第2章
雪山の恐さを良く知る人間は、けして無理はしない。例え、山を越えた先に急ぎの用事があっても、道案内と装備は調える。
雪深い山道を馬で走る芸当は、伝播と言う情報屋一部の荒技だ。それだけ、択一した玄人でさえも、命懸けの旅になると言うのに、針と名乗る娘は馬を走らせたのだと白羽から連絡を受けた五月は、呆れて言葉も出なかった。
いくら北国育ちで寒さに強く、山歩きも慣れているとは言え、寒いものは寒い。苛立ち紛れに雪を踏みしめて、小さくくしゃみをする。
その五月の隣を何時ものように着いてくる銀矢は、簑の紐を結び直して白い光景を眺めていた。
白銀の世界に、オレンジ色の日差しが差し込み、枯れ枝に咲いた雪の花を輝かせる。冷たく透き通った空気が、二人を撫でた。
二人は特に会話もせず、山道を探して突き進む。隣町へ馬が向かった形跡は、幸か不幸か蹄の痕で判別できた。しかし、人と馬との移動速度では、追いつく事はまず不可能である。
ひとり無謀な旅に出掛けた少女よりも、行方不明の薬屋を探した方が早い。
仕事が長引けば長引くほど、五月と銀矢の二人にも危険は迫るのだ。
「ねえ。生きてると思う? その薬屋」
諦めきった呟きが白い吐息に消えた。
悴んだてを開け閉めして感触を取り戻すのに必死の銀矢は、問われて初めて、その表情を歪ませた。
「死んでるだろ」
「このまま帰りたい」
「辞めておけ、後が煩い」
思うところを吐き出して、どちらともなく首を左右に動かした。
「真っ白ね」
「雪に埋もれてたら見つからないな、死体」
物騒な会話を淡々とやりとりしながら、歩み続ける。
五月が地図を広げ、場所を確認する。
目印の看板は、雪で覆われていた。
このまま進めば、夕方には山を降りる事ができる。
馬の足跡は点々と残るっているというのに、人の足跡はまるで見あたらない。
「崖から落ちたか、拉致されたか。道に迷ったと言う線もありね」
五月が困惑するように、分かれ道で立ち止まりぼやく。
蹄の痕は先に続く、立ち止まっていても何も無い。
馬が選んだ道を選んで、歩くこと寸時。
五月はある異変に気付く。馬の蹄はひとつでは無いと、銀矢を見据えて言い放つと、再度、道を確認し、周りに視線を走らせて、肩を竦めた。
「熱くなりそうね」
断言し、帯に挟んだ短刀を抜き払う。
白い世界に緊張が走り、一瞬の沈黙が落ちる。
枯れ木の間から、数匹の犬を連れた青葉党三下が、五月と銀矢を狙っていた。
五月も銀矢も白夜党では名の知れた、忍者である。
普段の仕事は、日ノ元四大砦に巣喰う孤児の保護であるが、生活の足しとして小さな事件の請負も担当しているのである。それもあって、青葉党、円石党等にはいろいろと、恨まれている伏がある。
こうやって、狙われるのも日常茶飯事ではあるが、まさか寒空の下まで姿を現すとは、まったく考えていなかった。いや、それよりも、情報が流出していたという事実の方が、五月と銀矢を困惑させたのは間違い無かった。 意表を突かれた顔を、犬の眼差しが見つめている。
人間七人、犬五匹と、手ごわい敵を眼前に置いていつでも動けるように、体を移動させた。
無言の指揮官が犬に命令を下す。
紅い舌を出した黒い固まりが、五月と丸腰の銀矢に襲い掛かる。 五月は早速、短刀で犬の腹を捌く。
犬から飛び散る鮮血が、五月と白い絨毯に染み込んだ。
銀矢は素手で犬を弾き飛ばして、構え直す。犬の爪で引っかかれた袖が、赤く滲んだ。
刺客達は五月と銀矢の出方を探りながら刃を抜いた。
刀が太陽光に反射する。 数打ちと呼ぶ抜刀用の生倉刀が、空を斬る。
偶に、短刀と混じり合い金属音が反響する。
生死を分けた闘いは、大陸の至ところにある。戦の無我夢中同様、他党の忍びを削る事は、出世するにも役に立つ。
狙う三下も後が無く、ただ、名を上げたいだけなのだろう。
生きることに必死の世界で、戦うことしか知らずに生活を送って来た、哀れな人間達は、己の為に人を殺す。殺しながら、その口で平和と平等を訴えるのだから、ある意味滑稽なのかもしれない。 眼前の敵を交わしながら、流行の文学にある皮肉な描写を思いだし、五月は、含み笑いを噛み締めた。
雪道を走り回り、どれくらい時を要したのだろう。犬の死骸を一瞥した五月の耳に、歓声が聞こえた。
「銀っ」
まさかと思い振り向く先で、連れの体が谷底へと消えていく。
川の流れが五月の処まで聞こえて来る程、水の調べは残酷だった。
青葉党三下のひとりが、五月を向いた。
銀矢の消えた場所に近づく事もできずに、歯噛みして五月は後へと退く。 人をひとり蹴落とした人間に無意味な自信がついてくる。ましてやそれが、生死を分けた闘いなら、勝ち得た人間の勢いは、一瞬にせよ刹那にせよ、圧倒するものがある。
冷気に晒された、五月の丸眼鏡のレンズが日差しに透き通る。
罵りを上げて、迫り来る厄介な青葉三下を睨み付け、短刀を構え直す。
生きている間に幾つ友や仲間の死を見届けるのか、五月にもわかっていない。 弱気な心に鞭打って、五月は雪を蹴り付けた。
勿論、戦うためにではなく、生き延びる為に。
女を言い訳にはしないが、歩が悪すぎる。身を翻し逃げ出した五月を、三下達は追いかけ回した。
形振り構わず逃げ纏う五月を、誰かが器用に受け止める。
予告無しの登場に呆れた面もちで顔を上げた。
頬に刀傷を持つ、浪人風の青年が、何時もの飄々とした笑みを五月に向けた。
「元気だな、五月は」
「シナ。後、任せて良い? 」
シナと愛称で呼ばれた青年は、元武士の美作信濃と言う。
「殺しはしないぞ」
「叩き伏せるだけで充分よ」
「承知した」 端的な会話をした後、五月を後ろに押しやり、信濃は三下数人と向き合った。
「こいつは、すげえや。元花魁と駆け落ちした元武士様じゃねえか」
三下のひとりが、信濃を冷やかすように言い放つ。
「サナダ虫は川に落ちたからな、こいつはどう駆除してくれよう」
下品な笑いを上げて、信濃と五月に陶酔した眼差しを向ける。
「だから、お主等何時までも上に上がれないでござるよ」
信濃は、穏やかに言葉を返した。
「うるせえ。裏切り者が。三途の川で頭でも冷やしやがれ」
頭に血が登ったか、三下は連携で攻撃を仕掛けてきた。
雪で足場が悪く、人数としても押され気味の信濃だったが、太刀を交わして刀を抜くと、息つく間もなく、三下の手首に、峰打ちを食らわせた。
骨が砕けるような音の後、刀が収まる冷酷な響きが落ちる。
次の瞬間、きょとんとしていた三下が刀を取り落とし、利き腕を押さえて、喚きだした。
「人を斬るのは慣れていない。腕が治ったら、また来れば良いだけの話。命惜しければ、去ね(イネ)」
刀を鞘に収め、睨む信濃に、三下も負けず劣らずの睨みを利かせ、捨て台詞もそこそこに、走り去る。
信濃は敢えて追わずに、小さく息を抜いた。
「てか、あんた、今までどこ行ってたのよ。馬鹿っ」
三下が居なくなるや否や、信濃の頭を叩き罵倒する。
「この、方向音痴。銀のアホが崖から落ちたじゃない」
「それと、私の方向音痴とどう繋がりがあるので御座るか」
「銀が死んでたらあんたのせいだから」
「五月、落ち着け。銀の奴は、落ちるのは得意故心配することはないと思うで御座る」
五月の肩を押さえて、宥めようとすると、五月は顔を真っ赤にして言い放つ。
「冬の水にいきなり飛び込んで、馬鹿かあの子は」
「私に言われても困る。兎に角、東に銀を探させる故」
信濃は、首に掛けていた笛を吹いた。 笛の音につられて一羽の鷹が現れる。連絡用に躾られた、忍び鳥とでも言うのだろうか。犬程の確実性は無いが、人捜しにもそこそこ役に立つ。
銀矢が飛び降りた場所まで戻り、東を谷底へ向けて飛ばす。
「東は飼い主と違って頭が良いわね」
東を見送りぼやいた五月は、今更のように身を震わせた。動き回っていた時の熱さは当に冷えている。
「どういう意味で御座ろうか」
とぼけた信濃を叩いて立ち上がる。
「山を下りるわ」
信濃の小袖を掴むと、早歩きで山道を下る。
麓までの道すがら、今回の仕事内容を信濃に話して聞かせると、信濃はすっとんきょうな声を上げて、馬に乗った娘の特徴を聞き返した。
「細目で背の高い、十四歳くらいの子よ。着物の色は紫、髪の長さは、あたしより短くて、馬の尻尾みたいに結んでるらしいわ」
引きずられながら、ふむふむと頷いていた信濃だが、五月の説明を聞いて、目を見開く。
「その子なら、青葉に連れて行かれたらしいぞ。何でも、薬屋を助けたとかなんとか」
「くっ、また青葉なの。いい加減にして」
五月は、信濃の言葉に更に足を早めた。
「話に聞いただけだが、鴉主の娘だと言う」
「誰から聞いたのそんな話」
「九十九殿からだ、私もその子を探すように言われていた」
五月は歩みを止めぬまま、顔をしかめた。
情報の流出には疑問が浮かぶ。誰かが振りまかなければ、同じ人間を探すことにはならない筈だ。
(一旦、白羽と会うべきかしら)
話の発端を知る本人に、もう一度状況を確認した方が良いかも知れない。
疑うべき所を念頭に置きながら、冷たい白雪を踏みしめて歩く。
藁編みの長靴は足袋と一緒に雪で濡れていた。
麓の村まで後少しの筈なのに、いくら急いでも前に進んだ気がしない。
信濃を引きずる五月は、崖から落ちた銀矢を気にかけているのである。
長いようで短い山登りを終えた頃、五月と信濃を出迎えたのは、知り合いが運営する小さな茶店と、冬の寒空に浮かんだ、細い月だったと言う。