レベル2
その日、おれは部活を休もうと思った。
新部長がいきなり休むなんて、やる気がないと思われるかもしれないけれど、もともと我が合気道部はそこまでガツガツした部活じゃない。
毎週水曜日には、外の道場から師範が来て稽古をつけてくれるのだが、今日は月曜日。練習内容は至ってゆるゆるな日だ。
それでも、終業のチャイムが鳴り終わる頃には、おれの足は自然と道場に向かって歩きだしていた。
道着にも着替えず、道場の障子を開ける。予想通り一番乗りだった。
広い道場に足を踏み入れて、畳の上で立ち尽くしていると、後ろから声をかけられた。
「久岡くん!」
麗美だった。辺木園麗美。おれたちと一緒に合気道部に入った二年生だ。
麗美も道着ではなく、制服姿だった。走って来たようで、息を弾ませながらおれの隣に並んだ。茶髪のポニーテールが揺れる。
「穂坂くんの話、聞いた?」
「もちろん。ていうか、今、学校中その話で盛り上がってるだろ」
「まあね……」
小柄な麗美は、小動物のようにおれを見上げた。気弱な印象を受ける八の字眉毛が、今日は一段と弱々しく下がっている。
「でもなんだか、不思議な失踪の仕方なんだよね? 部屋の電気がついてたり、脱いだ部屋着がトイレの前に落ちてたり……」
今日一日、この高校ではどこもかしこも、蘭太の失踪についての話で浮き足立っていた。おれは一日中、イライラしていた。
「怖いよねえ」とか「何があったんだろうね?」とか「無事だといいねー」なんて、心配しているように聞こえる会話の節々に、「退屈な日常の中に舞い込んだイレギュラー」に対する興奮が見え隠れしていたからだ。
けれど、と、おれは少し冷静になって考える。
もし、失踪したのが蘭太じゃなかったら。一度も話したことのない、別のクラスの奴だったら。
きっとおれも、彼らの内の一人になっていただろう。
それが分かるから、そして何より、一瞬でも、蘭太の失踪を空想のネタにしそうになった自分がいるから、おれは、おれに対するイライラを止められなかった。
そうした「非日常」を面白がる興奮が、麗美の言葉の中には感じられなかった。純粋な心配だけが伝わってきて、そのことにホッとしてしまう。ホッとしてしまう自分に、またなんとなく、腹が立った。
「久岡くん」
麗美の声にハッとして、現実に返る。拳をきつく握りしめていたことに気づいた。
「……大丈夫?」
「……ん」
一応返事をしたが、それは、大丈夫ではないことを証明するような、掠れた声になってしまった。麗美が心配そうな顔をして、おれに何かを言おうとした。
そこで、また背後から声をかけられる。
「久岡くん、辺木園さん」
振り返ると、麗美とそう身長の変わらない顧問が、神妙な顔をして立っていた。
顧問は、おれ、麗美、とそれぞれに視線を向け、またおれに向き直って口を開く。
「……久岡くん。こんな状況でも、道場に顔を出してくれてありがとうございます。けれど今は、稽古をする気分には到底なれないでしょう。今日は部活をお休みにすることにしました。僕は障子に、その旨を伝える貼り紙をしておきます。二人とも、今日はもう帰って、ゆっくり休みなさい」
顧問の、痛々しそうな視線に、労わるような声音に、おれは少し泣きそうになった。自分が今どんな顔をしているのか分からない。
道場から出て、適当に理由をつけて麗美と別れ、男子トイレに駆け込んだ。
鏡を見て、少し驚く。
なるほど。こんな顔してる奴がいれば、心配したくもなるだろう。
おれは、おれが思っている以上に、参っているようだ。自分の想像力に。
考えれば考えるほど、おれは、蘭太の無事を信じられなくなっている。
それなのに、今日はきっちり六限目まで授業が行われた。蘭太がいなくても平然と進む日常に、ひどい眩暈がする。
部活までもがいつも通りに行われなかったことに、おれは心の底から、ホッとしていた。
トイレで顔を洗ったあと、一旦教室に戻った。
どうして教室に戻ったのかは分からない。ただなんとなく、このまま一人で学校を出るのが嫌だった。 入部以来、部活後に一人で帰ったことは、今までなかった。いつも蘭太と一緒だったから。
自分の席に座って、何をするでもなく、ただぼーっとしていた。
ふと時計を見ると、もう夜に差しかかる時間だった。
そこまで時間が過ぎているとは思わなくて、思わず時を超えてしまったんじゃないか、と疑ったほどだ。けれど確かに、外からは部活帰りの生徒たちの声すら聞こえなくなっていて、学校に静寂が訪れている。
もう外は真っ暗だ。先輩たちの卒業式は目前に迫っているのに、春はまだ遠い。
ポケットからそっとケータイを取り出す。音沙汰なし。
もうさすがに帰ろうかな、と思った時、教室の扉が突然ガラリと開いて、おれは飛び上がった。先生かと思って、咄嗟にケータイを隠す。ある程度黙認されてはいるが、学校の規定では一応、ケータイの持ち込みは禁止になっている。
教室に入って来たのは、先生ではなく、同じクラスの葉澤凛華だった。
ただでさえびっくりしているおれは、彼女の姿を見て、更に心臓を高鳴らせた。
彼女は学校でも有名な、才色兼備のスーパーガールだ。
学業は常にトップ。トップクラスじゃなくて、「トップ」。それは学校内に限らず、全国模試の結果でも、だ。
運動だってどの種目もそつなくこなし、常に一番。
部活でも、春からおれと同じ、新部長になる。部員5人の、同好会レベルの合気道部と違って、彼女がまとめるのは、部員40人を超える人気弓道部だけれど。
おれにもそれなりにプライドはある。自分より成績のいい奴を羨んだり、悔しく思ったりもする。
けれど、彼女はなんだか別枠だ。一年の頃から同じクラスだったが、彼女に嫉妬したことは一度もない。
「トップ」に彼女がいることが、妙にしっくりくるのだ。やっかんだり妬んだりするのがバカらしくなるほどに。「おれとは世界が違う」と、素直に思える。
見た目に関してもそう。彼女は紛うことなき正統派美少女だ。それも、一度見たら一生忘れられなさそうな、浮世離れした美しさ。
全体的に色素が薄い。薄いというより、淡い。砂色の長くて細い髪に、アイスブルーの神秘的な瞳。その完璧な顔立ちは、おれが幼い頃から何度も何度も読み返した、お気に入りのファンタジー小説の挿絵に出てくる、異世界の美しい女神さまによく似ている。
だからおれは、彼女をよく空想のネタにする。
合気道場と弓道場が近いから、弓を引く彼女を何度か見たことがあるけれど、その度におれは空想が止まらなくなった。その神々しい姿はまさしく、魔物と戦う聖女さまだったからだ。
絶対に日本人以外の血が入っているとは思うけど、彼女の家族関係や私生活は謎に包まれている。
誰とでも仲良さそうにしているけれど、いつも一緒の親友、というのはいないようだ。広く浅く、という感じの交友関係。
彼女の美しすぎる容姿と完璧すぎる能力を考えたら、普通の女子は近づきがたいのかもしれない。
それでも、彼女の美貌を妬んで意地悪をする女子も、陰口を言う女子も見たことがない。きっと、やっぱり、バカらしいのだろう。彼女が別次元すぎて。
そんな葉澤凜華の方も、教室に残っているおれを見て、少しだけ目を見開いた。
それも一瞬のことで、すぐにいつもと同じ、人形のような顔に戻る。どんな顔をしても涼しげに見える葉澤は、無表情とはいかないまでも、少し表情が乏しい気がする。
おれの斜め前が葉澤の席だ。彼女は無言のまま自分の席まで歩き、さっさと中から書類を取り出して、バッグに入れる。
そのまま去っていくだろうと思ってぼんやり眺めていたら、目が冴えるようなアイスブルーの瞳が、突然こちらを向いた。
「……お疲れさま」
話しかけられてびっくりした。
二年間同じクラスだったからといって、特に会話をしたこともない。まあ、沈黙が気まずかったから一応挨拶しただけだろうけど。そもそも、二人きりになることも、今までなかった。
「おつ、お疲れさま……」
慌てて挨拶を返したら噛んでしまった。ちくしょう、かっこ悪い。
驚くべきことに、葉澤は挨拶だけでなく、おれに向き直って、話を振ってきた。
「珍しい。君がこんな時間まで、学校に残っているなんて」
「え、そ、そうか? 部活がある時はこれくらいの時間まで……」
言いかけて、思い直す。いつも部活が終わってすぐ蘭太と帰ってしまうので、生徒が帰ってしまったあとの、こんなに静かな校舎を、おれは知らない。
「……いや、確かに。いつもは部活あっても、終わったらさっさと蘭太と帰っちまってたからな……」
「……穂坂のことは、心配ね。せめて、無事でありますように」
おれは更に驚いた。葉澤のその言い方が、声音が、さっきの麗美みたいだったからだ。
純度の高い心配。透き通る祈り。
おれは思わず聞いていた。
「葉澤、蘭太と仲良かったっけ?」
「いや? 話したこともない。何故?」
「……いや。なんか、面白がるわけでもなく、純粋に心配してくれてるみたいだったから」
「面白がる?」
「いや、なんか……ホラ、蘭太の奴、部屋の電気はついたままだし、トイレにはズボンとパンツ脱ぎ捨てたまま、本人だけが忽然と消えちまってるだろ? なんか、不思議っていうか、ミステリーっていうか……」
葉澤の「だから何?」と言いたげな、冷たい色の瞳を見て、おれはついしどろもどろになってしまう。彼女がハキハキしすぎているのが悪いんだ。
「……だから、蘭太の失踪を、そういう『非日常』のネタとして面白がってる生徒、多いよなあ、って、不満に思ってたから……。そりゃあ、他人事だから仕方ないけどさ。おれだって、いなくなったのが蘭太じゃなかったら、『なにこれ、ファンタジーじゃね?』って、空想のネタにしてただろうし。だから、他人事なはずの葉澤が、そこまで純粋な気持ちであいつを心配してくれるのは、なんかとっても珍しいっていうか、貴重なことだなあ、って。ありがとう。なんか変なこと言ってる自覚はあるんだけど、とりあえず礼を言っとくよ」
途中から上手くまとまらなくなって、苦笑いでごまかした。
葉澤は笑わなかった。まっすぐ、真剣な顔をして、おれを見据える。
「……君と穂坂は、親友なんでしょう?」
「え? ああ、もちろん」
「親友が突然いなくなる不安や焦燥は、分かっているつもり。……だから」
彼女の瞳が煌めく。冷たい色だけど、熱い瞳だ、と思った。
「私が心配しているのは、どちらかというと、君の方」
鈴の音を鳴らしているような、小さくても凛と響く葉澤の声。
あ、泣きそう、と思った。
初めて会話らしい会話をした葉澤に、まさかこんなに慰められるなんて。
ありがとう、と伝えたいけれど、今言うと確実に震えた声になりそうで、沈黙がおれたちの間に漂う。
次に空気を揺らしたのは、おれの声でも葉澤の声でもなかった。おれのポケットから断続的に響く、マナーモードの振動音。
着信だ。
反射的にポケットからケータイを取り出したおれは、着信画面を見て固まった。
《着信 蘭太》
「蘭太!?」
画面を見て出した大声に、葉澤がびっくりして肩を竦める。
震えるケータイを握りしめながら、葉澤と目を合わせる。彼女は無言で近づいておれの隣に立ち、緊迫した顔で、促すように一度頷いてみせた。それを合図に、おれは着信の「応答」ボタンを押す。
「もしもし!」
勢いよく電話に出ると、ざわざわとしたノイズが耳に飛び込んできた。しかしすぐあとに、聞き慣れた、バカっぽい、元気のいい声がする。
《おおお、ミツロー? よかったぁ! ほんとにつながった!》
蘭太だ。
その声を聞いた瞬間、身体の力が抜けて、机にゆるゆると腰かけた。
「お、おま、おまえ……無事か……?」
身体同様、声まで力の抜けたものになってしまう。それに対し、蘭太はいつも通りのしっかりした声で返事をする。
《あー、無事って言えるのかどうか微妙だけど……一応、生きてっぞ》
「怪我とかは? どこか痛いところは? 何か変なことされてないよな? ちゃんと食べてたのか? 腹は減ってないか?」
《お、落ち着けって。おまえ、オレの母親かよ》
電話の向こうで、呆れたように笑う蘭太の声。
蘭太だ。本当に、蘭太だ。
本当に無事なんだ、と、そこで理解が追いついて、その瞬間、おれは勢いを取り戻した。言いたいことは山ほどある。聞きたいことも。
「蘭太、おまえ、どこで何してやがった!? どんだけ心配したと思ってんだ! おまえのお母さんにも、どんだけ心配かけてると思ってんだ! っていうか今どこにいる!?」
《おわわ、ちょ、悪かったって。こっちにも事情があるんだよ》
いきなりのおれの怒鳴り声に、蘭太が慌てて弁解する。
《この電話も、何回も挑戦して今やっと繋がったんだし、ちょっとこっちで落ち着くまで時間がかかったんだってば》
「こっち? おまえ今どこにいるんだよ?」
《えーと、まあ、その……。ミツロー、頼むから、落ち着いて聞いてくれよ》
「だからなんだよ?」
少し気まずそうに間を置く蘭太。蘭太が黙ると、また背後のノイズが聞こえてくる。
たくさんの人の声が混じる雑音。これは……どこかの町の喧噪?
そんなノイズを背にして、言いにくそうに、歯切れ悪く、蘭太が告げる。
《オレ、今、おまえの言うところの、異世界にいる……っぽい》
な ん だ と?
「は、はああああああああああ!? 異世界!?」
おれの渾身の叫びに被って、電話の向こうでも、咆哮が聞こえた。
おれの叫びとは比べものにならないような、背筋の凍る、この世のものとは思えない、恐ろしい雄叫び。
おれは思わず、ケータイを耳から遠ざけた。なんだ、今の。
今の咆哮について聞こうとしたが、それは蘭太に遮られてしまった。
《げっ、やば! 大物来ちゃった!》
大物? なんだ? モンスターか? ドラゴンか!?
少し遠いところから、緊迫した女の声がした。足音からして、蘭太の近くに走ってきたようだ。
《ランタさま! 来ました! こっちに気づいています!》
ラ、ランタさま、だと!?
誰だこの女? 何故敬語なんだ? 来ました、って、何が! 気づいてるって、何が!?
混乱しているおれを置いてけぼりにして、蘭太はごく自然に女に応える。
《多分さっきの奴らの親玉だろ! クッソ、せっかくケータイつながったってのに!》
心底悔しそうに振り絞った蘭太の声は、もう一度発せられた「何か」の雄叫びにほとんど掻き消された。
「お、おい、蘭太!? なんだ? 何が起きてるんだ!?」
《ミツロー、悪い! ちょっとどでかい敵が現れちまった! 一旦切るぞ、次いつ電話つながるか分かんねえけど!》
「ちょ、ま、待てよ蘭太!」
おまえ、トイレでどでかい肛門の敵と戦ってたんじゃねえのかよ! なんで異世界で本物のどでかい敵と戦ってんだよ!
《絶対また連絡する。待っててくれ》
最後に強い口調でそれだけ言われて、一方的に通話が終了した。
プー、プー、と繰り返すケータイを耳に当てたまま、おれは固まっている葉澤に、ぼんやりと目をやる。
頭の中はごちゃごちゃだ。わけ分からん。意味不明だ。
けれどとりあえず、おれは一つだけ、理解した。
久岡露三、17歳。異世界に憧れる空想好きの高校二年生。
そんなおれではなく、何故か親友の方が、どうやら異世界に飛ばされた模様、です。