レベル1
下駄箱を出た途端、おれと蘭太は同時に驚きの声を漏らした。
「うっわ……」
「すっげえ霧! なんだこれ、前が見えねえ!」
部活の終わりの挨拶をした時、顧問の先生に「外は珍しく霧が出ているそうなので、みなさん気をつけて帰るように」と言われてはいたが、まさかここまで濃い霧だとは。「白い闇」とはよく言ったものだ。
目の前の道は、この高校に通った2年間で嫌と言うほど見慣れた光景のはずなのに、白くぼやけているだけで、まるで異国の風景のようだ。街灯や車道を行き交う車のライトの光さえ、神秘的に映る。
……いいな。まるで、不思議な何かが起こりそうな光景。
「ここまで濃い霧に覆われてると、普通の通学路がまるで異世界みたいだな。……このまま、この霧が晴れた頃には、異世界に飛ばされていたりしないだろうか」
「ハイハイ。まーた始まったよ。ミツローの空想癖」
「そして、霧の中から突如現れたモンスターに追われて逃げていたおれは、異種族の美少女に助けられて……」
「ハイハイ。頭ん中で思う存分勇者ごっこしてろ」
呆れたように肩を竦めて、慣れた自然さでおれの言葉を軽くあしらう蘭太。
なんだよ、つれない奴だな。こんなイレギュラーで神秘的な景色を前に、空想が発動しない方がおれらしくないだろうが。
自分で言うのもなんだけど、おれは成績優秀で真面目な優等生だ。趣味は読書と絵と空想。
対して蘭太は、バカでアホで見た目もチャラいが、妙に現実的な思考の持ち主だ。
国内有数の超難関有名大学の博士課程に進んだ長男と、去年の春からその大学に通っている次男。そんな彼らを兄に持ちながら、兄たちが卒業したのと同じ進学校に通い、学年考査でも全国模試でも上位をキープし、当然のごとく兄たちと同じ大学を目指すことになっている、春に受験生となる三男のおれ。
おれと同じ、結構高いレベルの進学校に入れたのだから、根っから勉強ができないわけではないはずだけど、入学以来ブレることなく、見事に中間の成績を貫いている一人っ子の蘭太。
制服もきっちり規定通りのおれと、先生からの指導がギリギリ入らないくらいに着崩している蘭太は、見た目からして真逆で、性格だって生活習慣だって家庭事情だってほとんど対極なのだ。
学力レベル別に分けられているので、一緒のクラスになったこともない。普通に考えれば、接点なんてまずなかったであろうおれたち二人。
なんでそんな二人が、ほぼ毎日一緒に帰るようになったのか。
理由は単純。入った部活が一緒だったのだ。
入学式の午後にあった新入生歓迎会で、おれは合気道部の催しものに惹かれて、入部を決めた。
ストーリー形式の演技で、アフロのかつらを被った女の子が、不良に扮した他の部員をばったばったと倒していく、というものだ。とても笑えたし、変わった格好をした女の子が自分より大きい部員を豪快に投げ飛ばすさまが、とてもかっこよかったのだ。
練習もそこまで厳しそうではなく、活動も週3日、朝練はなし、と楽そうだった。ただし、活動日が月曜、水曜、土曜で、半日授業の土曜日は昼から夕方までみっちり稽古、という、ゆるいのか気合入ってるのかよく分からない活動内容ではあったが。
入ってみると、男子の新入部員はおれと蘭太しかいなかった。
全体で見ても、部員12人中、9人が女子。おれたち以外の男子は先輩だった。おれたちが仲良くなったのは、部活内で他に気軽につるむ男子がいなかった、というのも大きいだろう。
それでも、ここまで気の許せる親友になったのは、蘭太の人となりによるところが大きいと思う。
もし「友達の名前を一人だけ挙げて」と言われたとしたら、おれは迷わず蘭太の名前を言うだろうし、蘭太もおれの名前を挙げてくれたらいいな、と思う。それくらいに、おれは蘭太のことを好いている。
今じゃ部活でも、頼れる副部長だ。部長はおれ。ちなみに、部長としての最初の仕事は、引退した先輩たちの送別会だ。
学校の正門を抜け、駅までの一本道を、いつもよりゆっくりと歩く。
横を通り過ぎる車も、心なしか、白濁した世界をこわごわと進んでいるように見える。のそのそと這う、警戒心の強いモンスターみたいだ。
「……なんか、車のライトが魔物の目に見えてきた」
「目ぇ大丈夫か? ちゃんと見ろ。車のライトは車のライトだぞ」
おれたちの特徴だけを聞いたら、おれがツッコミ役で蘭太がボケ役、と思われることが多いのだが、実際はそうでもない。いつも脳内ふわふわ空想世界のおれに、蘭太はいつだって、容赦ない的確なツッコミを入れてくれる。
その度に、おれは現実に引き戻されるわけだが。
「蘭太って、なんでそう夢がないんだよ」
慣れていることとはいえ、ついつい恨みがましい声になってしまう。
「しっかり現実を見てるって言えよ」
蘭太は涼しげに肩を竦めてみせる。その飄々とした態度が、時々すごく憎たらしい。
「……蘭太はさあ、現実なんかぜーんぶ捨てて、まっさらな世界に行けたらなあ、とか思うことないの?」
「んー、そりゃあ嫌なことあったり気が滅入ったりした時は『全部リセットしてえ』って思うことはあるけど。それでも、お前みたいに異世界に憧れたりはしないかなー、非現実的だし」
「分からないじゃんか! 可能性はゼロじゃないんだぞ! てか、蘭太でも気が滅入ったりすることあるんだな。その性格で」
「おい、何気に失礼だな。あと、オレその言葉嫌い。可能性はゼロじゃない、って、それでも限りになくゼロに近かったら、オレにとってその可能性はゼロなんだよ」
「なんだよ、それ」
それを言うなら、おれは「非現実的」って言葉が大嫌いだ。
ヒゲンジツテキ。
そもそも、ゲンジツってなんだ? 目に見える範囲内? 手で触れる範囲内?
「ゲンジツ」について考える時、おれはいつも、それを途方もないものに感じる。それこそ「現実的」じゃないくらい、「ゲンジツ」は絶望的に、途方もなく、せまっこしいのだ。
「オレたちの時間は有限なんだぜ。小数点以下のことなんて考えてられるかっての。0.000001パーセントの可能性なんか、もうつまりゼロってことだろ」
そうなんだろうか。
人間の舌では感じとれないほど薄められた塩水は、もうただの水なんだろうか。
週末だからか、電車は混んでいた。
これからどこに飲みに行こうかと、賑やかに話している大学生の集団。器用に立ちながらうつらうつらしている、疲れた顔した中年のサラリーマンたち。
浮かれた土曜日の終わりの時間にこういう光景を目にすると、おれはいつも、どうしようもなく「ちぐはぐ」であるように思えてしまう。世の中のこと全部。
車両の中から逃れたくて、流れる外の景色を眺めた。もう夜が始まろうとしている。
家の最寄り駅の改札で、蘭太と別れた。驚くべきことに、蘭太とおれは、中学校こそ別だったが、家はそう遠くなかった。中学時代の蘭太と面識はなかったけれど。
帰り道でした蘭太との会話を思い出す。
限りなくゼロに近かったら、それはもうゼロと一緒、か。
灯りだした町のネオンをぼんやりと見送りながら、おれはふと考える。
物事の可能性を小数点切り捨てで考える蘭太。じゃあ、おれにとっては、小数点第何位までが「夢のある」数字なんだろう?
蘭太が失踪した。
気怠い週末明け、学校中がその話題で持ちきりだった。
濃霧の中をはしゃいで帰った土曜日、おれは家に着いてから、部活の3年生の送別会について蘭太と話し合うのを忘れていたことに気づいた。
帰り道で相談して決めようと思っていたのに、霧があんまり濃かったから、その光景に夢中になりすぎて、肝心なことが頭から抜け落ちてしまったのだ。
だが現代には文明の利器がある。たとえどんなに離れていても、おれは蘭太と連絡をとることができる。ありがとう、スティーブ・ジョブスさん。あなたは偉大だ。
心の中で偉人に感謝の意を述べながら、スマートフォンで蘭太にメールを送った。
〈先輩の送別会について話し合うの忘れてた(笑)通話できる時間メールして!〉
返事はすぐに返ってきた。
〈オレもミツローに話したいことあったのに忘れてた! でも今大きい方の用事でトイレいるからちょっと待って〉
〈なんでトイレにまでケータイ持ち込んでんだよ(笑)むしろ今通話するんでもよくね?〉
〈力んでるオレの吐息を聞きながら会話したいっつーマニアックな趣味をお前が持ってんならそれでもいいけど〉
〈遠慮しとくわ。早く出すもん出して手洗っておれに連絡せよ〉
〈気長に待っといて。オレの肛門が長期戦になりそうな構えを見せてっからw〉
〈長期戦wwどんな構えwww〉
〈どでかい敵が姿を現しそうなんだよ! 言っとくけどオレ本気モードだから。ズボンもパンツもトイレ入る前に捨てて来てっから〉
〈どんな気合の入れ方だよそれwおまえ、もうメールしてないで戦いに集中しろw〉
〈分かった。トイレの電気消した。暗闇の中でオレは戦う〉
〈だからどんな集中の仕方だよ、それ! ちょっとかっこいいと思っちまったじゃねえかw〉
〈目を閉ざせば、心でしか見えないものが見えてくる。そして次に目を開けた時、そこはおれの、まったく知らない世界だった――。とか、なんかこんなん好きだろ、おまえw〉
〈好きで悪かったなwもうおれ、先に風呂入っとくぞ! そのあとは基本ずっとケータイ傍に置いとくから、メールなり電話なりよろしく〉
〈うぃっす〉
蘭太とそんなくだらないやりとりをしたのが午後7時20分頃。おれはそのあと20分くらいで風呂から上がり、すぐにケータイを確認したが、蘭太からはなんの連絡も来ていなかった。
それから夕飯を食べ、自室で勉強をしながら連絡を待ったが、まったく音沙汰なし。
夜の10時になった頃、いくらなんでも遅すぎると思って、ケータイを手にとった。
〈おい、生きてっか? どんだけ長い戦いをしてんだよ! 笑〉
ふざけたノリで送ったメールには、深夜になっても、朝になっても、返事はなかった。
もちろんおれは訝しみながらも、なんらかの事情で電話もメールもできなかったんだろう、と推測した。
次の日の日曜日になっても連絡がとれなかった。
電話をかけてもつながらないので、少し心配した。しかしそれでも、「あいつ、もしかして便器の中にケータイ落としちゃったんじゃないか?」と思い直し、月曜日の部活の時に直接話をすることにした。
仕方がないので、送別会のことはある程度おれ一人で決めて、あとは蘭太に確認をとるだけにしておく。
それがどうだ。
部活の時間を待つまでもなく、朝のホームルームで「G組の穂坂蘭太くんの行方が、土曜日の夜から分からなくなっている」と担任教師に告げられたのだ。「警察には、今朝、穂坂くんの母親が捜索願を出した」ということも。
ホームルームが終わったあと、担任は、呆然とするおれを、騒然とする教室から、職員室に連れ出した。どうやらおれが、「蘭太を最後に見たであろう人物」だから、聞きたいことがあるんだそうだ。
「久岡くん、土曜日の部活のあと、穂坂くんと一緒に帰ったんだよね? どこまで一緒だったの?」
おれと蘭太が一緒に帰ったことは、部活の顧問の先生から聞いたんだろう。職員室は、いつもよりか少しだけ、慌ただしい雰囲気だ。蘭太の事件があったからだろうか。
「家の最寄り駅までです。そこからは、おれは徒歩で、蘭太……穂坂はバスなので……」
「そっかぁ……。確かに、帰宅していた痕跡はあるらしいんだよね。そのあと何か連絡とったりしてなかった?」
「……あの、おれ、土曜日、家に着いたあと、夜にあいつ……穂坂とメールのやりとりをしたんですけど……」
「え、本当か! 何時頃?」
「7時半、くらいだと、思います。穂坂、トイレにいて、トイレから出てきたら、おれにメールか電話をしてくれる約束を、メールでしたんです」
話しながら、もしかしてちゃんとした日本語になっていないかもしれない、と思った。おれは、おれが思っている以上に、動揺していた。
「それから連絡は?」
「とれてないです。その日の夜中にもう一回メールしたんですけど、返事来なくて……。電話もつながらないんです」
「そっかぁ……」
担任が言うには、母親が仕事から帰って来た時には、蘭太の姿は家になかったそうだ。
けれど蘭太の部屋の電気はついていて、電気のついていないトイレの前には、何故か蘭太の部屋着のズボンとパンツだけが無造作に置かれていた、らしい。
蘭太は母子家庭だ。彼の母親は、いつも夜遅くまで仕事をしている。日曜日くらいしか家にいない、と言っていたから、その日も母親が帰って来たのは深夜だったのだろう。
職員室から出て、まっすぐ男子トイレに向かった。個室に入る。
ポケットに隠し持っていたケータイを取り出す。
新着メールの表示にドキッとした。フォルダを開けたら迷惑メールだった。クソッ。ドキッとして損した。
蘭太と最後にしたメールのやりとりを読み返す。
さっきの担任から聞いた話と照らし合わせると、明らかに、トイレの中で、蘭太の身に何かが起こったんだ。気合を入れるために脱いだズボンとパンツも、集中するために消したトイレの電気もそのままに、どこかに消えてしまったんだ。
まさか、神隠し?
一瞬浮かんだその考えを、頭をぶんぶん振って追い払う。大事な親友が危険な目に遭っているかもしれないのに、空想なんかしてる場合じゃないだろ、おれ!
そうだ。もしかしたら、何かの事件に巻き込まれているのかもしれない。強盗? 誘拐?
家に帰ってから、あいつはちゃんと戸締りをしてたんだろうか? 誰かが侵入して、トイレに入っていた蘭太を連れ去った?
考えれば考えるほど、どれも小説の中の設定のように思えてきて、何が「現実的」でどれが「非現実的」な憶測なのか分からなくなってきた。とりあえず、とても、不安だ。
蘭太の番号に電話をかける。
駅で別れた時の蘭太を思い出す。何も変わったところなんかなかった。「じゃあまた明日な」と言って、笑って手を振っていた。
蘭太への電話は、コール音すら鳴らなかった。無機質な機械音が、無情に告げる。
おかけになった電話番号は、電波の届かないところにいるか、電源が入っておりません。
おれはケータイを握りしめる。
蘭太。
どこほっつき歩いてやがるんだよ、おまえ。