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2.12 綺羅愛莉③

 今まで、自分のファンを語る男の人なんていなかったから、愛莉はその男のことを警戒した。


「あ、ごめんなさい。突然、話しかけちゃって。その、嬉しくて、つい」


 男はそう言って、はにかむ。優しそうな笑みに、愛莉は少し興味が湧いて、男の容姿を観察した。年齢は自分と同じくらい。人の良さそうな顔つき、カッコいいというよりも、可愛い顔の男子だった。


「あの、良かったら! 一緒にお茶しませんか? 色々愛莉さんにお聞きしたいことがあるんですよ!」

「えっ……」


 大人しそうだけど、結構ぐいぐい来る。愛莉はそのギャップに戸惑った。しかしながら、男の人にお茶に誘われたのが嬉しくて、愛莉は一考した後に言った。


「お茶だけなら……」


 そして二人はそばの喫茶店に入って、色んなことを話した。彼が愛莉と同学年であることや趣味が演劇鑑賞であることを知って、愛莉は親近感がわいた。愛莉も演劇を観るのは好きだった。それで、最近観た演劇について語っているうちに、どんどん時間は過ぎて、母親から、早く帰ってくるように電話で促された。


「ごめんね。うちの両親は過保護なんだ」

「仕方ないよ。愛莉さんはきれいだから」

「きれいだからって、そんな」

「良かったら、連絡先を交換しない? 愛莉さんともっとお話したいな」

「喜んで。私も、あなたともっと話したいな」


 こうして彼と連絡先を交換した愛莉は、ウキウキしながら家に帰った。これが恋の予感だろうか。なんて、期待しながら。


 それから愛莉は、彼とほとんど毎日メッセージを交換するようになった。メッセージを交換する度に、愛莉はその男子に惹かれていった。彼とはウマがあった。趣味だけではなく、食の好みなども似ていた。そして彼はまた、有名な進学校に通っているだけあって、勉強ができた。愛莉も勉強はかなりできる方だったが、そんな愛莉でもわからない問題を彼は容易く解いた。


 そして、メッセージだけではなく、実際に会って話すようにもなった。愛莉は多忙であったが、それでも何とか時間を作って、彼と会うようにした。喫茶店で話すことが多かったが、たまに一緒に劇場に行って、演劇を観たりもした。短い時間でも、彼と話しているうちに、愛莉は日ごろの疲れが吹き飛んで、心が穏やかになった。


 そんな生活を続けていたある日、ユリアとの面談が終わって、帰ろうとした際、ユリアに言われた。


「愛莉ちゃん。最近、恋をしているでしょう?」


 愛莉は驚いて振り向いた。ユリアは問い詰めるような目で愛莉を見ていた。ここで「はい」と答えたら、責められるような気がして、愛莉は「そんなことはないですけど」と答えた。


「ふぅん。じゃあ、これは何かしら?」


 ユリアが手にした写真を見て、愛莉は愕然とした。その写真には、愛莉が彼と一緒に喫茶店で談笑している姿が写っていた。


「な、なんでそれを。まさか!?」

「あなたのファンだっていう子が相談に来たの。それで、この写真をね」


 愛莉は顔が熱くなった。勝手に、自分のプライベートを撮影したことが許せない。しかし怒りはすぐに鎮火して、悲しくなった。ファンの心無い行動に、傷ついたのだ。


「愛莉ちゃん。前も言ったでしょ? 男と関わるべきではないって」

「私が、誰と関わろうが、先生には関係ないですよね」


 愛莉はうんざりした調子で言った。


「関係あるわ。だって、あなたが最高のパフォーマンスを発揮できるような精神状態に持っていくのも、私の仕事ですもの。だから、すでに関わったというのならば、止めないわ。ただ、約束して欲しいことがあるの」

「何ですか?」

「普段の生活に支障をきたさないようにすること。彼氏にかまけて、勉強や能力のトレーニングがおろそかになるようなことは止めてね」

「まだ彼氏じゃないです」

「そう。でも、その言い方だと時間の問題ね。そして約束はもう一つ。もしも愛莉ちゃんがその男の子が原因で傷ついたのなら、私に言うこと。もしもできないなら、うるさく言わせてもらうわ」

「わかりました」


 強く咎められるかと思ったが、そうでもなかったから、愛莉は拍子抜けした。しかし認められたことはとても喜ばしいことで、ユリアとの約束を破らないよう、気を付けようと思った。


 そして彼と親睦を深め、11月になったときのことだ。


「家に来ない? 実はこの前、愛莉さんが言っていた演劇のDVDを手に入れたんだ」


 ついにこのときが来たか。前々から覚悟をしていた瞬間が訪れ、愛莉は緊張し、喉を鳴らした。


「あ、いや、もちろん、愛莉さんが嫌だったら、べつにいいんだけど」


 愛莉は首を振って答えた。


「うんうん、行くわ」

「そっか。なら、今度の土曜日とか、どうかな?」

「わかった。土曜日ね」


 土曜日には対人戦があった。だから愛莉は、コーチ陣を驚かせる瞬殺の連続で、対人戦を早めに切り上げ、家に帰って準備した。できるだけ自然に、それでも、彼に気に入ってもらえるような格好で、愛莉は約束の場所へと向かった。


 急いだのだが、少しだけ遅れてしまった。しかし彼は、嫌な顔をせず、微笑んで愛莉を迎えてくれた。


「いつも以上にきれいだね」


 彼は照れながら言った。愛莉も照れながら答える。


「そんなことないけど」


 そして彼に連れられ、愛莉は彼の家に行った。彼の家は、街の郊外にある新築でセキュリティが万全のマンションだった。街を一望できるような高い場所に彼の部屋はあった。


「今日は、お父さんとお母さんはパーティーでいないんだ」

「え、そうなの?」

「うん。ちょっと、準備をするから、僕の部屋でマンガとか読んで、待っててよ」


 愛莉は彼の部屋に案内される。彼の部屋は黒を基調とした清潔感のある空間だった。愛莉にとって、男子の部屋に入るのは、それが初めてのことで、想像していたよりも綺麗なことに驚いた。そして、男子の部屋は汗臭いと思っていたが、彼の部屋はそんなことなくて、柑橘系の、いつもの彼の匂いがした。だから、彼の匂いを体全体で感じ、愛莉は自然と笑顔になった。


「そう言えば、ご両親はいないと言っていたな……」


 となると、もしかして……。愛莉は起こりうることを想像し、煙が出そうなほど赤くなって、首を振る。


「そ、そんなことはしないぞ。だって、まだ、付き合ってないし……」


 時間の問題ね。と言ったユリアのことを思い出し、愛莉の顔はますます赤くなるのだった。


 愛莉は顔の火照りを冷ますため、マンガを読んで落ち着こうと思った。本棚から適当に数冊抜出し、彼の机の上に置いた。椅子に座ろうと引いたとき、椅子の足にビー玉がぶつかって、ベッドの下へと転がっていった。


 拾わなきゃ、と思った愛莉はベッドの下を覗き込んだ。そして、ベッドの下にある段ボールを見つけた。さらに、段ボールのそばに置いている本にも気づいた。勝手に漁るのはまずいと思いながらも、好奇心にそそのかされて、愛莉は落ちていた本を掴んだ。


 薄い本だった。表紙を見て、愛莉は自分の目を疑った。女がオークに犯されている一場面が描かれていた。タイトルには『犯される女剣士』と書いてあった。


「え?」


 愛莉は表紙を眺めたまま固まった。彼がこんな下劣な本を持っていることが信じられなかった。でも、何か間違いかもしれない。そんな期待を抱いて本をめくったが、それは間違いなくエロ漫画で、しかも、女の尊厳を踏みにじる眉唾な内容だった。


 赤かった愛莉の顔が、徐々に青ざめる。愛莉は本を置き、ベッドの下の段ボールを引っ張り出して、中を確認した。中にも同じようなタイトルと表紙のエロ漫画が大量に入っていた。愛莉は、その一つ一つを確認し、悪夢でも見ているかのように顔をしかめた。


 そして、青ざめていた愛莉の顔は、再び赤くなる。そこにあったのは、怒りだった。


「お待たせ」


 彼が入ってくる。愛莉が見ていたものに気づき、目を見開く。


「愛莉さん、それは」


 愛莉は立ち上がり、彼の前に立つと、問答無用で頬を叩いた。


「最低」


 愛莉は彼を睨み、押し退けた。


「待って、愛莉さん」


 彼は愛莉の手首を掴んだ。しかし愛莉はその手を振り払い、もう一度、頬を叩いた。


「もう二度と、私に近づかないで!」


 愛莉は目に涙を溜めながら訴え、その場から走って逃げた。


 愛莉はマンションを飛び出してからも走った。色々な感情がごちゃ混ぜになって、それが涙という形で流れた。愛莉は走り続け、気づいたら、氷戸女学院の正門前にいた。


 どうしてここに来たのだろう。今の情けない自分は、誰にも見られなくない。愛莉は踵を返し、その場から離れようとした。が、そんな愛莉に声を掛ける者がいた。


「どうしたの? 愛莉ちゃん」


 ユリアである。ちょうど、帰ろうとしていたところだった。


「あ、あの、先生……」


 愛莉は言葉に詰まった。この胸の苦しみを何と表現すれば良いかわからず、愛莉は目を伏せた。そんな愛莉を、ユリアは抱きしめた。


「大丈夫よ、愛莉ちゃん。私はちゃんとわかっているから」


 なんて温かい包容だろう。愛莉は泣きだし、声を押し殺して、ユリアの胸の中で泣いた。ユリアは愛莉の涙を優しく受け止めた。


 そして愛莉は、ユリアの研究室へと案内された。そこで、愛莉の心を癒すとのことだった。ユリアの研究室に入るのはそれが初めてだった。ユリアの研究室は、診療室に似ていた。パソコンが設置された机があって、ベッドがあった。


「それじゃあ、愛莉ちゃん。服を脱いで、そのベッドの上に寝て」

「えっ!? 裸ですか?」

「ええ、そうよ。これから、愛莉ちゃんにはマッサージをするの。いい? 心と体は密接につながっていて、心が痛いとき、気づかないだけで体も傷ついているものなの。だから、体の痛みをマッサージによって和らげることで、心の痛みも和らげるのよ。それに、安心して。私は女だし、照明も暗くするから。そこのタオルを使っていいわ」


 戸惑っていた愛莉だったが、真剣なユリアの表情を見て、覚悟を決めた。バスタオルで体を隠し、恥じらいながら、ベッドにうつ伏せになった。ユリアは枕元に置いてある加湿器めいた機械のスイッチを押した。白い蒸気が噴き出し、くらくらするような甘ったるい匂いに満たされる。


「先生、それは?」

「お香みたいなものよ。愛莉ちゃんを気持ちよくしてくれるの」


 ユリアは照明を切り替える。白い照明が、淡いピンクの照明に変わる。


「それじゃあ、今からマッサージをするね」


 耳元で、ユリアにささやかれ、愛莉は何だかドキドキした。


「オイルを塗るから」


 肩甲骨の間にひんやりとしたゲル状の液体を垂らされ、愛莉の体はビクッと震える。さらに、オイルを伸ばすユリアの艶めかしい手つきがこそばゆかった。しかしながら、オイルを塗り込まれるうちに、愛莉は夢見心地になってきた。


「ねぇ、愛莉ちゃん」ユリアはささやく。「わかったでしょ。男というものが。男は女を二度犯す。一度目は精神的に、二度目は肉体的に犯すの。男にとって、私たちは、性欲を満たすためだけの玩具でしかないの。だから、人間であることを望む私たちとは永遠にわかりあえない存在なの」


 そうだろうか? 確かに愛莉は彼によって傷ついた。しかしそれを一般化して考えるのはどうかと思ったが、頭がうまく回らなくて、そんなこと、どうでもよくなってきた。


「いい? 愛莉ちゃん。男は女の敵よ。だから、男を見つけたら、倒すの」





 いつの間にか眠っていたらしい。起きたとき、部屋の窓から朝日が差しこんでいた。


「えっ、朝!?」


 愛莉は驚いて飛び起きる。


「あら、おはよう」


 パソコンの前で作業をしていたユリアが椅子を回転させ、愛莉と向き合った。


「あ、あれ、先生。私」


 愛莉は裸であることを思い出し、慌てて掛け布団で体を隠した。


「昨日、マッサージをしていたら、そのまま気持ちよさそうに眠ったから、起こすのも悪いな、と思って、そのままここで寝かせたの。安心して、親御さんにはちゃんと説明したから」

「そうですか。すみません……」


 ユリアは、愛莉を見て、ふふっと微笑んだ。


「あの、何ですか?」

「元気になったな、と思って」

「え? あ、確かに」


 それは愛莉も実感するところだった。昨日は曇天のように重かった気分が、今では軽くなっている。


「その分だと、大丈夫そうね。一応、トレーナーにも話は通して、今日は休みにしてもらったから、ゆっくりと休むといいわ」

「すみません。色々とやってもらって」

「いいのよ。それが私の仕事なんだから。マッサージの方はどうだった?」

「その、気持ち良かったです」

「そう。なら、これから定期的にしようか」


 愛莉は気恥ずかしそうに頷いた。マッサージはとても気持ち良かった。しかし、それを肯定するのは、恥ずかしかった。


 愛莉は着替え、ユリアにお礼を言って、研究室を去ろうとした。その際、ユリアに言われる。


「愛莉ちゃん。男は女の敵だからね」


 愛莉は頷き、深々と頭を下げて、研究室を後にした。


 家に帰りながら、愛莉は考える。本当に男は女の敵なのだろうか。確かに彼は、女の敵と言っても過言ではなかった。彼のことを思い出すと、黒い感情が渦巻いた。しかし彼以外の男も彼のように最低な人間だとは限らない。例えば父親だって、嫌な部分はあるけれど、尊敬できる男だ。父親と彼をイコールで結ぶことはできないから、男が女の敵という考えに懐疑的だった。


 しかしながら愛莉はこの数時間後、男が女の敵であることを実感することになる。


「あの、綺羅愛莉さんですよね? こんな朝早くからすみません。ただ、これから時間があるなら、俺と決闘しませんか?」


 そう言って、愛莉の前に立ちはだかった男――山神修介によって。

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