無言の赤子
Do i do?
No!
Everything can't do the thing without me!
「冷たいわね、アナタ」
女の頬を黒い涙が伝っていた。
潮風で錆付いたメイクは、安さそのものであった。
「やり直しましょう。私は貴方のそばに居たいだけ、それだけで十分なの」
酒で焼けた女の声が男の滾る視線をいくらか損ねたが、男は毅然と女を虎視していた。原色の赤一色のブラウスが女の傷目を引き立てていた。やや近い瞳に、浮き出た頬骨。悲しいことに一流女優とは言い難い。女は冷たくあしらわれ、ナメクジのように泣き崩れた。男はホルスターから拳銃を引き抜くと、小窓に女の眉間を捉えた。泣きわめいていた風と女が沈黙を飲む。シリンダーから覗く、弾頭の浅黒い光に女は慌てふためいた。
「な、何よコレ。どいうこと?」
女はあっけらかんと動揺を顔にするも、男は続ける。
「君を愛していた。だが君は罪人だ」
感情は疎か、マンネリをしらない模範回答に、女は失笑を堪えた。男自身、あからさまに女の口元が緩んだのは不本意であったが、撃鉄を撫で下ろす指には一点の迷いもなかった。しかしトリガーにかかった指を引いた途端、無慈悲な男の鼻筋を涙が伝った。錠前が緩む様に溢れ出す涙が、涙袋を潤し続けた。
「カットー!」
横槍が入り、男は涙を拭い拳銃をジャケットの裏地に収めた。白いテントから強面の男が一人、不服な面を浮かべ足早に近づいて来た。だが、決して威厳漂う風貌ではなく、ただ見苦しくヒステリーに陥っているだけであった。
しかし、この男が1世紀前のセンスを匂わせる自慰監督と主演を勤めていることを男は知っていた。男はコネどころか俳優自体に興味を抱いてなかった。演技や電子空間に乗じるのなら、現実でソレを形にする方が有意義であると男は豪語していた。男は、演技など自販機のケツの下のコインに手を伸ばす様な作業だと思っていた。そんな男の横目には、駆け寄る仲裁者をニコチンのベールで跳ね返す悪漢が映っていた。
「お前が銃を握るシーンはないぞ?この惨状じゃ読み書きも怪しいな」
聞き手の返す暇もなく強面の男は、右頬を小刻みに引きつらせ紺色の唇を激しく動かした。
「お前のアドリブなんて期待していないんだよ。お前、台本失くしたろ?」
「バイトに気分屋俳優の代役をまかすのはどうかと」
「電脳メモリーにシュミレートしてないのか?オマエの海馬はがら空きか?」
監督は年端もいかない子供の様に交通整備のバイトを罵倒した。
「僕の海馬は、貴方ほど口がたつ必要はないですから」
「良く言えばそうだろうよ。金がないだけだろう、お前らは?」
「体に異物を混ぜる気はないですね」
監督は薄ら笑いを浮かべると、一度黙りこんだ。50過ぎの男の"睨みが効いた上目使い"が数分間続いたように思えたが、実際は5秒近くで目の持ち主が口を開いた。
「何輪?何輪車で来た?」
追い詰められた人間の言動は予想を上回るものだが、唐突かつ突飛の限りを尽くした質問に男は少々の戸惑いを覚えた。
「電車です」
監督は調子よく高い声で問い返す。感情があらわになった顔は都合が良いと言わんばかりであった。
「車は?」
「ないですね」
監督は卯すら笑みを浮かべつつ、自らの顎をさすり猫の様に唸った。
「悪いがウチはね、貧者をダシに涙そそるドキュメンタリーを撮ることはないんだ。残念だが地上に家を拵えてから、出直してくれ」
男は今日も辛気臭い顔で夜の街を歩いていた。ここの冬は大柄なシュツマフ人にも堪える。黒ずんだコンクリの道に、錆付いたマンホール、空を奪うパイプ管と氷柱を垂らす導線の海。目を細めようとお日様の顎髭さえ拝められない、ロゴットスにも聖夜が近づき、街は凍傷と人で溢れていた。お陰で、横たわった人間による軽い渋滞が、交通状態と人々のオプティミズムを冒していた。
「何浮かれてるんだ。お前らの誕生日でもないというのに……」
実は皮肉を垂れている彼の元にも、事は訪れていた。詐欺紛いの広告で鼻をかむ男であろうと、神の元には平等ということだろうか。田舎者のフリーターから都市部の工事監督として取り入れられたのだ。丁度オフィスの中を覗くとそのサンタが目に入った。横線の入った腹を隠しきれないシャツからは、黄ばんだ下着がはみ出している。発汗した臭気が賑やかな聖域を思わせた。まともな仕事であれば我慢できないことはなかった。しかし、監督の役職は飯を食う度に担当の人間がローテーションしていく。忍耐と飽きが回る頃には、自然とカネも止まるシステムだ。ふてぶてしい腕は、ずさんに開けられた袋の中に突っ伏し、デスクの上には無数のゴミが散乱していた。見事なサンタの巣の出来栄えに、毎晩使う入浴剤のオーバーな香りさえ恋しくなった。
「現状所長の井浦さんですか?」
振り返った井浦の口周りには、やはりサンタのような上品な白髭ではなく、茶色の食べカスがこべり着いていた。井浦は引き出しから新しい燃料と書類を取り出し、"燃料"に向かって話しかける。
「あぁ、君は今日転属の……」
「東月 滋走です。書類はお時間の余裕がある時で構いません。で、現場の方は?」
「ティータイムの何分前?」
「7分前ですね」
「じゃ、僕は7分後に。君は長くて後40分間、ここに拘束。帰りに、ロゴットスの愛人のところで一杯どうかな?」
「それは結構で」
東月の皮肉に感ずいたのか井浦は軽くほくそ笑んだ。クリスマスムードに負けじと、彼の踏みしめる下町でも戦争が勃発していた。
彼がガラス越しに見下ろす、トイレより空気の悪い巨大な喫煙室こそ最前線であった。
サンタは聖夜に幸せを振り撒き、従者はシールドマシンの傍ら光を蝕む腐敗剤をばら撒く。トンネル掘りの"最先端"の主流法で、彼も経験者の一人であった。給料はいいが、定時までに穴の先に光が見えなければその日は作業場以外の電気が全て落とされる。事実上、無期限残業である。
対して監視の仕事は楽だが、退屈の限りを尽くすばかりか、数日分の光熱費程度の中和に等しい。都下先端効率再生区――ロゴットスへの人員補給は、期待を寄せる田舎者への秀逸な罠である。この街の売り文句であった豊富な水資源も、市民が生産する手筈であった。また、この地下街が凄まじい速度で治安悪化を遂げたのも――"淀んだ空気、陰気な町並み"全て立地が原因である。生真面目であった己を悔いるも、気分転換に転職出来るわけでもない。就けたところで録な仕事でないくらい、オムツの取れない子供でも知っている事だ。実際、彼の目下で働く男達も監禁労働の時間を越えて残業に勤しんでいる最中だ。暖房の効いた部屋で、彼は定時までの残り時間を確認した。腑に落ちない気持ちを押さえ予定終業通知のベルを鳴らした。憎い程眩しかったサーチライトが、一斉に消灯し晦冥が生まれる。昏々と轟音を響かせる男達を背に、東月は錆び付いた階段をゆっくりと踏みしめて行った。
男の足は、居酒屋に向かっていた。
美味い上に安いと都合のいい店――通称"ロゴットスの愛人"が、火事と食中毒で20人以上の死人を出しているのは秘密であり、ソレを知るのは死者に限るというのも秘密である。
テーブル席のソファにゆったりと腰掛けると、べっとりとした感触を覚えた。
顔の広い愛人は、清潔感とは常に別居中である。
大半の|青白い雀斑をはしらせる客は、耳で陰気な世間話を吸って、ため息を吐く。解腐剤を地下で巻き続けると、マスクの隙間から肌に青白いそばかすができる。体力と精力は減る一方で、体のコリは固くなり、肺が縮まる。こうなるとどんな偉丈夫であろうと酒で体中を酒で消毒するようになる。この店は明朝から晩まで薄暗いが、傷には暖かった。生暖かい暖房で頭が虚ろになると、聞きなれた話し声が頭を透る。
『昨日、ヤクイの央市首相とペイチュンの論道首相が両国における水問題を議題として対談されました。具体的な決議は定まらず、南ブレネ海の水資源における領土認識の強調が目立ちました。そして今日、午後5時頃南ブレネ海域―地鎖島付近で不審巡視船が発見されました。海上保安庁による警告を行うも反応はなく、現場は緊張が高まり……』
「女子アナの平均年齢に抗うよなこの女。ところで相席いいかな?」
「あぁ、どうぞ」
彫りの深い顔、筋肉隆々のデカイ図体に浮き出た鎖骨。男のシャツは深緑一色で、腕部は迷彩柄であった。
「前はもっと景気のいい都市部に配属されていたんだ。だが、今日からはここに通うことになった」
「ここも都市部ではあるぞ。食いモンはそれなりに回る上に、世界で話題の水問題はどうにかなってる。何より地方より職があるだけマシじゃないのか?」
ロゴットスに配属される軍人が不満を溢すのは日常茶飯事のことであり、話のネタにするには新鮮さが物足りなくなっていた。東月自身、男が軍人であると見た上で、一般人と変わらない扱いで接していた。
「こっちは、弾一発消えた位で頭に血が上りやがる。まるで赤ん坊に逆ギレする女だな。前の場所じゃあ、そんな事はなかった。コップにカビが生えようが、割れちまおうが構いやしない。オマケにこれが、コップであろうとなかろうと変わりゃしない……」
「あんたは素晴らしい人間だよ。誰もが真似出来る仕事じゃない」
「そうか?」
男はジョッキの半分も飲み干す前から目を垂らし、花を赤らめ始めた。アルコールはめっきり駄目らしい。東月は、男を適当に誘導しつつ、酒で蒸かせ早めに帰って貰うことにした。
「そうとも。強い君だからこそ、辛い苦難に当たるのだと思う」
「やはり、そうか。そうだろう。そうに決まっている」
ニコニコしている男に東月は、無言で笑みを浮かべつつ酒を注いだ。
男の顔は林檎のように赤らみ、いよいよ様子が可笑しくなって来た。
「だが、待てよ。それなら何故俺は、アイツ等にゴミ扱いされるんだ?
メイリーの奴なんか何時もケツ振って歩いているくせに、俺の眼だけは駄目らしい……」
ここを訪れる誰もが一人で感傷に浸りたいもので、他人の私情は酒のつまみにもしたがらない。男の呂律の悪い大声にウンザリしていると、客の脚数の多さに目がいった。
既に出来上がっている団体客が目立ったが、鼻まで覆うような古ぼけたブルゾンの男が1人混じっていた。浮浪者の布団のような茶色の上着には雪がのっていたが本人は全く気に止めていないようだった。
ブルゾンの男はこちらに歩み寄り、丁度軍人の背中越しの席に腰掛けた。すると1分もしないうちに店員が男の元に駆け寄ってきた。
「困りますお客様。まだ、こちらで席の準備が出来ていないので……」
男の背中は、耳を傾けることもなくただ静かに前を向いたままであり、やはり薄汚い服を脱ぐどころか、そこから離れる素振り1つ見せなかった。そんな男の姿に店員も自然と話の途中で口を紡いだ。
「水だ」
男がそう言葉をもらすと、不機嫌な顔つきで後ずさりするように店員が戻っていった。
東月は、個人的な関心をソイツにそそられたが、気付かぬ内に目の前の愚痴が山積みになっていた。
「お前もどうせ、心の中で俺を見下しているんだろう?」
「アンタ、見た目の割りにナイーブな人間なんだな。
そういう感性も良いが、少しは気を休めたほうがいいと思うぞ」
男が軽く頷くと、若い女のウェイターが水を持って来た。研修のネームが『大人しい内に済ませたい』と言っているようだった。
「お水です。どうぞごゆっくり……」
東月は、軽く会釈を取って見せたが、男の方は相変わらず水より愚痴の方が満杯らしく、女の声に被せてきた。
「そうかもな。だがな……」
男は東月に対し一層前のめりになったが、そのまま沈黙を残して項垂れた。
東月は、男の情けない素性を聞いたせいか、うたた寝をこいだものと思った。
しかし、鼻息どころか小さないびき1つかかない。東月は、不振に思い左右に目を凝らした後、男の手首と喉に手を当てた。どちらも微動だにしない。つまり、息をしていない。ブルゾンの男が東月の前を横切ると、丁度すれ違いざまにトイレから井浦がこちらに向かって来た。
「いやぁ、遅くなってゴメンね。で、この人は?」
井浦が馴れ馴れしく、用を済ませた手を男の肩に乗せた。
「つい先程知り合って、それから話していたのですが」
男は人形の様に井浦の手が置かれた左肩から地面に倒れた。左耳から頭を打つちけ鈍い音がした後、男が右手に握っていたグラスが床で音を立てて割れた。男の背中にはじんわりと広がった赤黒い血の跡とその射入口が空いていた。音を耳にした客が辺りを見回し始めた。
「どうしたっ?」
井浦は少し強気ではあるものの、やはり間抜けな声をこぼした。だがこればかりは、東月も同じく問い返したく思った。ウェイターに加え、数名の客が男の死体に気付き始め、一瞬にして東月の周囲一体がギャラリー席となった。
「君、何か知ってるか?」
この状況下で最も嬉しくない質問をされた。周りの眼差しが次々に、彼の脳内へぶつぶつと呟き始めた。東月の心拍数が、上昇し不意に後退りしたところ、脚が縺れた。右腰辺りがふと軽くなり、聞き覚えのない鈍い音がコンクリの床一面に響いた。拳銃が転がっていた。昼間握っていたエキストラのオモチャなどではない。ご丁寧に太く短い減音器が、この始末を首を伸ばして待っているようだった。
何者かに嵌められた。東月は自分が早急に逮捕され裁判にかけられる姿が見え、誤認逮捕するであろう警察を想像した。ふと、自分が被告人であることが前提にしていることを恐れた。自分の手に、これ程の不信感を抱いたのは、初めてであった。
「お代、ここに置いておくからな」
成人して以来本気のかけっこをする機会はなかった。ましてや、自分の生を感じる機会は尚更だ。何人かの客が彼を指さして騒ぎ立てたが、彼は構わず走り続けた。頼れるアテはない。強いて言うならば、毎日三食違う味のUMAをご馳走してくれるドロイド一体である。珍しく自宅へと急いだせいか、財布を含め個人情報も入っている鞄を店に置いて来てしまった。ギトついた灰色の雪道に、東月の足跡が絶え間なく踏み込まれていった。
最後まで読んだ頂き、真に有り難うございます。
かなり、読みやすく?修正しました。
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