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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

蚕姫の微睡み

作者: ヤドリギ

 仕事帰り、ぼんやりとした視界の中で夜の街の明かりが爛々ときらめいている。落ち着いて眺めることさえできれば幻想的とも言える光景だ。


 しかし、今の私にそんな余裕は無かった。

 その原因はここ最近から続く異様な体調不良だ。

 3ヶ月前辺りから食事があまり喉を通らなくなり体重がごっそりと落ち始めたのだ。そこから謎の腹痛に謎の頭痛までも発生し、同僚から酷く心配されていたことをよく覚えている。

 不思議なことに空腹を感じず、骨が浮き出るほど痩せてはいない。痩せる前の私を知らない人間が見たならば男の割に細いと思う程度だろう。


 季節は夏、元々あった盆の休みに加え、溜まっていた有給を消化する為二週間の休みを取った。そろそろ体型を戻さないと、夏バテで体重が落ちたという言い訳も怪しまれるだろう。そう思って取った休暇だが初日からこの熱だ。非常に幸先が悪いが仕方がない。



 フラフラと道を歩いているとようやく住んでいるアパートにたどり着いた。鍵を開けようにも目に入った汗と熱による目眩で視界が歪む。中々鍵が挿さらない。

 手こずりながらも鍵を開ることができた。部屋へ入ると水をコップいっぱいに注ぎ、一気に飲み干す。

 熱で火照った体に冷えた水が染み渡る。喉が潤うのを感じながら私は上着とネクタイを脱ぎ、ワイシャツとズボンのままベッドへ飛び込む。最早風呂に入る気も起きないのでこのまま寝かさせてもらう事にしよう。





 しかし、いざ眠ろうとすると案外眠れないもので、しばらく天井とにらめっこする事になりそうだ。布団がだんだんと汗で蒸れてくるが、もう布団の外に出る気力もなかった。


(あぁ蒸し暑い、まるでサウナだ......)


 面倒臭がって風呂に入らなかったツケを私は早々に払うこととなった。今更後悔しても遅いので他のことを考えて気を紛らわす。


(そういえば学生だった時は夏休みになるとよく外に出て遊んでいたっけ......)


 その時、夏休みという言葉が熱でクラクラしている頭の中を巡る。いつだったか、ある暑い夏の日の事をぼんやりと思い出す。あの日私は何をしていたのだったか。なんだかよく思い出せない、思い出そうとするとなぜか寒気がするのだ。

 爪先から首筋まで小さな虫がゾクゾクと這い上がってきている様な寒気はまるで、思い出すなという警告のようだった。私はなんだか不気味に思ったがそれでも考えるのを止める事はなかった。


(そうか、あの日裏山の森へ遊びに行ったんだっけ............)


 意識がだんだんと薄れていく、



 そして気づくと私は森の中にいた。









(............夢、だな)


 今見ているものが夢であると一瞬で理解できた。何故なら今、私の目の前に私自身が立っているからだ。服装を見て気付く、あいつは中学生の時の『私』だ。夏休みの中頃、ほんの気まぐれで近くの裏山に一人で遊びに来ていたのだった。今思えば、昔から虫の類が苦手だったのに何故あの時自分から真夏の森へ出かけようなどと思ったのか全く思い出せない。

 夏も盛りでかなり暑かったことを覚えている。水筒の水も少なくなり、木陰で休むのもつまらない、でもここで帰るのはもっとつまらない。

 そこで私は大してこの辺りに詳しくないにも関わらず無謀な冒険に出たのだ。


 道は整備された芝生から鬱蒼とした草むらへ変わり、木々は無秩序に枝を伸ばしている。朝早く家を出たことが災いして時間感覚が完全に麻痺していた。大きな木に登ろうとしたり、よく分からない鳥の鳴き声を聞いたりして道を歩いていると自然に森の奥へ奥へと進んで行く。もう『私』には戻るなどという思考は残されていなかったのだ。


 気づけばもう迷っていた。『私』は帰り道を見失っていた。そうなれば最早歩くしかない、さっきまで散歩気分で歩いていた山道がとんでもなく恐しい場所に見えてくる。一度弱気になるとそこからはなし崩しだった、あっという間に勇気ある冒険者から惨めな遭難者へと早変わりした『私』は足取り重く、どこへ向かったらいいかも分からずに、ただひたすら前へ進む事しかできなかった。

 最初は心のどこかで何とかなるだろうと思っていたのだろうが、だんだんと疲労がたまるとそんな余裕も消えて無くなった。


(そうだ......私は帰り道が分からなくなってあの場所(・・・・)を見つけたんだ)


 私が思い出した瞬間、場面が森から少し開けた場所に変わる。そこは長い間手入れされていなかったのだろうか、草木が腰に来る位まで伸びている。そしてその真ん中に大きな屋敷がどっしりと建っていた。屋敷は長い間人が住んでいないのか窓は一部割れ、壁には蔦が張り付いている。おまけに鍵が壊れているのか扉はほんの少しだけ開いていて、いかにも廃墟という有様であった。


(まるでお化け屋敷だな)


 入るべきか迷っている自分を見下ろしながら案外冷静に観察する。


「すいませ〜ん、誰かいませんかー?」


 諦め半分に『私』は扉の向こうへ呼びかけているが返事はない。


「お、お邪魔しま〜す」


 もしかしたら電話があるかもしれないという僅かな希望を抱いておそるおそる足を踏み入れる。屋敷の中は広いが、殆どの部屋に本棚やら資料やらが敷き詰められており生活スペースは案外狭かった。ここに住むとしても一人か二人だろう。

 リビング、トイレ、お風呂、どこも埃をかぶっていたが汚れ自体は少ないので綺麗好きだということがよく分かる。途中電話を見つけたが案の定電話線は繋がっていなかった。しかし、今さら帰る事は出来ない。屋敷の探索を続行するほかなかった。







 色々と探し回り、屋敷内で最後に探したのは書斎だった。木でできた机と椅子、天井から垂れ下がる電球、本棚とベッド、限られた家具しかないその場所は部屋というよりも少し豪華な牢屋といったところだろうか。本棚の本は全部見たことのない言葉で書かれていて読むことはできない。仕方がないので机を漁ることにした。

 中に入っていたのは、「特殊改良型の絹による不確定性の観測」と書かれた論文と小瓶に入った白い塊だった。論文は分厚い上に難解な言い回しや単語が多く中学生の私には断片的にしか読むことはできなかった。


『#####から採取した###の研究により発見された######、これを改良し####を確立させる事に成功した。これにより、####の安定的な観測に成功。しかし干渉は難しくどのような改変が起きるかは#####の__』


 私は読むのを途中で諦めた。元々人に読ませる事を前提としていないのか、殴り書きのような部分にいたっては解読不能だ。しかし明らかに表沙汰にしてはいけない内容だという事だけはよく理解できた。

 つまりそれとセットで出てきた小瓶もおそらくこれ(・・)関係なのだろう。


 私は慎重に瓶から白い塊を出す。


 これは何かの繭だ。形からして蚕か何かの。だが何かおかしい、軽過ぎるのだ。窓辺に立って、太陽の光で透かして見ても何も映らない。どうやら中身は空のようだ。ではこの繭の主はどうやってこれを作ったのだろうか? 

 ほんの出来心だった。世に出回らないような発見をした自分に何か勲章が欲しかったのだろう。私は繭をまた小瓶に入れ栓をしてからポケットにしまう。完全に窃盗だがバレない自信があった。家に誰もいないのは確認済みだったからだ。


(そうだ、この屋敷を探検して.....。それで私は......あれ? 結局この後どうやって帰ったんだろう?)


 なんだか記憶があやふやだ、まるで霧がかかったように思い出せない。ただ、何か(・・)を見つけたことだけ覚えている。恐らくそれが私の恐怖の根源なのだろう。







 私が必死に思い出そうとしている間に『私』は地下室を見つけたようだ。そこには黒くて大きな鉄の門が物置きの床に隠すように設置されていた。もう、この時の私には人が居るかもしれないとか帰り道がどうとかなんてどうでもよかった。ただ目の前の扉の下に何が隠されているのか、それが知りたかった。


 ............ギィィィィィ


 錆びた扉が悲鳴をあげるように音を立てた。扉の下にはコンリートでできた階段が見えるがその奥は真っ暗だ。そこで『私』は近くにあったランタンにマッチで火をつけ、照らしながら進む。心臓がバクバクと鳴っているのがわかる。無意識に私も『私』と同じように興奮していた。

 

「ここまで厳重に隠すなんて、一体何があるんだ?」


 何もない可能性もあるがここまで来たら引き下がれない。覚悟を決めて階段を降りる。足音が思ったよりも反響して一瞬驚いたがすぐに慣れてしまった。


 黙々と階段を降りた先には大部屋があった。家具は無かったが部屋にはただ一つだけ目を引くものがあった。繭だ。それも今度のは巨大な。人間一人が入っても余裕があるぐらいの大きさだ。繭を固定するためだろうか? 部屋中に糸が張り巡らせてあり、その中心に繭が鎮座している。

 『私』は繭に近づき、耳を当ててみる。


ドクン、ドクン、ドクン


 聞こえる、何かがいるのだ。しかもこれは心臓の音だ。中の宿主は生きている。幸い中身が出てくるような気配は一切ない。

 危険な好奇心が疼く。中には何が入っているのだろう。私はロウソクが短くなったランタンで繭を透かしてみる。


「なんだ、これ......!?」


 浮かび上がったシルエットは女だった。胎児のように体を丸めている。しかし、人間ではない事は見ればすぐに分かった。

 パッっと見ただけでは人間だが確実に違うのは腕だ。私の知っている人間は腕が四本も生えていないし、指も三本じゃ無い。

 次に触角、こめかみの上の辺りから平安時代の櫛のよう形をした触角が胸の辺りまで伸びている。

 そして羽根だ。背中から生えているわけではなく、人間でいう耳のある位置から生えた腰の辺りまである大きな羽は毛皮のようにフサフサとした鱗粉のようなものに覆われ、体に沿って閉じられている。


「はは、は......。なんだ、この、怪物は......」


 そう、怪物。人の様だがそれは確かに私の知っているところの蛾、もっといえば蚕に似た要素を併せ持っていた。

 そして特徴として言えることがもう一つあった。その化け物は美しかったのだ。繭を透けて見えるその手足は細いが女性的な丸みを持っていたし、豊満な胸は化け物の腕が包み込むようにして覆われており、その姿はシルエットだけでも自然な淫靡さを醸していた。

 怪物であるという事を差し引けばその()は魔性の美を持っていた。


 その怪物はずっと眺めていたいぐらいに美しかった。


 でも私はそれ以上に恐怖していた。


 気づけば足が震えている。帰り道を忘れたとか、人がいない屋敷に忍び込むどころではない。

 今『私』の目の前には人知を超えた未知の怪物がいるのだ。


 ここまで好奇心で進んで来たがようやく今初めて未知に対する恐怖が勝った。不気味だとか気持ち悪いだとかそういった生理的な恐怖ではなく本能で感じる恐怖だ。腹を空かせた蛇を見つけてしまったカエルのような、悪寒の止まらない、おぞましい感覚。







 私は無意識に階段を駆け登っていた。音を立てるとアレ(・・)が起きてしまうんじゃないかなんて考えるよりも一秒でもここに居たくないという恐怖が『私』を動かしていたのだ。

 物置を飛び出し、森へ駆け込む。『私』はそのまま一心不乱に走り続けた。







 そこからはもう覚えていないが今こうして生きているという事はきっとうまく山を降りれたのだろう。気づけば私の視界が歪み、森から見慣れた天井へと戻る。酷く気分が悪い。何故あんな夢を見てしまったんだろうか。

 いや、それとも夢ですらなく、熱にうなされて見た幻覚の類だったのかもしれない。きっと虫が苦手だったから蛾の化け物なんて妄想紛いの夢を見たのだろう、きっと、そうに違いない。


 大体あんな生物が存在するわけがないのだ。あんな怪物はこの世のどこにだって、いるわけが無いのだ。







 気づくと私はまた元の布団の中にいた。全身は気持ちの悪い汗をぐっしょりとかいている。


 首だけを動かして窓の外を見ると、外はまだ暗い。あの夢を見てからあまり時間は経っていない様だ。

 あんな夢を見た後で何だがする事もないのでもう一度寝ようと布団をかぶろうとした時、ベッドの下のダンボール箱が偶然目に入る。確か一人暮らしをしてしばらく経った時、実家から送られて来たものの一つだったはずだ。

 携帯のライトを頼りにダンボール箱を開けると中には昔使っていたカードゲームのデッキやゲームのカセット、漫画や写真など、思い出深いもので溢れていた。

 適当に中を漁りながら感傷に浸っていると小物が入った缶を見つける。消しゴムや短くなった鉛筆、缶バッジなど様々な小物が散乱する中、見覚えの無いものを見つける。

 瓶だ。それも小さな、手のひらほどの大きさの小瓶。そして中に入っているのは白くて丸い塊。繭だ。


(なんの瓶だ? こんな物あったっけ......? いや、待てよ、まさか......この瓶は............!)


 心当たりが一つだけあった。私はこれを知っていた。これを持って来たのは私自身だ。あの時ポケットに入れたままの小瓶が、幻覚だと思っていたあの夢の中の小瓶が今、目の前に存在しているのだ。


(そうだ、これはあの時拾った瓶に間違いない......じゃあ、あれは夢じゃなかったんだ!)


 嫌な可能性が脳裏をよぎる。(コレ)がるという事は怪物(アレ)も実在していたという証明に他ならないからだ。


(つまり私は本当にあの屋敷に行ったっていうのか............!?)


 寒気がする。とびきりの悪寒だ。熱の気だるさと相まって更に気分が悪くなってくる。そんな時に更に私に追い打ちをかける様な事に気付いてしまう。


(この瓶少し重くなってないか?)


 確か夢で見たときは空の瓶だと言われて渡されたら分からないぐらいに軽かったと思うが今は少し手に沈み込むような重みがあった。


(いや、もういい。忘れよう。もう終わった事なんだ............)


 瓶を箱に投げ入れるとカチャンと音がしたが気にする必要は無い。私はようやく訪れた眠気に身をまかせる。熱のせいか身体の節々が痛み、視界も更にぼやけて来た。体の中にマグマが通っているんじゃないかと思うほどに熱い。この苦痛から逃れられるならとっとと眠ってしまいたい。せっかく有給を二週間も取ったんだ。考えるのは明日にしよう。







 眠りから眼が覚める。意識が微睡みから浮上するが熱の気だるさと頭痛は健在だ。


(まだ、熱は下がってないみたいだな。有給を取っておいて本当によかった...)


 とりあえず喉が渇いたので水を飲みに冷蔵庫へ向かおうとするが体に力が入らない。まるで赤ん坊になってしまったかの様だった。そこで私はようやく違和感を覚えた。


(............声が、出ない? しかも体まで.........!?)


 声を出そうとしても声帯は震えず、肩から下と腰から下、つまり両手両足が全く動かないのだ。


(まずい、まずいぞ......! このままじゃ最悪餓死だ)


 せっかくだからと取っておいた有給が完全に裏目に出た。最低でも休暇を取った二週間は誰もこの部屋に訪れないだろう。

 携帯すらも操作できない状態では助けも呼ぶことができない。なんとか外へ出ようと体を捩り、まるで芋虫の様に移動する。手足が動かせないのでベッドから転げ落ちたがそんな事を気にしている場合ではない。なんとかして外に出て助けを呼ばないと行けないのだ。


(待てよ......? 私はどうやってドアを開ければいいんだ!?)


 根本的な問題に今更気付く、ドアノブに手が届かないどころか手が動かせないのだ。


(......一体どうする? どうやってここから脱出すればいい!?)


 ズキズキと痛む頭で考えるが、全く打開策が出てこない。そして朝を迎えた。







(......ああ、お腹が空いた。そういえば昨日の昼から何も食べてないぞ)


 脱出しなければ行けないのに無駄な思考が頭をめぐる。どっちみち食料は冷蔵庫の中、この状況で開けられるわけもない。


(お腹が......お腹が空いた............何か......食べなきゃ......)


 空腹と焦り、熱も相まってだんだんと思考が出来なくなってくる。ここから脱出しなくちゃいけないのに、頭が食事でいっぱいになってくる。

 ふと無意識に近くにあったティッシュペーパーを食んでみた。何も食べていなかったせいかとてつもなく美味しく感じるが味は全くと言っていいほど無かった。熱の上がり過ぎで味覚がおかしくなったのだろうか?

 この異常な食欲がただの空腹や熱によるものではないことも考えればすぐ分かるのに、今、私の脳みそは既に思考を停止していた。


(お腹が減った......もっと、もっと食べたい............)


 気づけばもうティッシュ箱すら無くなっていた、それどころかまた別の食べ物を探すように体は動き出している。そこに理性は無く本能からの行動だった。私は一心不乱に食べれるものを探しては食べ、探しては食べを繰り返していった。








 私があの夢を見てから二日が経った。あの後とてつもない腹痛に襲われたが吐いてはいない。未だに体は熱く、手足は動かないし頭もぼんやりとしている。そして私は今、体を捩るようにして床を這っていた。


「うぅ............うぅぅ」


 なんとか呻き声ぐらいは出せるようになって来たが状況は何も変わらない。移動できても腕が動かないからドアも冷蔵庫も開けられやしない。

 ふと、ベッドの下の段ボール箱が目に入る。何か食べれる物は入っていないだろうか? 箱を漁ろうと縁を咥えて中身をぶちまける。と、その時、あの瓶の中の異変に気づいた。

 蓋が開いている。確か昨日しまった時にはちゃんと閉まっていたはずだ。そして繭はまるで中から食い破られたように、そこだけ溶けたかのようにポッカリと穴ができている。中には何も入っていなかった。


 だがもうそんなことはどうでもいい。食べ物を探さなくては。





 三日目、私は本格的におかしくなっていった。齧れるものは全部食べられるように感じ始め、今ではフローリングでさえ齧っている。

 しかも体にも異変が現れていた。まず肩が枝分かれするようにコブが出来た。大きさは人の頭ほど大きく、時々グネグネと動く。


 次に管だ。舌や指など全身に分泌腺のようなものが発達し、大体何処からでも糸が出せるようになった。

 ただ、糸と言ってもドロドロとした粘液で空気に触れ続けると固まるようだ。最初に見た時、てっきり自分の吐瀉物か何かと思ってまだ人間の名残があったのかと密かに喜んでいたが、自分の背後を見て驚愕した。まるで乾きかけの接着剤を引き伸ばしたかのように、糸が床にこびりついていたのだ。


 この瞬間、自分が本当の意味で人ならざる未知の化物へと変わり始めていることにようやく気づき、絶望した。




 最後に肌だ。窓に映った自分を見た時、てっきり栄養失調で血色が悪いだけかと思ったが、もはやそんなレベルでは言い表せないぐらいに白くなっている。皮肉にもその病的な白さにあの化け物が入っていた繭を思い出してしまう。





 六日目、相変わらず1日の大半が食事で消費されている。既に、何を食べた、だとか、これは人間の食べるようなものじゃ無い、だとか考える気すら起きない。

 もう味も殆ど分からなくなり、かえってどうでもよくなってしまった。


 最近起きた変化といえば、体に少しだけ肉が付いた。もともとは痩せていたので、体が丸みを帯びてきているのがよく実感できた。ろくなものを食べていないというのになぜ肉がつくのだろうか。若干だが胸も膨らんできた気がする。







 十日目、腕が生えた。あの肩に出来たコブから。あの怪物と同じく指は三本だ。腕は殻のような外皮に覆われているが質感は人間のものとほぼ同じで感覚もちゃんとある。指や肘、膝、肩、股関節などの関節は虫のような節状になっていた。

 他にも触角や羽も生え始めている。どんどん姿が化け物に近づいてきてしまったが希望は捨てない。これからどうするか、なんて考える時間はたっぷりあるのだ。






 十二日目、後少しで休暇が終わる。私が会社に来ず、電話にも出ない事に気づいた誰かがきっと助けに来てくれるだろう。しかし、それで良いのだろうか?こんな姿になっても彼らは私を私だと気づくのだろうか?


 熱は殆ど引いた。これで少しは楽になれるだろう。しかしもう既に私の体は正真正銘、女になっていた。胸は大きく育ち、腰はくびれ、股にあった男の象徴など元々無かったかのように綺麗さっぱり無くなっていた。胸が邪魔で最近は這いずることも難しくなってきている。

 私の精神もそろそろ限界に近い。誰でもいい、誰か、助けて。






 十三日目、私は山場を迎えていた。


(ウグゥゥゥゥ......ううぅ......あぁ、あああああぁ............アァ、ウァ......)


 精神の侵食。私の中の怪物が身体を乗っ取ろうと私に残った最後の「人間らしさ」を奪おうとしている。侵食は昼夜問わず、食事中でさえ襲ってくる。少しでも気を抜けば頭の中がグシャグシャになってしまうんじゃないかという恐怖と、元々熱と肉体の変化によるショックで私の精神は限界まで追い詰められていた。


(イヤだ......私は人ゲンなんダ...........

化け物じャナイ......! わたしはまだ人間なンだ............!)


 もう自分でも何を考えているのか分からなかった。自我が溶けて得体の知れないものと一体化していくのは気が狂うほど苦しい。しかし、化け物なんかになりたくない、その一心で私はこの儚い抵抗を続けてみせると誓った。

 その時だった。動けないなりに抵抗をしていた私は知らぬ間に窓際まで移動していた。カーテンの下から朝日が差し込んでいる。ふと、窓ガラスに私の姿が映った。

 何日も着続けたシャツの裾からは新しく生えた腕がのぞき、そこに成人男性の男らしい腕は無く女性のものより遥かにほっそりした腕といつの間にか三本になってしまった指がヒクヒクと蠢いている。ワイシャツの上からでも分かる大きな胸は呼吸をするたび形を変え、真っ白な肌が太陽の光を受けてさらにその白さを際立たせている。額から生えた触角と耳の辺りから生えた羽は私の心情を表すかのように震えていた。



 その時、本能で理解した。私はもう人間なんかじゃない。いや、とっくにそのラインを超えていたのかもしれない。身体はとっくの昔に化け物に成り果てていたのだ。

 熱なんてとっくに治っていたのだ。多分あの夢を見て眠った後には既に治っていたのだろう。声が出なかったのは声帯が作りかえられていたから、手足を動かせないのは構造が変わってしまったから人間の時の感覚で動かせなかったのだろう。ならばあの頭痛は私の精神が侵食され始めていたサインだとでもいうのだろうか?

 いや、サインというならばあの日の事を思い出してしまったこと自体がこの悪夢のような出来事を示唆していた違いない。

 そしてその体に現れたサインももう無い、つまり完成したのだ。あの時見た怪物と同じ化け物に私は作り変えられてしまったのだった。



 自分の姿は首を曲げることで見たことがあったが、全身を見るのは初めてだった。一瞬、ほんの一瞬私は自分の姿に目を奪われた。よだれと涙で汚れた綺麗な顔がぽかんと驚いた間抜け面を晒している、顔立ちも面影が薄っすらと残るぐらいでほぼ別人だ。しかし、私が目を奪われた理由はそれではない。


 その顔は美しかった。人間ではありえない魔性の美。たとえよだれと涙にまみれようともその美しさを損なわせる事はなかった。


 つまり自分の顔にみ惚れてしまったのだ、私は。


 だが今はその一瞬ですら私の意識を刈り取るのに十分だった。


(あ、あぁ......ぁぁ)


 急激に自我が削られていく。頭の中でバチバチと火花が弾け続けるような衝撃と、守り続けた物が破壊されてゆく絶望、そして最後に残されたのは怪物の意識と混ざり合ったことによって伝わる圧倒的多幸感だった。

 

(あああああ!!! うああああぁぁ!!! イヤだぁぁぁぁぁぁ 助けて!! 誰カ、ダレカタスケテ!!)


 化け物になることに絶望する私と打って変わって怪物の意識はこれから自分が生まれることの歓喜で埋め尽くされていた。

 全身は痙攣を起こし、口は金魚の様にパクパクと開閉する。

 私の魂と怪物の精神、絶望と絶頂、この二つがドロドロに混ざり合って溶かされていく。身体は誕生の喜びに震える一方、魂は消えたくない、死にたくないと絶叫していた。

 そんな攻防の最中、私はどこか他人事の様にぼんやりと思考する。


(ああクソ、なんで私はこんな思いをしなくちゃいけないんだ?

 私はこのまま死ぬんだろうか? 消えて無くなってこの怪物の一部になってしまうんだろうか?)


(私が生きていたい理由ってなんだ? 仕事だって楽しいって訳じゃないし、家族はもう皆んな死んでしまった。彼女なんていないし、友達なんてもう何年も会ってない。

 じゃあ私はどうしてこんなに抵抗してるんだ?)


 最初はただ単純に生きていたいと思っていたのかもしれなかった。だが、何日も頭痛と共に伝わるこいつ(・・・)の意思に私は嫉妬を覚えていたのかもしれない。生まれたい、外を見たい、美味しいものを食べたい、その純粋な意思が私にはとても羨ましく思えたのだ。

 もし、私がこの攻防に勝利したとしても、人間の身体に戻れたとしても、きっと私はいつも通りの日常を何の喜びも無く過ごすのだろう。

 つまり私には元から、人間であることに対する執着など無かったという事になる。


 なら、この無邪気な怪物がこの身体を使った方がいいのではないか?


(はは、下らない......こんな下らない事のために私は二週間もこいつ(怪物)と戦ってたのか。............最初から分かってたらこんなに意地を張らなかったのに)


 張り詰めていた意識が緩む、ぶつかり合うのではなく、ゆっくりゆっくり溶け込んでいく。子供の頃、母に抱きしめられた時のような懐かしいような、暖かく、そして柔らかい、そんな気分。


(私は消えるのか......? いや、一緒になるんだ。一緒になって、こいつと同じものを見て、同じものを食べて、同じものを感じるんだ。)


 薄れゆく自我で独白する。


(もしかしたら、今までよりよっぽど楽しいかもしれないな............でも、今までだって悪く無かった。

 そりゃあ、苦しいこともあったし悲しいこともあったけど、生きていたくないなんて一度も思った事がなかったんだからね)


 私の長い長い二週間がようやく終わりを告げる。


(ああ、でもやっぱり彼女は欲しかったかもなぁ)


 最後に酷くどうでもいいことを心の中で呟いた。カッコいいことを言って終わろうなんて私には勿体無い。こんなことをボヤくぐらいが丁度いいんだ。


 やがて身体が長い絶頂から帰ってきた時には私の意識は完全に消え、窓ガラスにはすぅすぅと寝息をたてる一匹の化け物が映っていた。







 数日後、ある男が住んでいた(・・・・・)アパートの一室に化け物が()を作っていた。


 全身にある分泌腺から糸を出し、指先で編み込むようにして部屋全体を覆い、天幕の様に張り巡らせていたのだ。まだ、歩くのに慣れていないのか、たどたどしい足つきで移動している。

 しばらくしてようやく満足したのか今度は部屋の中心で繭を作ろうとしていた。四本の腕を使い、器用に繭を作る化け物は無表情ながらどこか嬉しいような雰囲気をしている。


 繭が出来上がると化け物は自分の作った繭の出来栄えを確認するように見回す。そして狭い繭の中でグッと伸びをしながら欠伸をした。そのまま体を胎児のように丸め、うつらうつらと小さく舟を漕いでいる内に本能が"眠れ"と囁いてくる。


 化け物は本能に従って瞼を閉じた。


 繭は熱を逃がさず中はそこそこ暖かい。まるで日向ぼっこをしているようだと思い、ふと気づいた。はて、日向ぼっことは何だろうか?と。よく分からないがきっとこんな風に気持ちのいい事なのだろうと考えているうちに更に眠くなってくる。


 次起きた時、何をしようか。と化け物は微睡みの中で小さく微笑む。


 その瞬間、繭から怪物の姿は消え、部屋には空っぽの繭だけが残っていた。

 

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[良い点] だんだんと追い詰められていく感覚がなんとも言えないです。 真綿で締められると言うのでしょうか? とにかく怖いです! 笑 それを見せる文章力も素晴らしいですね。 [一言] 感想書いていただい…
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