞞が酷く高く評価されるのです。幼い頃わたしはどうして茶碗を手に持たねばならないのか疑問に思いました。そして高校生くらいの頃とある店で子供が茶碗を机に置いて背を丸めて食事する姿を見て、なんて行儀が悪いのでしょうと思いました。わたしの無意識にも日本人の美的感覚が育っていたのです。日本人は例え辛かろうとも他人のために自分を良く見せないと美しくないのです。自分はキグルミ、自身を押し殺すアイアンメイデン」


 つまりですね、と話が脱線したのを自覚しまとめる。


「人は皆嘘を吐いているのです、それを人は善ともてはやすのです。もし境界線を、隔たりを、壁を定義するのであれば、何に対して忠実かであるのでしょう。全く日本人は虚無が好きですね。そこに無がある限り美しいと思う、ですか。馬鹿馬鹿しい」


 何が善で何が悪か。境界線は認識の差によって設立される。だが両者が同一であるがために壁なんて関係ない。悪は善を食うように見えるが、同時に善が悪を食っているとも同値記号で換言できる訳だ。論理的には、そうなる。


 しかし何故だろう、俺は今まさに猛烈に答えに近づいている気がする。何が引っ掛かっているのだ、善と悪がどうした。仮に確たる故意を持った犯人がいたとして、最近変更したばかりのパスワードを突破した原因を説明できない。いや、そもそも突破されたのか。


「突破されていませんよ」と彼女は答えた。「少なくとも不審な四六二四番の履歴はありませんでした。……あ、ログオン履歴のことです」

 それは言われずとも解釈できる。


 しかしどういうことだ、ログオンもせずにどうやって。あのコンピュータにはアンチウィルスソフとも入っているのだぞ。


 善と悪がどうした、そこじゃない。

 自己欺瞞か、いや違う。渾然一体か、惜しい。そうじゃなくて、壁だ、境界線だ。善も悪も同一だから、壁は関係ない。


 障壁などない。だから――。


 謎の答えが出ると同時、降下中のエレベーターが突如上昇した。


「え?」彼女が驚いて俺に掴まる。「何で上がっているの」


「教授の仕業だ。それより、俺は君に少し酷いことをしなければならない。先に謝罪しておく。君は俺を許さないかもしれない、そのときは悲しいが受け入れよう」


「何を言っているのですか」

 彼女は心配そうな顔でこちらを見るが、俺は何も答えない。


 一度寄り道したエレベーターは無事に一階に到着し、なるべく平生を装っていつも通り駅内で解散した。俺は彼女の背中を見送ってから、携帯電話を取り出し、今後一生使わないだろうと思いつつ登録したアドレスに掛ける。


「もしもし~、珍しいじゃん」

 相変わらずの気楽さが溢れ出る声で通話相手は応答した。俺は意識的に心を無にしてなるべく短く、なるべく伝わりやすく言う。


「次にまた彼女に手を出したらぶっ殺す」


 すぐさま通話を切断し、天井を見上げ、溜息を一度吐いた。

 良い心地はしなかった。

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