三題噺 『道場』『チョコレート』『ろうそく』
「我が道場に一片の悔いなし」
どこかの漫画の登場人物の名言をアレンジしたこの言葉をこよなく愛す男がいた。
愛す、と言っても本当に愛しているのは道場そのものだったのだが。彼が師範代を務める道場、名前は『聖潔道場』と言い、武道を通じて、身も心も尊く神聖なものにするというお題目を掲げていた。
しかし、それは昔の話である。今やこの道場は、近隣から『潔白道場』と呼ばれている。なぜかというと、5代目師範代の男、あの名言を改悪した男、彼が異常なまでの潔癖だったのだ。
汗を嫌い、シミを嫌い、ほこりを嫌う。おかげで鍛錬など積めるわけもなく、彼の門下生は消えていった。すでにこの道場は彼一人の寂しい道場となっている。一人相撲ならぬ一人武道というわけだ。
ある時村に一人の商人が訪れた。商人というものは様々なものを売っているのが常であるが、その商人はなんとチョコレートだけを売るという、商人というよりは伝道者のようなものだった。
「チョコレート、チョコレートはいらんかね?異国のお菓子、食えばほっぺたが落っこちるぞぉ」
子供たちは商人に群がり、頂戴頂戴と騒いだ。子の親も、我が子のみっともない姿に苦笑いを浮かべつつ、ゴクリと喉を鳴らした。
「1つくれや」
見かねた父親が商人に申し出ると、あとは氾濫した川のように、こっちにも、いやおらが先だぞ、さっきの子供たちのように大人が騒ぎ出した。商人は満面の笑みを浮かべてチョコレートとお金を交換するのだった。
ある程度皆にチョコレートが行き渡ると、皆はチョコレートに舌鼓をうち、子供はほっぺたが落ちそうなくらい幸せな顔をして、大人は初めての味にうーんと唸ったり、これは○○に似た味だねぇと意見を交換していた。
商人が村を周ると、一軒だけどうしても人の出てこない場所があった。
「ここは人がすんでないんですかい?」
近くにいた大人に商人が尋ねると、大人は苦笑いを浮かべ答えた。
「人は住んでるが、何分潔癖症でね。さっき子供らの手が茶色になっていたのを見て、そそくさと道場に逃げていったよ」
商人はどんな人にもチョコレートを味わってもらいたかったので、恐る恐る道場に入っていった。
板張りの床は天井を反射するほどピカピカに輝いていた。バリっと音がなると奥から怒鳴り声が聞こえた。
「誰だ!入ってきてもいいが泥を持ち込むのは勘弁してくれよ。今近所で泥遊びが流行ってるらしい。大人まで手を泥だらけにしやがって……」
ぶつぶつと文句を言いながら出てきた男は、商人の身なりを見て、どうにか安心したようだ。商人の身なりは彼が安心できる程度には綺麗だったようだ。
「どうも、今この村で商いをやらせてもらってる商人です」
「そうかい、どうりで見ない顔なわけだ。で、商人というからには、何か売りに来たのか?」
「ええ、異国のお菓子、チョコレートでございやす。しかし、大変言いにくい話なんですがね。今この村の住人の方々の手を泥色に染めてるのはこのお菓子なんですよ」
そう言うと、商人は懐から和紙に包んだチョコレートをだした。
「そんなもの出さないでくれ!この道場が汚れたらただじゃおかないぞ」
男が目を細くして言う。商人はすかさずこう言った。
「安心してください。皆の手が泥色になったのはこの和紙をとっちまったからなんですよ。この和紙からチョコレートの頭だけを出して、そこをこうやってかぶりつく」
商人が実際に食べてみると、泥色になったのは口の周りがほんの少し、それもベロリと一舐めすれば消えた。
「どうですかい旦那。これなら旦那も食えるでしょう?」
「そうだなぁ。よし、1つ貰おう」
男は商人に金を渡しチョコレートを受け取ると、そそくさと懐にチョコレートをしまった。
「今食わんでええんですかい?」
「あぁ、まだやることが残っている。これはその後に食べよう」
「さいですか。それでは失礼いたしやす」
商人はまた1人、チョコレートを知るものが増えて笑顔になり、男は掃除のあとの楽しみが1つ増えたことで笑顔になった。
「旦那、もし後で食べるなら日陰に置いといてください。そいつは肌に長い時間触れさせとくと泥みたいになっちまうんですよ」
商人はそういうと、道場から出ていった。
男は商人に言われた通り、日陰に置いておくことにした。
その日の晩、掃除を念入りに済ませ、男は夕食にありつくことにした。お膳にはご飯、味噌汁、焼き魚、そして和紙に包まれたチョコレートが輝くろうそくに照らされていた。
いつもより丁寧に飯を食べ、ついにチョコレートに手を付けようとした。しかし、和紙を掴んでみるとぐちょりと嫌な音を立てて曲がった。
不思議に思いお膳のろうそくをチョコレートに近づけると、なんと和紙から泥上になったチョコが漏れ出していた。それはお膳から零れ、道場の床に広がっていた。
「あの商人、嘘をついたな!」
急いで町の宿屋へ向かい、商人を問い詰めた。
「はて、そんなはずはないのですが。少し伺ってもよろしいですか?」
商人を引き連れ道場に戻ると、ろうそくが消え真っ暗だった。その暗闇の中、どうにかもう一度ろうそくを付け、辺りを照らすと、床に広がるチョコレートの泥が……。
「ん?これは……」
床にあったのは確かにチョコレートだったが、泥ではなく、商人にもらったものと同じく固まったものだった。
「これはどういうことだ?」
「へぇ旦那。旦那はおそらくお膳にチョコレートを乗っけていたんではないんですか?それもろうそくの近くに」
まさに商人の言う通りだったので、男は素直にうなずいた。
「すいやせん、あっしの説明不足でした。チョコレートが肌に触れると解けるのは、少しあったまると解けちまうからなんですよ。それをろうそくの傍に置いたら解けちまうのも仕方ないです」
「なんだ、そういうことだったのか。それならば仕方ない。おい商人、新しいのをくれ」
商人は申し訳なさそうにこう言った。
「すいやせん旦那、旦那に売ったのが最後のチョコレートです。しかし旦那、この床に広がったチョコレートも、一応食えますぜ」
「お前は俺がどういう男か知らんのか。床に落ちた菓子など食えんわ」
この時ばかりは、自分の潔癖症を呪ったそうな。