8 みんなのママ
修介は幸せすぎるくらい幸せな時間を過ごしていた。
放課後。可愛い女の子の買い物に付き合って、その後、公園のベンチで、一緒にクレープを食べる。こんなにも幸せなことが、この世にあるだろうか? いや、ない。
涙が出そうになった修介は、目頭を押さえた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「ああ、大丈夫。ちょっと、クレープの甘味が目に染みただけさ」
「何それ」
変なの、とみつこは笑う。
「修介君は小食なの?」
「そんなことはないけど」
「ふぅん。その割には、クレープ、全然食べてないからさ。もしかして、口に合わなかった?」
「いや、むしろ、合いすぎて困っているくらいだ」
「どういうこと?」
修介は笑ってごまかす。みつこはクレープを全部食べた。しかし修介は、まだ半分近くクレープが残っていた。このクレープが全てなくなったとき、夢から覚めてしまいそうで、食べられないのだ。
……もちろん、恥ずかしいから、そんなこと、みつこには話さないけど。
「ちょっと、真面目な話を聞いてもいいかな?」
「何?」
「修介君は、どうしてAランクに降格しちゃったの?」
「……レートが最下位だったから」
「いや、そうじゃなくて、その気になれば、いくらでもレートを上げることはできたんじゃないの?」
「できないよ。そんな簡単じゃない」
「ふーん」
みつこは、じっと修介を見つめる。修介は苦笑を隠すように、クレープを食べた。
「みつこは、Sランクじゃない俺は、嫌いか?」
「そんなことないよ。嫌いだったら、今こうして一緒にいないよ」
「それもそうか」
嬉しいことを言ってくれる。まずは友達からと言ったが、付き合い始めるのも時間の問題かもしれない。
こんな時間がいつまでも続けばいいのに、と修介は思った。しかし、修介の平穏はいつまでも続かなかった。
「あっ、ママだ」
「ママ?」
修介は目を向け、愕然とする。するりと手からクレープが抜け落ちた。
二人に歩み寄る少女がいた。幼い顔つきで、艶のある長い黒髪。修介はその少女を知っていた。小学生にも見えるが、修介よりも一歳年上。『みんなのママ』という異名を持つが、修介は『自称母親』と呼んでいるSクラス超能力者、心 伊奈子だ。
修介は伊奈子のことが苦手だった。彼女が、自分のことを母親だと思い込んでいるクレイジーな女だからだ。いつも喧嘩腰になってしまう。
「ママ! どうしてここに?」
みつこは、修介にも見せていない、弾けるような笑顔で、伊奈子を迎えた。
伊奈子もまた、満面の笑みを浮かべて言う。
「みつこがうまくやっているか心配だったから、来ちゃった。それに! そろそろ、修ちゃんに挨拶しようかなと思って」
伊奈子が修介に微笑みかける。
「久しぶり、修ちゃん! ママだよ!」
「ママじゃねーよ!」
修介は威嚇する犬みたいに、歯を剥き出しにして、伊奈子を睨んだ。
「もう、相変わらず素直じゃないんだから」
そこで修介はハッと、みつこを一瞥する。
「ってか、みつこは今、この女を『ママ』と言ったか?」
「うん」みつこは快活な笑みを浮かべ、頷く。「ママだよ!」
修介は絶望に染まった顔で、伊奈子に視線を戻す。
伊奈子はにっこり笑う。
「彼女を欲しがっていた修ちゃんに、ママからのプレゼントだ!」
「て、てめぇ……」
修介は震える。怒りや驚き、悲しみなど様々な感情がごちゃ混ぜになって、修介は言葉に詰まった。
伊奈子の能力『衆人の頭脳』について、修介も詳しい原理については知らないが、伊奈子は他者に自身の脳波? を強制受信させることで、受信した相手の行動を制御・管理できる。それは、親機と子機の関係に似ていて、実際、伊奈子の脳波? を受信した相手は、伊奈子を親と認め、彼女の指示に従うようになる。つまり、みつこが「ママ」と呼んだということは、彼女はすでに伊奈子の支配下にあるということだ。そして、『プレゼント』と言ったということは……。
「相変わらず、頭の中がぶっ飛んでんな」
それが、修介なりの強がりだった。
「嬉しくないの? 彼女ができたんだよ?」
「嬉しいわけねぇだろ」
「どうして?」
「彼女は、自分の手でつくってこそ、意味があるんだ。他人からもらうもんじゃねぇ! ってか、まだ付き合ってないし」
「また面倒なことを言ってる」伊奈子は口を尖らせる。「素直に『ありがとう、ママ』って言えないのかな」
修介は沸き起こる怒りをぐっと堪える。このクレイジーとは、一生わかりあえないのだ。
「修ちゃんは、一体何をしたら、ぼくをママと認めてくれるんだ?」
「認めねぇよ、絶対にな」
「何で?」
「この際だから、言わせてもらうけど、お前のそれ、不愉快なんだよ」
「不愉快?」
「そうだ。自分の能力が通用した相手に自分のことを『ママ』と呼ばせるのは、まぁ、そういう能力だから理解は示す。ただ、自分の能力が通用しない相手にまで『ママ』を強要するな。俺には俺の母親がちゃんといるんだ。それなのに、俺のことをよく知らない、そして俺もよく知らない相手を『ママ』と呼んで、母親扱いするなんて、俺からしたら狂ってるんだよ。母親ってそういうもんじゃないんだろ?」
伊奈子はムッとして、面白くなさそうに眉尻を下げた。
「……そんなこと言われても、わかんないよ」
「どうして?」
「だって、ぼくにはママがいないんだもん」
修介は言葉を失った。気まずそうに目をそらし、心の中で舌打ちする。クレイジーに理由なんていらないのだ。理由があると……こうなってしまう。
気まずい空気が流れる。
みつこと目が合い、フォローを求める。
しかしみつこは、困ったように眉根をよせた。
他人任せはよくないか。
修介は、「えっと、つまりだ」と戸惑いながら言う。「母を知る俺の前で、母親に徹しようとしても滑稽に見えるだけだから、止めて欲しいということだ」
伊奈子から返事はなった。伊奈子は頬を膨らませる。
これはもうお手上げだな、と修介は肩をすくめる。
「そういうことだから、これからは、気を付けてくれよな」
修介は、落ちたクレープを拾う。食べられそうにない。紙袋にしまって、丸めた。
「それじゃあ、俺は帰るから」
「え、ちょっと」
困り顔のみつこに目配せする。
女同士の方がフォローしやすいだろ?
伝わったのかは定かではないが、みつこは不満そうにしながらも、気遣うように、伊奈子に声を掛けた。
修介は、すまん、と心の中で謝罪し、その場を離れた。
ゴミ箱に紙袋を捨てようとして、振り返る。伊奈子と話すみつこの姿がある。そのみつこは、伊奈子の能力によって告白させられたのだ。つまり、彼女の言葉は、他人によって作られたものだった。そこに彼女の本心はあったのか。修介は考える。
「……グッバイ、みつこ」
修介は寂しそうな目つきで、ゴミ箱に紙袋を捨てた。紙袋は数あるゴミの一つとなって、ゴミ箱に収まった。