承
三
バッハが好きなんだ、何気ない俺の呟きに彼女は、嫉妬しちゃいますよ、と笑った。
音楽は不思議だ、それはただの空気の振動なのに、人の心を突き動かすに十分な力を秘めている。その力こそが四次元の物体であり、彼女のシステムはその力をベクトルとして扱い疑似的にシュミレートできる。
俺はとうとうシステムで暇潰しに遊べるようになり、興味のある哲学だの心理学だのの理論を検証していた。自然と彼女と共にいる時間も飛躍的に増えたように思える。昔の俺なら鬱陶しく思っていただろうが、今ではそれが嬉しい。
「あれ、このボタンは?」
見覚えのないボタンがメニューバーの右端に追加されていた。
「現在開発中の機能です」
言いながら彼女は座る椅子を俺の方へ寄せ、
「簡易的ですが概念物体を操作することで物理空間にどんな影響を及ぼすか演算する機能ですね」
素直に凄かった。その機能を司る関数は全くのオリジナルだろう。何故こんな天才が哲学部の言語学科なんかに入学したのだろうか。
「開発中ということはまだ使えないんだな」
マウスカーソルをメニューバーからメインウィンドウの描写されたオブジェクトへと戻そうとする。
「いえ、改良が必要ですがある程度は動きますよ」
と柔和に言いながら試行しようとマウスへ手を伸ばす。習慣的な行動だったろう、そこに俺の手があるとも考えずに彼女はマウスを握り、伴って俺の手を握る。
「ひゃっ」急いで彼女は手を離し「すみません!」
大丈夫だよと俺は笑む。
物理的接近を断り過ぎたのかもしれない、彼女は幾らか配慮していたようだ。未だに慣れない、彼女に近づかれると心が正気でいられないのだ。それはまるで恋のようで、恥のようで。どうしてだか心臓が鳴って仕方がなくなるのだ。
「そうですか……、どきどきしましたね」
意外な反応に彼女は一瞬硬直し、にっと口角を上げた。そういうことは言わなくていい、と俺は返した。
その後新機能のレクチャーを受け、色々と遊んだ。
「どうして音楽は人を感動させるのだろう」
不意に俺は呟いた。
「ある感覚を音という記号で感受しているのだろうか。もし非物理的な現象全てが四次元空間での出来事だとするならば、この世界はプレイヤーのいないチェスの盤のようだ。外部の存在に指示を受けない限り、両者はひたすらに向かい合っているだけ、静寂、停滞、虚無」
「わたしは今意志と本能の境界線をシステムで探っています。その疑問の答えはそこにあるようにも思えます。心の在処は心とは何かを証明することで必然的に発見できる、わたしの推論です。教授はそれができれば苦労ないと笑いながら首肯しましたが」
心とは何か。心は何を要素としているのだろうか。記憶は、感覚は、愛は、恋は、心の内にあるのだろうか。あるいは集合ではなく要素そのものなのだろうか。
「君は心を持たない俺を好きになることはできるか」
この設問は何だったろうか、確かスワンプマンだったろうか。人は物質を愛せるか。彼女は嫌な質問をしますねと本当に困ったように答えた。
「多分好きになることはできないでしょう。わたしはあなたの全てが好きです。けれど正直に申しますと、わたしは特にあなたの人格が好きなのです。外見はその次です。もしあなたが物質だったら、多分そこに恋愛感情はありえません」
「……うっかり惚れてしまいそうになった。うん、嬉しいよ。俺も君にそんなかっこいい台詞が言えたら良いのだけれどね。君は俺の人生の教師だ」
俺は画面に向き直った。アンチウィルスソフトの警告画面が表示され、一瞬呼吸を忘れる。地震警報の音を聴いたような感覚だ。無駄に焦燥感に駆られる。慌てて彼女の顔を窺うと、彼女は焦る俺の姿を面白がって盛大に笑っていた。
「あははは、良く読んで下さい、ただのシステムアップデートを要求するアラートですよ」
彼女は何やら操作を始めた。機械に疎い俺からは、後でアップデートをするようにしていることしか理解できなかった。本当に何故この子は俺と同じ学科にいるのだろう。
「大事なシステムが入ったユーザですから、しっかり保護しないとと思ってアンチウィルスソフトを導入したのですが、面倒ですね。シャットダウン時のアップデートをリクエストするだけでも手がかかります」
苦笑する彼女は、しかし突然眉を顰めた。
「どういうこと」
それは俺の台詞だった。彼女が何故困惑しているのか分からないからだ。
何か重大な問題が起きたのだろうか。ウィルスでも侵入したのだろうか。彼女は黙り込んで再び操作を始めた。俺はぼんやりと押されるキーを眺めていた。ホームボタンとR、下矢印キーを忙しなく連打し、エンター。ウィンドウが表示されるなりマウスをダブルクリック。
「気のせい、かな。ログにはあるけれど……」ようやくそう呟いた。
「何かあったのか、俺には良く分からないんだ」
説明を求める。彼女は頷いて答えた。
「はい、今日、わたしがここへ来る少し前に誰かがこのユーザでログインしたようなのです」
それは怖いな。教授が点検した可能性も十分にあり得るが、彼女の研究成果がために少し不安だ。
パスワードの変更をするよう促すと彼女はそうですねと素早くキーボードを叩いた。コントロールとアルトとデリートの同時押し。初めて知ったトリビアだった。
パスワード変更から帰還した画面には「羨望」という名のオブジェクトが表示されていた。
四
その翌日はゼミの会議だった。偶然俺はエレベーターにて榊原教授と乗り合わせた。両開きのドアは閉まり、ゆっくりと一階から十二階へ上昇していく。
「最近少女と仲が良いようじゃないか。わたしとしては優秀な人材が増えて嬉しい限りだ」
教授は気さくに笑って俺の背中を叩いた。
「とはいえどうしてこう女ばっかりのゼミになったのか疑問ではあるけれど」
「……、そんなことより教授、昨日の朝方彼女のユーザにログインしましたか」
同じコンピュータを使いはしたがログインはしていないと教授は首を横に振った。
「だがフォルダは少し覗いた。驚いたよ、日に日に容量が膨大していく。研究熱心で全く何よりだが、人殺しはするなよ」
そう教授が続けると、滅多に覚えない感覚に見舞われた。体が浮くような感覚だ。十二階に着くにしてはやや早いと電光パネルに目を遣ると、七階から降下していくところだった。思わず、は、という素っ頓狂の声が出る。
「いや、わたしも少女に少し憧憬してね、ついエレベーターを改造してしまった。移動の優先順位を進行方向の目的地から乗降を要求する者のいる階層へ変更しただけだが、簡潔に言うと乗る人優先エレベーターというやつだ」
「ふざけんな」
結局三階に寄ってから十二階へ到着した。約二倍の移動距離移動時間だった。人が快適に生活するためには何かの犠牲が必要なのだと痛感した。上手く感受したとしてもやはりこの教授は面倒なことをしやがっただけだった。
榊原ゼミ室へと足を運び、ドアを開ける。するとそこに彼女の姿があり、その横に彼女と愉快に笑い合う女子生徒がいた。
何の話題をしているのか聞こうともしなかったが、どうしてかその光景が俺の胸を締め付けた。非物理的な負傷、この光景は鈍器のような形をしていて、少なくとも物理耐久度の低い形をした俺の心をぶっ叩いているのだ。
この奇妙な痛覚が嫉妬であることは流石の俺でもすぐに分かった。ずっと彼女に俺を見ていて欲しい、他の誰も見ないで欲しい。同時に顔の知るその女子生徒にも憤りを覚えた。これもまた羨望であることにはすぐに気付いた。
駄目だ、かっこよくない、と俺は心を抑制した。鈍器にぶっ叩かれる心を更に締め付けていることは全く気にもしなかった。
「あ、おはようございます」
彼女は俺に気が付くなり尻尾を振るように挨拶した。
「おはよう」歯牙にもかけまいと無理に笑顔を繕って俺も挨拶を返した。
だが心は脆弱だ、会議中俺は腹の奥に毒の如き泥沼を沸々と煮ていた。会議が終わり次第彼女のもとへ寄って言った。
「放課後駅前で遊ぼう、今日はずっと君といたい」
迂闊だったと思う。この台詞はいつしか胸の内に秘めていた彼女への想いの告白にも聞こえる。そうだ、「好き」と直接言わずとも一つの概念を表現する記号は無数に存在しうるのだ。我に返った俺は頬が紅潮するのを自覚した。だが同時に彼女もぽかんとするのを見て安堵した、自己肯定感を得ることができた。
研究を日が暮れるまでしていつもは解散の場所となる駅前をすり抜けて商店街へ入った。洋服店やらゲームセンターやらに顔を出したが、異常なことに書店以外では電機店が愉快であった。彼女と共に過ごし、彼女に伍すらんと勉強した結果、俺も彼女色に染まってしまったのかもしれない。未だに機械は疎いというのに、ゼミ室のコンピュータの発展をどうしてか想像して楽しくなってくるのだ。
一方書店では特別俺に利益のある収穫があった。
「研究以外の君を知れて良かった。俺は君と雑多な会話をして来たが、殆どが研究室でのことだったし、どこか研究質だった。だから今日は一歩前へ進めたと思う」
別れ際、俺は彼女へ感謝の意を述べた。元々は俺のわがままだったのだ、付き合ってくれてありがとうと言う義務が俺にはある。
「まだ、わたしと付き合う気にはなれませんか」
受けて彼女が静かに問うた。
「ああ、すまない。君の足を引っ張りかねない、この懸念が消えない限りは恐らく俺の無意識は俺を許さない。俺はずっと君といたいと願っているのに、俺の中の何かがそれを拒絶する。それを自己嫌悪と推定している」
俺は自分が嫌いだ。いつも受動的でいつも無駄に気取っていて。そんな自分が不格好で、気持ち悪い。そいでいて心のどこかで誰かの肯定を渇望している。
だから俺をいつも肯定してくれる彼女に惹かれた。ただそれも甘えと言えばそうだった。まだ俺は彼女に並んでいないのだから、親と子の体をしていて、恋人とは到底似ても似つかない。
「精神的に向上心のない奴は馬鹿だ」
彼女が強い口調でそう言った。
「夏目漱石の言葉です。でもわたしは思うのです、どうして勉学のみに精進しなければならないのか、いや勉学だけに限定する必要はない、全てに全力であれば尚良いだろうと。趣味とは、いかに疲弊していても悦と感じるものを指すようです、ならば実現は理論上可能でしょう」
それは天才の思考だ。同時に愚者の妄言だ。
だが、事実彼女は全く疲労することなく完遂している。彼女は真に研究が好きで、勉強が好きで、雑談が好きで、俺が好きなのだ。
「つまりですね、自分の道を進んで下さい。わたしはあなたが好きです。けれど自分の信念を貫くかっこいいあなたが好きなのです、もしあなたの進む道にわたしがいないのなら、わたしは傍らであなたを見つめているだけで構いません」
自信を持って下さい、あなたはあなたが悲観する程弱い人間ではありません。
その励ましにわたしは胸を打たれた気がした。これから彼女と別れてしまうことが酷く切なく思えた。もっと彼女といたい。俺を肯定してくれる彼女と過ごしたい。きっと彼女は外殻だけは辛うじて残っている俺の信念を理解している。昔々遥か昔にこうありたいと望んだ幼き頃ゆえの理想像。
――俺は心地の良い懐古なる海に心を沈めていた。
そろそろお別れですね、と彼女は微笑んだ。改札が近づく。超自然の力が働いてか、あるいは、俺の足取りは急に重くなった。
時間は不可逆的に経過していく。この日常が後数年で消滅することは約束されている。哀しくなるのなら一層出会わなければ良かった、そう思うのはそれでも間違いだと思う。俺はニヒルに負けない、例え明日死んでしまおうとも、俺は君を好きでいる。俺は物質の君を愛せないだろう、けれど物質となる君は愛せる。過去そこに心があったのならば。
「あれ」と彼女が突然声を出した。
愁然たる感情が一瞬で吹き飛ぶ。
どうしたと訊くと、
「定期がないのです。切符を買えば良いのですが、少し不安ですね」
違和感が俺を苛む。君は忘れものがちだったか。意外というよりはありえない。几帳面な彼女がこれほど物を失くすとは思えない。何かが思考回路に引っ掛かっていた。俺はしかしこの状況を良いことに、俺の家に来ないか、と提案した。
「え、本当ですか」
当惑する彼女。頷いてみせると、満面の笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます! 是非! あ、でも親に連絡しておかなくちゃ」
言って携帯電話を取り出し、親へ発信する。
「もしもし、わたし、今日友達の家に泊まって良い?……うん、そうそういつもの……ありがとう」
切って俺を見、やはり微笑んだ。
純粋無垢で天真爛漫な容姿端麗、眉目秀麗の天才美少女。俺にはもったいない少女。
そういえば気にもしなかったが、どうして彼女は俺を好きになったのだろう。そのきっかけは、経緯は。
しかし何故だか問うてはならないように感ぜられるし、問うても彼女は答えてくれないように思えてくるのだ。