3話
電気街から帰宅して三十分ばかし。ソファーの上で横になっている私は、時折唸り声を漏らしつつ、手に持つ本を読んでいる。
ペラペラと頁を繰る。繰る。頁を繰るにつれて、眉根に皺が寄っていく。
「……むー、本を読んでるだけだとよく分かんないな」
デジタル絵なんて門外漢。一度もソフトを触ったことがないので、『デジタル絵入門』を読んでも碌に頭に入ってこない。ホント何が何やら、である。
思えば、私は取説を読まない派であった。
(だったら、実際に触れながら覚えるしかないよ、ね)
パタンと本を閉じる。閉じ合わされた頁と頁の隙間からは、抗議するように青色が飛び出したが、見て見ぬ振りをしよう。よっと、体をソファーから起こした。そうして入門書をテーブルの上に放り出す。
「習うより慣れろ。芸術家たる者、直感が大事なのよー。さようなら、入門書君」
私は少し上ずった声で嘯くと、パソコンの前へと足を進めていく。まるで、雲の上を歩いているようにふわふわする心地だ。
パソコンの電源は既に点いている。ペンタブは設置完了、イラストソフトもインストール済み。いつでも描けるよう準備は万端。……つまり鼻からその気であった。
パソコンを操作して、ソフトを立ち上げる。
「おおっ……!」
日本語的な意味とは異なる、黄色い声――つまり、私の目にそう見える――黄色い声が口から零れ出る。
たったこれだけのことで、心臓は煩いくらいにドキドキする。
「えっとまずは……あー、設定? 何、色々設定しなくちゃいけないの?」
……当たりを付けて、ちょこちょこ弄る。おっかなびっくりと。……触った部分を元に戻す。…………ふう。
私は席から立ち上がる。パソコンの前から離れて、テーブルの前に。――やあ、さっきぶりだね、入門書さん。元気だった?
というわけで、結局入門書を片手に設定をしていくこととなった。
入門書先生のご指導の下、筆圧の調整やら何やら、めんどうな作業が一通り終わった。ようやく絵を描ける。
先生の教えによれば、デジタル絵がアナログ絵と違っている所はやはり、各種ツールの存在だろうか。
ツールを使えば、まっすぐな線やきれいな円を描くことも出来るし、無料素材を使って色々な小物を入れ込むことも出来る。また、同じパーツをコピーも出来るわ、グラデーション塗りや発光も簡単に出来ちゃう。
ばかりか、拡大、縮小、左右上下反転など、まあ至れり尽くせりだ。……使いこなせれば、であるが。
便利な機能なのは分かる。いや、分かるからこそ、要領を得ない初心者の身としては、こうイライラが募る。
「あっ、……またミスった」
一瞬イラっとくるが、すぐに気を落ち着かせる。唯一つではあるが、すっかり使いこなせるようになった機能があるからだ。
パッと、立ちどころにミスはなかったことに。ミスする前の画面に戻る。――アレルヤ! 汝の神の名を讃えよ! その名はアンドゥ! ……ゴホン。
ようは、実行した操作を取り消して、直前の状態に戻す機能のことだが……。
何とも偉大過ぎる。その恩恵をこの短い間に何度も受けた。アナログ画ではこうはいかない。失敗しても、元の状態に戻せるのは大きい。
(よーし! 気を取り直して……)
「綾! 晩御飯よ!」
……っと、あのせっかちそうなオレンジ色は、母親の声だ。
すぐに行かないと、怒りの声が上がってしまう。残念ながら、一旦中断しないといけないようだ。
「はーい! 今行く!」
私は返事を返すと、パソコンの前を離れてリビングに向かう。リビングには既に母と姉が食卓についていた。父は仕事で遅くなるそうだ。
「いただきます」
食卓に並んだのは、キュウリやカニカマ、錦糸卵の載った冷やし中華だ。この夏初の冷やし中華である。
麺を啜っていると、姉がこちらに視線をよこす。
「ねえ、綾。デジタル絵の描き心地はどんな感じ?」
「ズッ…………ん。まだ全然使いこなせてないから、描き心地も何もないけど。でも、デジタル絵の機能は便利そう、かな?」
「そっ。なら、良かったわ。まあ、暫くは練習あるのみって感じかしらね」
「多分ね。幸い、夏休みも遠くないし、集中して練習できそう」
そんな姉妹の会話に、今まで黙っていた母が口を挟む。
「絵の練習もいいけれど、きちんと勉強もするのよ。高校の授業は、中学よりずっと難しくなるんだから」
「……はーい」
母の釘差しに、私は首を竦めながら生返事をするが、実際のところ、学校の勉強のことなど、頭の片隅にもない。
今は、デジタル絵という新しい試みに、頭は一杯であったので。
その日から、私はデジタル絵の練習に夢中になった。
家にいる間は、時間の許す限りパソコンの前に陣取って練習を重ねたし、家の外にいる時でも、デジタル絵のことばかりが頭につく。
授業中、休み時間に友人と談笑している時、帰宅の通学路上、常にデジタル絵のことが頭の片隅に残り続けた。
根を詰める毎日。でも不思議と疲れは然程感じない。むしろ、体が軽くなったような気すらする。
実際には、体が軽くということはないのだろうけど、きっと精神面が良好になったことで、そのように感じるのだろう。
毎日が充実している。夜ベッドに入る度に、朝が来るのが待ち遠しい。リア充と呼ばれる人種は、こんな生活をずっと送っていたのだろうか?
成程、連中のテンションが、いつも無駄に高い謎が解けた気がする。
私の変化は、傍目から見ても分かるらしく、一度ならず二度、三度と、クラスメイトから『何かいいことがあったの?』『彼氏でもできた?』なんて、そんなことを質問されるくらいだった。
そんな日々を送り、夏休みも直前に迫ったある日の晩、私は万感の籠った呟きを口にする。
「できた……ッ!」
ずっと描き直し続けた習作が、ようやく納得のいく出来で完成したのだった。
「んっ!」
ぐっと伸びをすると、次いで、『はあー』と大きく息を吐く。
やり遂げたという気持ちで一杯だ。暫く満足げに自分の仕上げた絵を見続ける。でも、これで終わりじゃないと、気を引き締め直す。
――絵が完成した。なら、次はこれをネットに公開するのだ。
私は検索エンジンを開くと、『絵師になろう』と打ち込む。ヒットした検索結果の一番上に、お目当てのページがある。カーソルを合わせてクリックした。
「まずは、ログイン……の前に会員登録、ね」
新規会員登録をクリックして、名前、メールアドレス、性別、年齢など、必要事項をカタカタと打ち込んでいく。と、その途中で指が止まった。
「……ペンネーム? ペンネーム、か」
なるほど、ペンネームの登録か。でも、今まで外に向けて活動したことがないので、ペンネームなど持っていない。
(何て付けようかな? 折角だから、素敵なペンネームを名乗りたいけれど……)
うんうんと唸るが、どうも良いペンネームが思い浮かばない。タイピング音が止まった室内に、壁時計の秒針が時を刻む碧い音が響く。
(無難に名前にしておこうか……。『アヤ』か『あや』? それとも『Aya』とか……)
あや、とタイピングする。スペースキーを押すと、変換候補が出て来る。
「あっ……」
その一つに視線が止まった。――『彩』。これだ! その名に即決する。
「よし、私のペンネームは『彩』だ!」
ペンネームを決めて、会員登録を完了させる。そうしてマイページのホームに出た。そこで、マニュアルを確認しつつ、イラスト投稿の操作を進めていく。
イラストのタイトルは『茜と群青』。夕日と夕焼け小焼けのメロディに染まった街並みを、マンションから俯瞰したイラストだ。
カチカチカチとクリックを重ねる。
――『投稿実行』。あと一つクリックすれば、私の絵がサイトに公開される。指が止まる。喉が鳴った。部屋は空調が効いているのに、嫌に手汗をかく。
ドッドッドッっと、重たい色彩を奏でるのは、心の臓だ。
(怖い……でも、私は……ッ!)
ぎゅっと目をつむりながらクリックする。数秒してから恐る恐る目を開けると、画面には『投稿しました』の文字が映されている。
「投稿……しちゃった」
脱力したように椅子の背にもたれかかる。だけど暫くすると、そわそわと足踏みしたり、体を揺らしたりしてしまう。
(……落ち着かない)
もしもイラストを見て気に入った人が現れれば、ブックマーク登録をされたり、あるいは、私をお気に入りユーザー登録してもらえるかもしれない……らしい。
また、時には感想が付くこともある。事前に調べた情報によれば、感想が付けばホーム画面の左上に赤文字で感想通知が出てくるとのこと。
五秒おきくらいに、カチリカチリとクリックしては、ブクマや感想が付かないかを確認する。
が、当然つかない。今日初めて投稿した無名絵師の作品に、そんな短時間で反応があるわけもないのだ。
私はふるふると頭を振ると、一度落ち着こうと席を立つ。
パソコンの傍から離れたが……。やはりそわそわと落ち着かなく、まるで熊のように部屋の中をぐるぐると徘徊してしまう。
そうしてやっぱり気になって、ポケットからスマホを取り出すと、『絵師になろう』のホームにアクセスしてしまう。でも、やっぱり何の変化もない。
「うー」
ぐるぐると回る。スマホをタップする。変化がない。自室のベッドにボスンとダイブする。スマホをタップする。変化がない。
枕を抱えながらゴロゴロと寝返りを打つ。スマホをタップ……ホーム画面の左上に赤字が点滅している。感想通知であった。
「き、来た!?」
素っ頓狂な、桜色の声を上げてしまう。
心臓を掴まれたような心地になった。胃がせり上がって、口から出てきてしまいそうだ。
指をスマホの画面に近づけていき……遠ざける。それを二度繰り返す。逡巡の末、三度目に赤字をタップした。画面が切り替わる。付けられた感想の中身は――
「ッ~~!!」
声にならない声を上げる。丁度その時、ガチャっと、玄関扉が開かれる音がした。次いで『ただいまあ』と、姉の声。
私は部屋を飛び出して、玄関へと駆けていく。
「……お姉! お姉!」
「おっ!? わ! え? 何、何……?」
突然のことに姉は面食らったような顔をしているが、私は構わずスマホの画面を姉の顔の前にかざした。
「見て、見て! 私の絵に感想がついたの! ――『不思議な絵だけど、綺麗ですね』、だって!」
「え! 本当に!? やったじゃん! 流石は私の妹! さすいも!」
姉も大袈裟なくらい喜んでくれる。舞い上がるような気持ちだ。そして、少し気恥ずかしい。
「へへへ……あっ」
「うん? 何、どうしたの?」
私は窺うように姉の顔を見る。
「もしかして、この『アイス』ってユーザー、お姉じゃないよね?」
そんな疑問の声を上げる。一度その疑念が頭にこびりつくと、どうもそれが真実のような気がしてしまう。
(だって、私の絵なんかに、いきなり感想が付くなんて……)
しかし私の疑惑を受けた姉は、呆れたような顔で否定する。
「そんなわけないでしょーが。どんなに自分に自信がないのよ」
目を凝らす。声は――声もまた、呆れ返ったような山吹色。……どうも、嘘を吐いていないようだ。
思えば、今の今まで外出していた姉は、私が今日作品を投稿したことを知らない。だから、他人を装って感想をつけるなんて真似が出来るわけがない。
「じゃあ、本当に……!」
疑念が晴れて、再び心中は喜色に溢れた。
結局、投稿初日に付いた感想はこれ一つだけで、ブックマークも三つ付いただけだった。
それでも、まるで少し早い夏休みと、ずいぶんと早い冬休みが一緒にやってきたような、そんな素晴らしい日になった。