第3話 『開花までの間奏曲』
2月21日 日曜日
時刻は正午過ぎ。
いつも土曜にこのアパートを訪れる菫は、日曜の昼過ぎ、夕方になる前にはここを出て、実家へと帰るようにしている。
今回は金曜の夕方という、いつもより一日早い訪問ではあったけれど、帰りに関しては普段と同じだった。
今は既に帰り支度を済ませ、どこへ行くともなく、居間で二人、のんびりとした午後を過ごしている。
お互いテーブルに着き、テレビを眺めたり、雑誌や本でも読んだり、宿題や勉強をしたり、たまに口を開いて雑談などをしたりする。
今までの一年の中でも、幾度も見られてきた光景だった。
「……すぅ……すぅ」
テレビではドラマが流れている。
先程まではそれを見ていた菫だったが、しばらくすると、頬杖をついたままうつらうつらと船を漕ぎだし、姿勢が崩れた拍子にはっとなって目を覚ました。
そしてまたドラマを眺めながら、再び微睡みだす。先程から菫はこの動作を繰り返していた。
おそらく、疲れているのだろう。
昨年は毎週足しげく通いつめていた菫だが、ここ一ヶ月近くは全くこちらに来ていない。
昨日話を聞いた所によると、ちょうど一週間前が受験だったらしい。
第一志望の高校ではないとのことだったが、試験も面接もそれなりに上手くいったのだとか。
菫自身がそう言うのだから、俺としては何も心配してはいない。
けれど、試験勉強や受験への準備で忙しかったのだろうことが、この辺りから窺い知れた。
だというのに、そんな疲れた体を引きずってわざわざ兄の世話を焼きに来てくれたのだ。
感謝の念で頭が上がらなかった。
と、菫の受験について思いを馳せていたとき、前々から菫に聞こうと思っていたことを、ふと思い出した。
菫の第一志望の高校は、どこなのだろう?
一週間前の受験の話ですら昨日聞いたことであり、そういった妹の事情について、俺は全く知らなかった。
家族としてこれはどうなのだろうか。
いや、わざわざ週末に来てくれる菫に対して勉強の話を持ち出すのも……、などと気を使って、あえて話に出していなかっただけなのだが、それにしたって妹の進路の話を知らなさ過ぎだ。
もし、遠くの高校へ通うことになって、寮にでも入るということになれば、しばらく会えなくなってしまう。
特別寂しいというわけではないが、やはりそういうことは早めに知っておきたい。
そんな事を考えながら菫を眺めていると、ちょうど微睡みの状態から目覚めた彼女と目が合った。
菫は慌てて服の袖で口元を拭うと、居住まいを正してこちらに向き直る。
「な、何ですか兄さん?」
恥ずかしいところを見られたと思っているのか、頬を赤く染めながらぎこちない笑みを浮かべていた。
そんな動作が可愛らしくて、それが妹ながら、妙に和んでしまう。
「に、兄さん! なに笑ってるんですか!」
自然と笑みが漏れてしまっていたようだ。菫は、今度は少し剥れた表情をしていた。
「何でもないよ。それより、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「むぅ……いいでしょう、何が聞きたいんです?」
「志望校のことだよ。一週間前のやつは第一志望じゃなかったんだろ? 本命はどこなんだろうと思って」
「第一志望ですか……。私が受験しようと思っている高校は……」
「高校は?」
「…………」
「…………」
まるで、今から言うことが余程重要なことだとでも言わんばかりに、菫は妙な緊張感を孕んだ間を置いた。
そんな菫の雰囲気に、こちらも嫌に緊張させられる。
「高校の……名前は……」
「…………名前は?」
ごくり、と思わず喉が鳴った。
そして、緊張が最高潮に達した瞬間、菫は口を開き――――
「――――秘密です」
「…………へ?」
「だから、秘密です」
「ひ、秘密って……。俺はまた、めちゃくちゃレベルの高い高校でも受けるのかと思ったよ」
「ふふ、ごめんなさい兄さん。兄さんをびっくりさせたいから、今はまだ教えません」
「てことは、やっぱり陽日冠高校辺り?」
「さあ、どうでしょう」
菫は楽しそうに俺の問い掛けをかわす。
陽日冠高校と言えば、県内でも有数の進学校だ。
菫ぐらい頭が良いのであれば、これぐらいの学校は受けても申し分ないと思うのだけど、菫の反応を見る限りそうでもないようだ。
俺が聞いて驚くような高校とは、他にどこがあるだろう? いまいち思い当たらない。
……でもまあ、この話はここまででいいか。
菫なら、どこの高校だろうとちゃんと合格を決めてくれるだろう。何せ不出来な兄と違い、菫は良く出来た妹なのだから。
その時になって、存分に驚いてやればいい。
「質問は以上ですか?」
「うん。期待して待ってるよ」
「ふふ、期待して待ってて下さい」
それきり、居間はいつもの休日の風景へと戻っていった。
「それでは、私は帰りますけど、くれぐれもだらけた生活ばかり送らないで下さいね」
「……なるべく頑張るようにするよ」
16時頃になると、菫は既にまとめていた荷物を手に、実家へと帰っていった。
突然の来訪には驚いたが、久しぶりに菫と過ごした休日は、非常に心地よいものだった。
何故かは分からないが、多少角が取れていて、それは、実家で一緒に暮らしていた頃の菫を彷彿とさせた。
怒りさえしなければ、菫は基本優しい奴なのだ。
おいしい料理を食べることも出来たし、一人でだらだらと過ごす休日よりは大分ましだっただろう。
次に菫がここを訪れるのがいつになるかは分からないが、その時には少しでも心配を掛けさせないようにしよう。
既に受験は終わっているかもしれないが、ちょっとは菫の負担を減らして、安心させてやりたい。
その為にも――――
「まずは、まとも料理を作れるようになろう……」
本ばかりにお金を費やしてはいられなくなるのが心苦しいが、こればかりは仕方が無い。
……そうだ、たまには料理の本を読んでみるのもいいかもしれない。
だらしない性格の俺にどこまで出来るかは分からないけど、何とか頑張ってみるか。
2月23日 火曜日
すっかり空も暗くなり、既に夜の帳も降り切ってしまったであろう20時頃。
しんと静まり返り、たまにページのめくる音だけが聞こえていた部屋の中に、簡素なチャイムの音が響き渡った。
俺は読んでいた小説に栞を挟み、それを手近な所へ置いて、玄関へ向かった。
ここを訪問する人物はそう多くないが、この時間帯であれば決まってあの人だろう。
玄関を開け、そこに居る人物が想像通りであったことを確認すると、俺はいつものようにその人を迎え入れた。
「こんばんは、啓治さん」
「おう、久しぶり」
スーツの上からベージュ色のコートを着込んだ、整った中性的な顔立ちの、20代の男。
そこに居たのは、俺の従兄である寺内啓治であった。
「悪いな、来るのがこんな久々になっちまって。最近仕事が立て込んでてな。そこいら中走り回ってばっかさ」
「大変そうですね……。何か飲みます?」
「コーヒーを頼む」
「分かりました」
俺は手早くインスタントのコーヒーを用意すると、テーブルについて一息ついていた啓治さんに、カップを差し出した。
「凍えた体にはやっぱこれだな」
熱いであろうコーヒーを、啓治さんは余り間をおかずにすすっていく。外の寒さを考えれば仕方のないことだろう。
そうして半分ほど飲み終えたところで、啓治さんはカップをテーブルに戻し、一呼吸間を置くと口を開いた。
「それで、生活の方はどうだ? 何か問題とかはないか?」
「万事大丈夫ですよ。特に変わりはないです」
「そうか。それならいいんだが」
啓治さんは俺の従兄だ。母親の姉の子供にあたる。
小さい頃から兄貴分のような存在であり、今は県の中心地である香倶市にある警察署、香倶市警に勤めている新人刑事である。
母に頼まれ、親元を離れて暮らしている俺の様子を、時々見に来てくれている。
いつも休日に訪れる菫と違い、啓治さんが来るのは専ら平日で、更には仕事上がりにわざわざ足を運んで来てくれる。
といっても、仕事の方が忙しいらしく、本当に時々でしかないのだけど。
「叔母さんの方からしょっちゅう電話がくるんだよ。葵は元気そうかって」
「あはは……、何だか申し訳ないです」
息子のみならず、従兄にまで電話をしていたとは……。
「まあ別にいいんだけどさ。叔父さんはそうでもないけど、菫ちゃんも叔母さんも大概心配性だよなぁ」
啓治さんは快活に笑いながらそう言う。
確かに、菫ほどじゃないけど、母も心配性な方だと思う。
……まてよ。もしかして、菫のあれは母親譲りということなんだろうか?
もしそうなら、母の過保護っぷりを数倍割増しで遺伝していることになるだろう。
…………なんだか、余り考えたくはない。
「そういや、腹減ったな……。葵、もう飯食ったか?」
「いえ、まだです」
小説を読みふけっていた為、食べるどころか作る準備さえしていない。
菫を心配させまいという意気込みもどこへやらだ…………我ながら、情けない。
「よし、じゃあ食いに行くか」
「なんか、毎度ご馳走させてもらって、ありがとうございます」
「これくらいどうってことねぇよ。どうせ今月も金欠なんだろ? さあ、行こうぜ」
「はい」
啓治さんが来ると、外食へ行く流れが、最近では恒例化していた。
こちらのお財布事情を慮ってくれたり、毎月月末が金欠状態であることを母には黙っていてくれたりと、啓治さんには頭が上がらない。
俺も、これぐらい器の大きく、気の良い人間になってみたいものだ……。
「………………」
叶わぬ願い、だと思うけど。
視界の端に映る紺色の髪を冷めた視線で見つめながら、俺は玄関へと向かった。
暦が3月へと移ってからも、肌を刺すような寒さは依然として収まることを知らず、今の時点ではまだ春の訪れなど微塵も感じることは出来ない。
だけど、そんな気候の中、俺は寒さを堪えながら外へと繰り出した。
向かう場所は校舎裏。
そこには、いつもと同じように彼女が居て、ベンチの半分を占拠した状態で、小さな弁当箱の中身をつついていた。
「やあ」
「…………」
そう一声かけて、ベンチの空いたもう半分のスペースへ腰を掛ける。
彼女……蕗乃の、箸を持つ手の動きが止まる。
蕗乃は流し目でこちらを一瞥すると、涼しげな表情で口を開いた。
「奇特な人ですね、あなたは。わざわざこんなところまで来て…………寒くないのですか?」
「もちろん寒いよ」
現に、弁当箱を取り出す手は寒さで震えている。
でも、
「こんな良い場所、そう無いしさ」
人目に付かない場所だから、という理由だけではない。
蕗乃と食事を供にし始めてから日付はそう経ってはいないが、今では蕗乃がいるから来ているようなものだった。
……もちろん、そんなことはとても口に出しては言えるものじゃないけれど。
「……そうですか」
蕗乃はそれだけ言って、食事を再開した。俺も箸を進める。
その後の昼食は、実に落ち着いた雰囲気で進んだ。
蕗乃は基本自分からは喋らないが、こちらが話を振れば必ず返してくれる。
俺もお喋りな方ではないから、話しかける回数はそう多くはないけれど、そんなポツリポツリと続く会話が、何故か妙に心地の良いものだった。
「そういえば、蕗乃さんの方こそ寒くないの、ここに居て?」
ふと、頭に浮かんだ疑問を蕗乃に問う。
コートの袖からは白雪のように透き通った肌の手がのぞいており、顔の方も、頬が薄紅色に色付いているのを除けば真っ白だ。
元から色白な彼女だが、この寒さの中では、それが妙に気になってしまう。
「別に、平気ですよ。コートのおかげもありますけど、私、元々寒さには強いんです」
「へぇ、それはいいね。俺は暑さにバテることはそうないんだけど、寒いのはちょっと苦手で……」
蕗乃は寒さに強く、俺は暑さに強い。
髪の色が暖色と寒色なのといい、つくづく彼女と俺とでは正反対の事柄が多いみたいだ。
…………? ふと、視線を感じた。
蕗乃が、再び流し目でこちらを見ている。その意味するところをすぐに理解した俺は、慌てて口を開いた。
「あ、でも無理してここに来てるわけじゃ――――」
「分かってますよ」
蕗乃は特に顔色も変えず、元の通りに視線を戻す。
……ちょっと気を遣い過ぎただろうか?
蕗乃はどうなのか知らないが、俺はここに好きで来ているのだ。そこまで気にする必要はないのかもしれない。
そう考えているうちに、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
蕗乃は既に鞄を手に立ち上がっており、俺もすぐさま空の弁当箱を鞄に突っ込む。
同学年である以上戻る場所はほぼ同じなので、最近では一緒に教室近くまで帰るのが専らとなっていた。
人気のなく薄暗い廊下から、すぐに明るく喧騒のある廊下へとシフトする。
そう大きくもない校舎の中で、これほど明暗はっきりと分かれた場所があるというのに、その境界線は曖昧である。
まるで表と裏の世界を行ったり来たりするようであり、かくも奇妙な幽玄の世界というものを感じさせられる。
……これも、蕗乃と一緒だからこそ、感じることのできるものなのだろうか?
2分もかからないうちに、一年の教室が並ぶ廊下まで到着した。
「明後日も、多分来ると思う」
「そうですか」
「うん。それじゃあ」
「ええ」
最後にそう言葉を交わし、俺は教室へと戻った。
「よっ、今日はどうだった?」
授業の準備をしようと机に着いた俺に声を掛けてきたのは、友人である小笠原博人だ。
「どうって、何が?」
「昼飯、例の子と食べてきたんだろ?」
「ああ……。別に、いつもと同じだったけど」
「そうか」
尋ねてきた割には、こちらの返答に対する反応は薄い。
博人は身長こそ俺と同じで並みぐらいだけど、髪は短く、体付きもがっちりとしていて、いかにも爽やかなスポーツマンといった風貌だ。
実際、弓道部に所属しているので、その見かけは間違ってはいない。
いつもはこの博人と昼食を供にしているのだけど、蕗乃と昼食を取って以降は、事情を話し、博人と蕗乃交互に昼を過ごすようになっていた。
こちらの勝手な都合に付き合わせているだけだというのに、博人は文句の一つも言わず、それどころか快く了承してくれた。
博人とは幼少の頃からの付き合いだから、彼が良い人物であることなんてずっと前から分かっていたことではあった。
とはいえ、こうまでしてくれることに疑問が湧かなかったわけではない。
博人にも、何か事情があるのだろうか。
「珍しいよな」
「え、何が?」
「お前がよく知らない誰かと、仲良くなろうとしてることだよ」
「あっ……」
「いや、珍しいどころじゃないな。今まで一回も無かったことじゃないか?」
「確かに、そうかもしれない……」
「そう変な顔するなよ。悪いことではないだろ? ……おっと、もう授業が始まる。それじゃあ、また後でな」
博人の言葉で、一つの疑問が解消し、そしてまた一つの疑問が生まれた。
博人は、家族以外で俺の異質な力のことを知っている、数少ない内の一人だ。
俺が人を避け、目立たないように生きてきたことも、その理由も知っている。
だからこそ、俺が自ら蕗乃と一緒にいようとしたことに驚きながらも、止めはしなかったのだろう。
むしろ、俺の行いを後押ししようとさえしてくれている。
博人はそうまでして俺の助けになろうとしているのだ。
……でも、博人の言葉で、俺は逆に疑問を抱いてしまった。
いや、気付かされてしまった。
なんで、俺は蕗乃と仲良くなろうとしているんだ?
人を避け、目立たぬように生活してきた俺が、彼女と積極的に関わろうとしている理由はなんなのか。
髪の色が普通じゃないことや、生き方が似ている、似た者同士だから?
彼女と初めて会ったときに抱いた感情を思い返す。
俺は蕗乃を他人のように思えず、酷く放っておけなかった。
では、それが答えなのだろうか?
「……………………」
結局、いつの間にか始まっていた授業を放ってまで考えていたけれど、答えが出ることはなかった。
3月19日 金曜日
チャイムの音が鳴るとともに、生徒達の歓喜に満ちた声が学校中を支配した。
今は昼頃だが、もう既に学校は終わっている。今日は終業式だったのだ。
教室の中には、明日からの休みに顔を輝かせている者もいれば、休み中の部活に頭を悩ませている者もいる。
でも、心なしか皆の表情は明るいように見えた。
部活で忙しかろうとも、そうでなくとも、長期休暇に皆何かしらの期待があるのだろう。
俺は、そのどれでもなかった。
部活は元よりやっていないし、かといって休み中にやりたいことがあるわけでもない。
だらだらするのが好きなので、何もないことに越したことはないのだけれど、それで心が躍るかと言われれば、そんなことはないのだ。
「一年が終わるのも早かったな」
既に帰り支度を済ませ、鞄を肩に掛けた博人がそう言った。
「確かに」
「4月になればもう先輩だしな。色々大変そうだ」
「部活?」
「ああ。この後も、昼挟んで練習だし、春休み中も部活で余り休みはなさそうだ」
「大変だね……。俺は、逆に何もすることがなくてさ」
自嘲気味な俺の言葉に、博人は苦笑しながら応える。
「別に、無理に部活やれなんて言わないしさ、お前はお前がやりたいことを見つければいいさ。大勢で取り組まなければいけないことじゃなくても、一人で出来ることだってたくさんある。……そんじゃもう行くわ。暇なときにでも声掛けるから、どっか遊び行こうぜ」
「うん。それじゃあ」
博人は急ぎ足で教室を出ていった。
この高校は全員部活制を取っているから、休み中も学校へ行く生徒は多いだろうけど、特に運動部の生徒は大して休みの無い部活も多いようで、どこも大変そうだった。
……それに比べて俺は、なんと暇の多い春休みであろうか。
やりたいことをと博人は言うけれど、俺の頭にぱっと浮かぶことなんて、本を読むか、だらだらすることぐらいだ。
なにか、将来へ向けての勉強とか、夢のあることに取り組んだ方がいいのかなぁ……。
「榊原君」
「ん?」
博人と別れ、早速帰ろうとしていた折、昇降口で声を掛けられた。
声のした方を向けば、そこに居たのは蕗乃だ。
そういえば……。
蕗乃を見て、俺は先程の終業式のことを思い出した。
『あっ……』
全校生徒が整列を行っている体育館の中。
俺は、蕗乃の姿をその中に見つけた。
『どうした、葵?』
博人が俺の視線を追い、納得したように言う。
『ああ、蕗乃火乃花ね。やっぱり目立つよなぁ、あの髪』
博人の言う通り、蕗乃の赤味がかった黒色の髪は、居並ぶ多くの黒髪の中で大いに目立つ。
それは俺の髪にも言えることではあるが、それにしても、俺は今までそんな髪を持つ女の子……つまりは蕗乃を、こういった多くの生徒が集う場所で目撃した記憶がなかった。
そして、思い知った。
それだけ俺は自分優先で、周りに目を向けていなかったのだと。
「? どうかしましたか?」
「ああ、いや何でもない。蕗乃さんも今帰り?」
「ええ。榊原君も?」
「うん。俺、帰宅部だからさ」
「そうですか」
「…………」
「…………」
……うーん、こういう時は、帰り道にでも誘えばいいのかな?
蕗乃はといえば、妙にそわそわというか、もじもじとしていて、落ち着きがない。
どうしたものか。
「あ、あの……榊原君」
「どうしたの?」
「今日は、あなたに言いたいことがあって……」
「は、はぁ……」
蕗乃は緊張の面持ちだ。一体、俺に言いたいことというのは……。
昇降口で二人、顔を突き合わせる構図で、どれくらいの時間が経過しただろうか。
やがて、ドミノの最後の一つを並べるときぐらいの慎重さでもって、蕗乃は口を開いた。
「榊原君の……髪のことなんですけど」
「俺の髪?」
「ええ……。あなたは、以前私の髪のことを綺麗だと言いましたよね」
もちろん覚えている。俺がしつこいくらいに綺麗だと言った所為で、呆れられたのだ。
でも、これがあったから、今でも彼女と昼食を共にしていられる。
忘れる筈がなかった。
「うん、覚えてるよ。それが?」
「同じです」
「え?」
「だから、同じですよ。貴方の髪だって綺麗です。まるで日没後の澄み切った空の色の様に、貴方の紺色の髪も、綺麗です」
まるで、あの時の俺の様に、蕗乃は早口で捲くし立てた。
言い切った彼女は、まるで返答を待つように、俯き気味にこちらを見詰めている。
その頬は桜色に染まっていて、彼女にしては、緊張しているということが窺えた。
「…………」
俺が散々綺麗だと言ったお返しとして、蕗乃は俺の髪を綺麗だと言ってくれたのだろう。
でも、そこにお世辞の様な意味合いは一切無いと思う。
だって、そうでもなければ、いつもクールで人を寄せ付けない彼女が、こんな自分らしくも無いことを言ってくるわけが無い。
しかも、春休みになり、しばらく会えなくなる前にと考え、今日という日を選んでわざわざ声を掛けてくれることだって、ある筈が無い。
そこに込められているのが、純粋な想いでなければ。
であれば、俺が自分の髪をどう思っているかなど些細なことであり、二の次だ。
俺がやるべきことは――――
「――――ありがとう」
そう、素直な気持ちを伝えることだけ。
「……はい」
返事をした蕗乃の顔には、先程までの緊張はもうない。
その代わりに、花が咲いたような、ささやかな微笑みが貼り付いていた。
「!」
それは、蕗乃が初めて見せてくれた笑顔。
いつもは、その幼い顔つきをクールな雰囲気で締め上げている彼女だが、微笑んでいるときには、年相応に戻って見える。
……その笑顔は、これ以上ないってぐらいに可愛らしいものだった。
俺の視線に気付くと、蕗乃は慌てていつもの澄ました表情に戻る。
相変わらず、頬は赤いままだけど。
「そ、それでは私はこれで失礼します。……また、新学期に会いましょう」
「うん、また」
彼女はそう言って、俺の横を通り抜けて帰って行った。
「なんだか、安心した」
驚きと喜びが心を包む中、蕗乃が去ってから、急に安堵の気持ちが心に湧いた。
いつもはあんな澄ました顔をしているけれど、それでいて彼女は、きちんと俺のことを慮ってくれていたのだ。
それに、だ。
滅多に見せてくれるものではないのかもしれないけど、あんな――――
――――あんな、可愛らしい笑顔だって、持っているんだ。