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ちょっと異質な恋愛小説です。全八節、四話+一話。


    一



 その日が生憎の雨であったことは憶えている。



 初めに聞いたときは随分と驚いたものだ、かの少女が俺への恋愛的好意を熱弁して来るのだから。同じ榊原ゼミ生とはいえ俺と彼女との間に特別な関係があった訳では全くなく、その日は唐突に訪れた。ロマンスのない薄暗いゼミ室、馬鹿みたいに二人は向き合っていた。


 俺は当然の如く彼女の告白を断った、俺にそんな趣味はないと。彼女は受けて面食らったように一歩退いては残念そうに俯いて、わかりました、と呟く。

 小動物を虐待する気分に苛まれた俺は慌てて、気が変わるかもしれない、まずは友人として仲良くしようと提案する。印象に反して本質は天真爛漫なのか彼女は満面の笑みで首を強く幾度も縦に振り、挙句俺の手を握らんと急接近、それを振り払って未曾有の日は終幕した。


 哲学部言語学科四回生榊原ゼミ、心の在処を研究する学部学科内でも大分イレギュラーな研究室である。

 彼女は複雑な意味で悪目立ちしていた。というのも彼女の持論は常に理系的で、文理を問わない世間においては高評価を得られるが、その逆においては非難されるのだ。いや、彼女の研究内容が本題から大きく逸脱し、独自に発展を遂げている所為もないとは言えない。何にせよ彼女は現在、称賛と批判の声に板挟みにされているのだ。


 世界は可算無限次元に包括された集合であり、観測者はその位置から内包される次元のみを理解できる。これが彼女の持論である。一体何を言っているのか理解に苦しむ、俺もそうだし彼ら彼女らもそうだ、だからこの理論は極少数の人間の賛同のみで支持されている。

 しかしながら敷衍すると案外簡単だったりする、要するに次元空間は入れ子になっているというのだ。例えば一次元空間は二次元空間に内包され、その逆はありえない。二次元空間は三次元空間に内包され、やはりその逆はありえない。


 無論そんな戯言はエスエフマニアならひょいと思い付いてしまうだろう、かなり安直な理論なのだ。しかし彼女が何故称賛に値するかといえば、ある彼女の創作物による。

 彼女はまずとある理論を提唱した、第四の次元は所謂概念空間であると。我々三次元人からして概念とは非物理無実体存在でしかないが、それは我々の理解しえない四次元の物体だからだと彼女は言う。概念空間はあらゆる影響を物理空間に齎している。赤くて丸い果物を林檎と認識できるのはそれあってのことで、共感覚が起こるのもまたその所為だ。


 彼女の理論を痛い詩人の妄想と嗤う者もいるが、一応筋は通っていると俺は思う。次元間の干渉はありえるのだ、まさに三次元で生成された影が平面に落ちるように。また立体を平面に描写できるように、概念もそれ以下の空間に描写できるとすれば、記号学で扱う記号こそがそれに当たるのだろうと、これは頭の悪い俺の考察だ。


 理論を理解した上でようやく彼女の創作物の凄さが理解できる。


 彼女は一人でシステムを創ってしまったのだ。

 概念空間を疑似的に平面空間へ描写するシステム。第四ベクトルを演算するシステム。


 コンピュータ上で作動するこの自作アプリケーションを語る彼女は饒舌であった。


「そんな感じなんですけれど……やっぱり分からないですよね」語り終えてから苦笑する。


「いや、深いところまでは多分理解できないだろうが、ある程度は分かった」

 この女、アプリをプログラムする際利用したアルゴリズムだとかノウハウだとかまで語りやがって、脳を全力で稼働させてどうにか理解した。


「本当! ありがとうございます!」


 どういたしましてとぶっきらぼうに俺は返す。


 近くのファミリーレストランにて。

 彼女の告白をなあなあに受けてしまった責任としても、彼女について深く知ろうと試みた。

 俺は天才的に個性的な生徒と席を並べながらも、全く興味を示していなかった。ゆえに彼女の研究内容が本当に大分本題「心の在処」から逸していることを初めて知った。どころかゼミ室のコンピュータにそんなたいそうなソフトウェアがあることを初めて知った。自由奔放に生き過ぎにも程があるという戒めだ。


 恋人紛いの者としては手助けできればそれ以上はないのだが、どうにもできそうにない。大体馬鹿な俺に誰かの手助けができるとは到底思えない。いつも奔流に身を委ねて生きているだけ。彼女との関係だって、意識的選択の放棄の産物だ。


「俺は本当に駄目だな、馬鹿で何も言えない。君に対して頑張れと遠くから応援することしかできない。情けないよ」

 別にかっこよくなりたい訳ではないけれど。

「それでも、君をかっこいいと不覚にも思ってしまったんだ」


「卑下しないで下さい、それにその応援が人を助けることもあるんです、あなたがそれを忘れてはいけません。わたしにとってあなたは王子様なんです、かっこいいままでいて下さい」


「王子様、ね……ところでそのシステムは俺も使って良いものだったりするのか?」

 彼女は勿論と頷いた。

「そうか、明日ゼミ室で是非教えてくれ」


 料理も平らげたところで、俺と彼女は他愛もない雑談や、榊原教授の考察をして席を立った。彼女は物足りなげであったが、大丈夫、まだ恋仲じゃあないのだから破局もない、いつも一緒にいるよ、と慰めた。満足そうに笑うので、良かったと胸を撫で下ろす。


 会計を俺が負担しようとすると彼女が制した。いいよ、と言うと、これ以上人に迷惑はかけられません、と返され弱る。結局各自払いになった。こう見えて彼女は割と我の強い、芯のある子なのかもしれない。



    二



 彼女はぽわぽわ暖かい日のように心を癒す人間であった。

 恋人ではないにせよ、俺はいつも彼女に癒される生活を送り始めた。


 ゼミ室には四つのコンピュータが設置されていて、決められた台に決められたユーザーが各々用意されているが、大半の生徒が利用しない。理系の学科の研究室には八台を超える数が設備されているというが、俺たち文系人からすると信じられない光景だ。また、それを十二分に利用発揮する彼女も本来は信じられない人間なのだ。


「それで、このシステムが本当に完成したら、ええと、擬似じゃない真の概念空間とアクセスできるようになったら、ひょっとしたら、物事の意味や認識、記憶や感情、俗に無意識と呼ばれるものまで操作できるかもしれないんです」


 彼女はシステムに映る擬似概念物体を指差しながら平生通り俺に熱く語った。

 正直彼女の頭脳に伍することは一生ありえないと思うが、熱心な彼女を見ることには何の苦労もなく、やはりそれが癒しとなった。犬のように忠誠心が大きく、勇敢で、周囲を気にかけない、良い意味で気ままな人柄。もはや劣等感に苛まれることもなくなった。


「けれどそうなったらそのシステムは四次元物体になる必要がある。二次元人に立体が作れないように、俺たちも四次元物体は作れないんじゃないか」


「そうですね、理論上は不可能です。だから一つ定理を発見しなければなりません。概念が先か、記号が先か」

 そんな馬鹿なという俺の反応に彼女は笑って、

「はい、後者はどう考えても馬鹿です。けれどもし概念が先行していないとすれば、わたしたちが概念に干渉し概念を操作できうることを証明できるのです。認識を操作すれば、四次元空間の形も歪むと」


 我々の全ての選択は運命に規定された必然である、宿命論。


「でもわたしは正直どっちでも良いんです」

 何故を問うと笑顔が返ってくる。

「だってロマンチックじゃないですか、わたしがあなたを好きになるのが運命だっただなんて」


 俺は、馬鹿、とそっぽを向く。

 それから、しかし、と接続詞から話題をやや変えて、エスニック・アイデンティティの考察を始める。比較的文系ノリな話題だろう。


「エスニック・アイデンティティですか? 民族集団の帰属意識、確かにそのベクトルをシステムで観測することはできそうです。集団において形成される愛に人間はいつ愛情のベクトルを向け、発達するのか。でも、やっぱり今のわたしの技術ではどうにもそこまで高度なシミュレーションはできません」


 しゅんと肩を落とす彼女を俺は、

「いや憐れむ必要は全くない。君は十分過ぎる技術を持っていて、それを十分に発揮しているじゃないか。下手に隠そうともせず、おおっぴらに。それだけで尊敬に値する。難しい問題は難しい技術者と協力してクリアすれば良い、その合理性も君のシステムが証明している」


 彼女は数秒間硬直してから、何度か口を開閉し、また硬く閉ざしてはやはり声を発した。


「やっぱり優しいんですね。あなたは困っている人は見過ごせない優しい人です。だからわたしはあなたの一番になりたい。けれどそれはどうしようもなく罪悪なのです」

 どうして、と俺が首を傾げると、

「あなたには万人を救う才能がある。でもわたしの恋心が強まる度、その救いの手がわたし以外に向くのに嫉妬が生じる、わたしは独占欲の強い悪人なのです」


「そんなことはない。そもそも俺が万人の救世主だって? ありえないよ、誰かを貶めた経験はないけどさ、誰かを救った記憶もない。君を好きになったら、俺は君のために人生を尽くす。だから安心しろ、君が悩む理由も何も元からありゃしない」


 彼女は俯いて、今、概念空間上でわたしとあなたの記憶ベクトルは一致していないのですね、と意味不明な言葉を呟いた。


「アガペーをご存知ですか?」

 問いに人物名かと問い返すと、くすっ、という笑い声がした。

「真愛のことです。あなたの真愛は半ば当然ながらわたしには向いていない、わたしはそれでも構いません、ただあなたが隣にいるだけで至福なのですから」


「……悲観的な俺の隣にいても、君は不幸になるだけだよ。俺はそれが怖いんだ、俺の所為で君の有望な未来を壊してしまわないか」


 だから俺は彼女には内緒で猛勉強をしている、特に理系分野を。そうして彼女に対する悪影響を最大限削減するよう心掛けている。


「心配ご無用です。あなたのアガペーは恐らくかっこいい人に向いています。もし万一本当にあなたがわたしの未来を奪ったとしても、わたしは自分の道を突き進みます。どんな困難も乗り越えていきます。そんなわたしの無様をあなたがかっこいいと思ってくれるなら、理論上は大丈夫なのです」


 理論上理論上って、文系人はあまり口にする言葉じゃあないよ、と俺は肩から頭までの熱を隠すために話題を逸らす。ベクトルを無理矢理捻じ曲げる。多分俺は信念を貫くその姿をかっこいいと思うだろう。その信仰心こそがアガペーなのだから。


 暫くして二人が雑談をしているそこへ停滞した場面を進展させる因子が飛び込んだ。


「丁度良かった、少女、おまえに来客だ、五階の方にまだいるだろうから、行ってやりな」


 昼休憩にゼミ室へ顔を出した榊原教授であった。

 恐らく彼女のスカウトマンだろう、どこの企業かまで教授は口にしなかったが、しかしひょっとすると研究所の者かもしれない。彼女は怪訝そうな表情はしないものの、俺の方を悲しげな表情で向いた。


 いってらっしゃい、俺はここで待っているから、と言うと彼女は二度頷いてバッグから手帳を取り出し、ペンがないやら学生証がないやら、慌ただしくゼミ室を飛んで出た。


 俺は少し、寂しくなった。

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