6話
「――共感覚?」
今私は、児島さんと連れ立って校内を歩きながら話している。なし崩し的に、彼女から根掘り葉掘り情報を引き出されていた。
全ての授業が終わった放課後、校舎内は閑散としている。私たちの話す声が、静かな四階の廊下に響いた。
「へえ、音に色を感じる、ね。なんともお誂え向きじゃない。だって……」
私たちは目的地――音楽室に到着した。児島さんはがらりとドアを開きながら言葉を続ける。
「綾に描いてもらいたい絵は、私がピアノを弾いているところだもの」
……いつのまにか、下の名前呼びになっている。他人との距離感を詰めるのが、早すぎやしないだろうか?
無人の音楽室に踏み入る。最も目を引くのはやはり、ドンと鎮座している黒いグランドピアノ。
児島さんはそのピアノにスタスタと歩み寄ると、鍵盤蓋を開く。
「まずは私の演奏を聞かせて上げるから、それを見てさっきの頼みを検討してみて下さいな。絵の題材になるかどうか……。まっ、この私の演奏が絵にならないなんて、そんなこと有り得ないけどね」
軽い調子で言うが、その声音からは確かな自負を感じた。
(すごい自信ね。よくそこまで……。これが、本物の才能を持っている人の思考、か)
児島さんがピアノの椅子に腰かける。瞬間、背中に電流が流れたような感覚を味わった。
がらりと彼女のまとう空気が一変したからだ。どこかふざけた調子は鳴りを潜め、傍目から見て息苦しいまでの真剣味だけが彼女の表情に残った。
ふわっと、両腕が持ち上がる。直後、その白魚のような指先が鍵盤を叩いていた。ズーンと重たい低音。
音が重なる。黒と青の和音だ。間延びした音が、しばらく漂い続ける。それが晴れると、児島さんの指が軽快に回り出す。
それに合わせて色とりどりの音の粒が浮き上がる。黒、藍、紫、白、緑、黄色……。
――私の見る音は、いくつかの例外もあるけれど、基本的に低音ほど暗い色に、高音ほど明るい色に見える。
最初は暗色から始まった演奏も、テンポが速まるにつれて明るい色合いに変わっていく。
艶やかに、踊るように飛び出す音の粒がふっと消え行く端から、また新たな音が浮き上がる。
驚いたのは、その色の純度だ。
多くの音は、クリアな色をしていないことが多い。少し他の色が混じったり、滲んだり、ぼやけたり……。
でも、彼女の指先が生み出す音は、はっきりとした色合いで、まるで透き通るかのようにクリアだ。
……琥珀色、橙色、ピンク色、緋色。踊る、踊る、鮮やかな色彩が踊る。音は更に強く早く、何より明度を上げていく。その変化が段々加速する。
(なんて…………)
心中の言葉が続かない。その色を何と表現すればいいのか? 私には分からなかった。
魅了される。頭の中が真っ白になる。只、呆然とその色を見やる。見やる。――えっ? 不意に驚きという思考が浮かび上がる。
これほどまでに純度を保ってきていた色が、ほんの一瞬ではあるが、でも確かに濁ったのだ。
児島さんはその時、僅かに苦悶の表情をのぞかせていた。
(……ミス、したのかな?)
きっとそうなのだろう。でも、すぐに演奏は立て直され、再び艶やかな色が部屋中を染める。
演奏は最後の加速に差し掛かる。赤い、赤い、火の粉のような音が弾ける。そして――。
タン! タン! タァン!! と演奏が煌びやかに鮮やかに締めくくられる。その瞬間、児島さんを中心に大炎が吹き上がったかのような色が噴出した。
息を飲む。どれほど呆然としていただろうか? 演奏の余韻、火の粉のような赤い音の残滓もすっかり消えてから児島さんは立ち上がる。
ぎっと、鳴った椅子の音で私は正気付いた。
「どうだった?」
「綺麗……だった」
すんなりと本音が零れ落ちる。ふっと、児島さんが笑んだ。
「ありがと。で、どうかしら? 私の演奏は絵になりそう?」
私は頷く。例え児島さんに頼まれなくても、私は彼女の演奏を描きたいと思った。
「そっか、ならば良し! あっ、でも、今の演奏は絵にしないでね」
ぱあっと表情が華やいだかと思うと、途端に苦虫を噛み潰したような表情になる。コロコロと表情の変わる人だなあ。
「どうして今のはダメなの?」
「今の曲、次のコンクールで弾く曲なんだけど、まだ完全に仕上がってないのよね。……途中ミスタッチしたし」
ああ、やはり一瞬色が濁ったあの時、彼女はミスをしていたのだ。
「だから、綾には仕上がった演奏を描いて欲しいわね。ていうか、コンクールで弾く私の絵を描いて欲しいの。……次が最後だから」
「最後?」
どういう意味だろうか? 私は児島さんの顔を窺う。
「そっ。国内最後のコンクール……」
声音に白色が混じる。どこかはぐらかすような言の葉だった。
「えっと、もしかして海外に留学するの?」
児島さんは意味深に微笑む。――肯定、を意味しているのだろうか?
海外留学という響きは、私のような凡人からすれば途方もないものに聞こえるけれど……。
でも、考えてもみれば、児島さんにとっては余りに自然なこと、か……。
クラシック音楽の本場はヨーロッパ。そんなこと、音楽に疎い私でも分かる。
国内のコンクールで不敗記録を積み上げている彼女は、次のステージに挑戦しようというわけだ。
「録音も考えたんだけど……やっぱり演奏を聴くのは生じゃないとねえ。どうもよくないでしょ? でも、綾の絵として残すのは素敵だわ。いい記念になりそう。……ううん。私が音を奏でて、綾がその音を描く。記念品というよりも、共同制作の作品ね」
そう言って、児島さんは右手を差し出してくる。
「よろしく、パートナーさん。良い作品にしましょう」
私は彼女の右手をまじまじと見る。一拍の間を挟んで、おずおずとその手を握った。