2.9 気分転換
翌日。祝日だったが、修介は筋トレのために学校へ行った。恵美もちゃんと来て、トレーニングを行っていたが、集中力に欠けていた。
このまま続けていても、時間の無駄になるし、怪我するかもしれない。修介はそう判断し、恵美に声を掛けた。
「田中さん」
恵美が顔を上げる。浮かない表情だった。
「今日はトレーニング、休みにしようか」
「え、でも」
「田中さんは疲れているように見える。まぁ、昨日、決闘したしね。だから、そういうときは、疲労を残した状態でトレーニングしないで、思い切って休んだ方がいいこともある。すまん。そういった部分への配慮が欠けていた」
「……そんなことないにゃ」
恵美は申し訳なさそうに言った。自分を責めているようにも見えた。
「そんなことあるよ」修介は励ますように言った。「だから、休もう」
恵美はしばしの沈黙の後、「わかったにゃ」と頷く。
これだけでいいのだろうか? 修介は恵美の憂いのある表情を見て、自分の配慮が不十分であるように感じた。休息だけでは駄目だ。自分が落ち込んでいるとき、師匠や周りの人が、どんな風に接してくれたかを考える。
師匠の反応はいつもと同じで、修介を気遣うような素振りは見せなかった。ただ、ご飯とかをよくおごってくれた。ハトエはどうか。ハトエは「リフレッシュに行きましょう!」と言って、色々な場所に連れて行ってくれた。正直乗り気ではなかったような場所でも、結果的に、行って良かったと思える場所がほとんどだった。
修介はこれまでの経験を基に、自分がすべき行動を考え、結論を出した。
用具を片づけ、更衣室へ向かおうとする恵美に、修介は言う。
「田中さん。今日はこれから時間ある?」
「あるけど……」
「水族館に行かない?」
「水族館なんで?」
「ある人から誘われて、友達もどうぞと言われたんだ。だから、一緒にどうかなって」
「ふぅん……」
「なっ、一緒に行こうぜ。あっちもきっと、田中さんと一緒だと嬉しいだろうし」
「相手は、私の知っている人なの?」
「ああ。ま、会うまで秘密にしておくけど」
修介はお願いするように手を合わせた。恵美は修介を一瞥し、「わかったにゃ」と頷く。
「行ってくれるのか?」
「にゃ」
「よしっ。んじゃ、また後で」
修介は更衣室に戻ってスマホを取り出した。水族館に行く約束はできたものの、修介を誘った者などいない。つまりこれから、恵美も知っている人物に、色々お願いしなくてはならないのだ。
「誰に頼むか」
最初に浮かんだのは、恭子だった。たまに困らせるような行動を示すが、修介の知り合いの中では、比較的常識的な行動ができる人物である。修介がお願いしたら、聞いてくれそうな気はする。
しかし問題があった。
「連絡先を知らないんだよなぁ」
出会ってからまだ二日。お互いの連絡先を交換するほどの仲までには至っていない。『デュエル・マッチング』という対戦相手を探すアプリを使うという手もあるが、インストールや登録が面倒なので、却下した。
次に思い浮かんだのはハトエだ。ハトエには色々な場所に連れて行ってもらった。しかしハトエもすぐに選択肢から消した。ハトエは他の女の子がいると、不機嫌になるからだ。去年も、研究所の女の先輩を連れて行ったら、「普通、女の子は呼ばないよね」と裏でグチグチ言われた。だから今回も良い顔をしない可能性が高い。それにハトエだと、恵美は気を遣って楽しめないかもしれない。
他に誰かいるか。と考えたとき、思いついたのは伊奈子だった。伊奈子ならハトエも知っている。
「心先輩か」
修介は渋い顔になる。恵美がよくても、修介はあまりよろしくない。ただ、他に適任は思いつかない。
「……まぁ、仕方ないか」
伊奈子ならきっと、事情を察してくれる。そんな淡い期待を持って、修介は今まで一度も押したことがない、ハトエから半ば強引に登録された、伊奈子の連絡先を開いた。
「やれやれ、修ちゃんがついにぼくのことを認めたと思ったら、友達を励ますのを手伝って欲しいとか、これもう、修ちゃんのお姉ちゃんだ」
「いや、それは違います。けど、ありがとうございます。頼りになる先輩です」
伊奈子に批難の目を向けられるが、修介は笑顔で受け止めた。
「まぁ、いいさ。こうやって、地道にお姉ちゃんポイントを稼ぐとしよう」
「今日はずいぶんと引くのが早いんですね」
「ぼくだって、馬鹿じゃないからね」
「へぇ」
「で? 恵美はどこ?」
「そろそろ来るんじゃないですかね?」
恵美とは一度別れた。恵美が着替えたいと言ったからだ。そのため修介も、家で制服から私服に着替え、水族館の最寄り駅で改めて集合することになった。伊奈子とは、その駅の改札前で会った。
伊奈子は何かを感じとり、改札の向こうに目を向ける。
「来たみたいだ」
「わかるんですか?」
「まぁね」
「便利な能力ですね」
「……そうでもないよ」
一瞬、伊奈子の表情が暗くなったが、すぐに笑みを浮かべる。改札の向こうに、私服の恵美が現れた。
恵美は少し緊張しているように見えた。しかし修介の隣に立つ伊奈子を認めると、安堵の表情を浮かべる。
「山神君を誘ったのって、先輩だったんですにゃ!」
修介は驚いて伊奈子を見た。恵美は、伊奈子を『先輩』と認識している。
「そうだよ。修ちゃんが中々遊んでくれないから、ぼくから誘っちゃった」
伊奈子は修介にウインクする。修介は苦笑で受け止めた。おそらく、恵美に対する能力の効果を一時的に制限したのだろう。その気遣いは嬉しいが、そういう気遣いは、最初の頃からやって欲しかった。
「さて、それじゃあ、行こうか」
伊奈子の先導で、三人は水族館へ向かった。
結果から述べると、伊奈子を呼んだのは正解だった。伊奈子は水棲動物に対する知識が豊富で、展示されている魚などを、面白おかしく紹介した。その説明を聞いているうちに、恵美の笑顔が増え、水族館に入館した二時間後にはニコニコ顔になっていた。
「今日はありがとうございました」
修介は、お土産コーナーの商品を見て回る恵美を眺めながら言った。修介と伊奈子は少し離れた所にあるベンチに座っていた。
「いいってことよ」
「先輩のこと、見直しました」
「だろ? お姉ちゃんポイントが爆上げだな」
「爆上げしたのは、先輩ポイントですね」
「……もう、修ちゃんは意地悪なんだから」伊奈子は大きく伸びをする。「でもさ。励ましたいんだったら、べつに、こんな手間のかかることはしなくても、ぼくが命令すれば、一発なのに」
「まぁ、そうですけど。俺、そういうの嫌いなんで」
「どうして?」
「だって、先輩の命令で作られた気持ちなんて、本物じゃないですからね」
伊奈子は修介を一瞥し、ふっと笑う。
「……ぼく、修ちゃんのそういうとこを、好きだな」
「さいですか」
「むっ、あんまり嬉しそうじゃないな」
「そう見えるだけですよ」
「本当かなぁ」
伊奈子は、鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌な様子で、視線を恵美に戻す。
「そう言えば、サイコブレイン社の人が俺のところに来たんですけど、あれも先輩のお願いかなんかですか?」
楽しそうな雰囲気から一転、伊奈子の目つきが鋭くなった。
「それ、いつの話?」
「昨日ですけど。大田原って人でしたね」
伊奈子は難しい顔になって閉口した。伊奈子から漂う厳めしい雰囲気で、修介は察した。昨日の一件に、伊奈子が関与していないことを。
「……ごめん、修ちゃん。ぼく、帰るね」
「……はい。田中さんに挨拶しなくていいの?」
「うん。大事な用ができたから、急ぐね。それに、恵美なら理解を示すよ」
「そうですか」
伊奈子は立ち上がって、出口に向かおうとした。が、立ち止まって振り返る。
「修ちゃん」
「何ですか?」
伊奈子は言葉に詰まり、誤魔化すように笑った。
「ごめん、何でもない。じゃあね。また今度」
「はい」
伊奈子は踵を返し、足早に出口に向かった。
伊奈子と入れ替わるようにして、恵美が戻ってきた。その手には、お土産の袋がある。
「あれ、先輩は?」
「ちょうど今、帰っちゃった。何でも、急用ができたとか」
「え、そうなの。先輩が好きそうなキーホルダーを買ったんだけどにゃ……」
「また、今度渡せばいいさ」
「そうだにゃ」
それから二人は、水族館を出て、近くの喫茶店で休んだ。その喫茶店のチーズケーキが想像以上に美味しいらしく、恵美はさらに上機嫌になった。
「山神君。今日は誘ってくれて、ありがとにゃ! 楽しかったにゃ!」
二人で防波堤沿いの道を歩いていると、恵美に言われた。
「どういたしまして。俺も楽しかったよ」
「あの、これ!」
恵美は気恥ずかしそうにカバンの中から、お土産の袋を取り出した。
「俺に?」
「にゃ! 今日の、うんうん、いつものお礼にゃ」
修介は袋を受け取り、開けてみた。中に入っていたのは、ウミガメのキーホルダーだった。
「ありがとう。俺も何か買っておけば良かったかな」
「それは、いつものお礼にゃ! だから、いらないにゃ」
「そっか。大事するね」
「にゃ!」
修介がカバンに袋をしまっていると、どこからともなく声が聞こえた。
「ししょおおお!」
「この声……」
「恭子ちゃんにゃ」
二人は辺りを見回す。しかし恭子の姿はどこにもない。
「ししょおおお!」
「もしかして、堤防の向こうか?」
そのとき、堤防を掴む手があって、恭子が顔を出した。
「あ、師匠! 見つけたっす!」
「なんちゅう登場の仕方だ」
修介は呆れ顔で言う。恭子は得意げな表情で堤防をよじ登り、二人の前に降り立った。その恭子の姿を見て、修介はさらに呆れるのだった。
「まぁ、色々聞きたいことはあるんだけど、何でそんなに泥だらけなの?」
「ああ、これっすか。田中先輩の敵討ちに行ってきたんす」
「敵討ち? もしかして、佐藤四音と戦ったのか?」
「はい!」恭子は快活な笑みを浮かべて言う。「ちゃんと田中先輩の敵は討ったっす!」
「勝ったってこと?」
「はい! 師匠に言われた通り、精神攻撃を仕掛けようと思って、やつの兄に関するにわか知識に対して、ボロクソに言ったら、泣きだしたんで、余裕っした!」
修介の恭子に対する呆れは、底を突き破った。恵美を一瞥する。快晴だった表情が、曇っている。
「恭子さぁ、絶対メンタル強いし、人のこと言えないくらいクズだよな」
「え? どこがっすか?」
不思議そうに小首を傾げる恭子を見て、修介はイラッとした。




