第1話 『夕暮れの邂逅』
空の色がすっかりオレンジ色に染まった頃。
時間で言えば、5時を少し回った辺りだろうか。
体育館裏の倉庫で荷物の出し入れを行っていた俺は、ふと空を見上げながら思った。
きれいな夕暮れだな、と。
特段、夕暮れを見る事が少ないわけではない。
だけど、普段であれば、放課後にはさっさと帰宅してしまう俺にとって、学校にいながら見る夕暮れというのは、なんだか別のもののように思えた。
それは、見慣れている家から学校までの道を、たまに夜中に歩いたときに、まるで別の世界のように感じてしまう、あの感覚に似ている。
物事を行う時間、場所が違えば、それがいつも当たり前のように行っていることであっても、特別に感じることがある。
つまり、今回の夕暮れもまた、そういうことなのだろう。
生徒達の喧騒にて賑わう放課後。
ホームルームが終了し、各々が鞄を手に教室を出ていく中、それに倣い帰ろうとする俺を引き止めたのは、担任兼体育教師の森井直弥だった。
「おい、榊原」
「えっと……、何ですか?」
放課後に呼び止められるなんて、今まで真面目に学園生活を送っていた俺には経験のないことだ。
思わず、何かやってしまったのではないだろうかと今日一日の事を思い返す。
だが、森井からの要件は自分が心配するようなものではなかった。
「お前、これから何か用事があるか? なければ手伝いを頼まれてほしいんだが……」
「ああ、はい。今日は特に急ぎの用もありませんし、いいですよ」
「すまんな。体育館裏の倉庫の整理をしなくてはいけないんだが、あいにく他に暇そうな奴もいないしな……。じゃあ、ついてきてくれ。」
森井は辺りを見回しながらそう言い、廊下へと歩き出す。
事実、教室に残って駄弁ろうとしている生徒はおらず、皆が皆、足早に教室を出て行っている。
このクラスの皆はそれぞれに放課後やるべきことがある。確かに、放課後に特に予定がないのは俺だけなのだろう。
本当ならば、さっさと家に帰って自由な時間を満喫したいので、放課後に学校に居残ることなどしたくはないのだけれど、それもこのクラスでは仕方のないことだ。
俺は廊下に出た森井を追い、教室を後にした。
俺が通っているこの『仙華高等学校』は、普通校ながら、全員部活制という制度を取っている。
その内容は、高校入学後の4月末までに、必ずどこかの部活に入部しなければいけないというもの。
そのため、この学校の全校生徒は、原則どこかの部活に所属していなければいけない。
しかし、原則という言葉には例外が付き物であり、俺もまた、その例外の内の一人だった。
俺の場合は「一人暮らしのため」という理由で、部活の入部を断っている。
例外について、特に細かな定めはないようだけど、理由如何により、教師達を納得させることが出来れば、必ずしも制度に従う必要はないのである。
全員部活制が強要されるのはあくまで最初の部結成のときまで、つまり4月までだ。
その為、入った部活を、「性に合わない」などといった理由で退部する生徒は何人もいて、自分のように理由があるわけでもなく、無所属の連中は何人もいる。
おそらく、どのクラスにも数人は居る按配のはずだ。
だけど、残念なことに、自分が所属するクラスの中にはそういった生徒はいない。
森井がそういうことに関して、特別厳しいからだ。
そして、正式な口実あっての部活無所属は、クラスで俺一人だけ。
つまるところ、今回の雑用という名の白羽の矢は、このクラスにおいて、自分にしか立つことはなかったということだ。
「もう5時過ぎか……。粗方整理は終わったし、後は先生がやるから、お前は帰っていいぞ。今日はありがとうな」
「いえいえ。それでは自分はこれで」
夕焼け空を見上げつつ作業をしていると、森井から帰っていいというお達しが出た。
この場はその言葉に甘え、倉庫を後にするとしよう。
整理とはいえ、やった事といえば細々とした荷物を出し入れするだけで、埃こそ多少は被ったものの、そこまでの重労働ではなかった。
手伝いを無償でさせられたとはいえ、そこは少しばかり安堵した部分だ。
「案外早く終わったな。帰ったら何しよう……その前に買い物か」
帰宅後の事に思いを巡らせながら、校舎へと続く外廊下を歩く。
廊下にもやはり夕陽は差し込んでいて、部活動中なのだろう、生徒達の声が木霊してくる。
放課後であれば当たり前なのだろうその光景に、何故か気分が高揚していくのを感じる。
俺は、祭りを外から眺めるのが好きだ。
祭りの中心に行って盛り上げようとするでもなく、盛り上がりにまざろうとするでもなく、ただ外から眺めて満足するだけ。
昔から目立つのを避けて生きてきた為に身に付いてしまった、習性とも言えるような楽しみ方だった。
おそらく、既に自分の中に根付いてしまっているものだと思う。
この場においては、放課後に部活動に励む生徒達を遠くから眺めるという自分の行動に、多少酔ってしまった部分があるのかもしれなかった。
そして、そんな事を考えながら歩いていた時だ。
彼女を初めて目にしたのは。
角を曲がったところで、俺は外廊下の途中に三人の男女がいるのを見た。
内二人は男子で、ブレザーのネクタイの色から同学年である事が分かる。
知った顔ではないので、多分別のクラスの生徒だ。
そして、残りの一人が女子で、リボンの色からやはり同学年である事が分かる。
しかし……。
俺の目はそんなものよりも、その子の持つ髪に釘付けになっていた。
腰まで届くほどの長さを誇るその髪は、遠目から見ても非常に艶やかであることが窺がえ、そしてその色は、赤みがかった黒色をしている。
それを見て俺は、何の根拠も理屈もなく、何故か思ってしまった。
すごく、綺麗だと。
一見すれば、濁った赤色にも見えてしまうその髪の色を、純粋にそう思ってしまった。
自分でも理由は分からない。そして、それは髪に限ったことではなかった。
彼女自身に関しても、何故だか非常に親近感を抱いた。彼女の何を知る訳でもないのに、酷く他人のような気がしない。
あの子の髪の色、おそらく染めたのではないと思う。この学校は校則がそれなりに厳しい。
たまに検査などもある為、髪を染めるなどすれば直ぐにばれてしまう。
茶髪などに比べれば、あの色は相当目立つ。
それでも彼女があの髪色を保持しているということは、つまりはあれが彼女の地毛だからなのだと言える。
ともすれば、何らおかしなことはない。
でも、日本人であの髪の色を持って生まれてくることは、まずありえない。
それなのに、俺はそれを純粋に綺麗だと思い、何もおかしいことだとは思えなかった。
その考え自体、おかしいというのに。
歩きながら、改めて三人の状況を確認する。男子生徒二人は、女の子を囲んで口々に話しかけている。
ただ、女の子の方は俯いていて、二人の話に反応している様子はない。
そんな彼女の反応に対して、男子生徒二人は顔を曇らせている。
どうやら、楽しくお喋りをしているというわけではないようだけど、かと言っていじめがなされているような険呑な雰囲気でもない。
とはいえ、彼らを取り巻く空気が良いものであるとも思えなかった。
…………。
別に、だからというわけではないのだが、気付けば俺の足は彼女らの方を目指して進んでいた。
こういうのはあまり柄ではないけど、仕方ない。
本来、俺はこんな他人の間へ割って入る事などしない。
極力自分が目立つような行いは、避けるようにしているからだ。
でも、その事を割り切って余りあるぐらいに、何故か彼女の存在を、俺は酷く放っておけなかった。
何にせよ、事は穏便に済ませないと。そう心に留め、俺は男子生徒二人に声をかけた。
「あの、ちょっといいかな」
「ん?」
俺の声を受けて、男子生徒二人はこちらを振り向く。
自分に近い場所にいる男子は、こちらの姿を一瞥すると、怪訝な表情を浮かべながらもう一人に小声で話しかけた。
「お前の知ってる奴か?」
「いや、僕も知らない」
そう返事を受けると、改めてこちらを見遣り、話しかけてくる。その表情は、あまりこちらを歓迎している風ではない。
「なんだよ。こっちはあまり暇じゃないんだけど」
「えっと、特にそちらのやり取りに口を挟むつもりはないんだけど……」
そう前置きをし、話を続ける。
「俺、さっきまで森井先生を手伝って、体育倉庫の整理をやってたんだ。もう後は片づけと戸締りだけだったし、そろそろこっちに来るんじゃないかな」
「まじかよ」
俺の言葉を聞いた途端、二人は顔を青くする。それもそうだろう。
森井は絵に描いたような熱血教師で、規則にも厳しく、多くの生徒から恐れられている。
今の彼らの状況は、周りから見ていてあまり良い気のしないものだし、何せ放課後になってそれなりに時間が過ぎている。
部活もやらず、こんなところで何をしているのかと、声をかけられるのは確実だろう。
例えやっていることが悪い事でなくても、森井に見つかって下手な因縁を付けられるような事態には、陥らないに越したことはない。
「仕方ねえ、今日はもう帰るぞ」
「う、うん」
「じゃあな、蕗乃」
少し慌てながらも彼女に一声かけると、二人は手早く帰って行った。
「…………」
俺と『蕗乃』と呼ばれた彼女だけが残り、その場を沈黙だけが支配する。
蕗乃は顔を上げてこちらを見ていて、今はその全体像を確認する事ができた。
先程は俯いていて見えなかった顔は、その小柄な体に似合う童顔で、可愛らしいものだった。
肌は白雪を思わせるほどに白い。
それでいて、服の上から見ても分かるぐらいにスタイルは良く、おそらく誰もが見紛うことも無いだろうという程に、可憐な少女であった。
そんな彼女は、先程からずっとこちらを見詰めている。
その表情は憂い顔で、どうにも儚さを感じさせる風貌だった。
……いつまでもこうして見てるわけにはいかないな。
そう思い直し、蕗乃に声をかけようとした。でも、
「えっと……」
続く言葉が出てこない。
こんな時にどう言葉を掛けてよいか分からないうえ、そもそも自分は女子と話す事さえそう多くない。
どうしようという焦りが頭の中をぐるぐると回り、余計に何も浮かんでこなくなる。
そもそも、何でこんならしくないことをしようとしたんだ、などと、本末転倒な事さえ頭に浮かび始めた、そんな折。
先に言葉を発したのは蕗乃の方だった。
「助けてくれたことに関してはお礼を言います。ありがとうございました」
蕗乃は礼儀正しくこちらに頭を下げる。
蕗乃の発する声は、見た目とは裏腹に幾分か落ち着いた低いものであり、妙な冷たさを孕んでいた。
そして、その言葉には続きがあった。
「でも……私に、私なんかに、あまり関わらないで下さい」
言葉ほどには尖っていない、弱々しい口調でそう言うと、蕗乃は踵を返して校舎へと去って行った。
蕗乃の最後の言葉、そこから俺に伝わったことは二つ。
一つは、その言葉が、俺を拒絶するものであったということ。
そして、もう一つは疑問。
見てしまったのだ。
振り返り際の、彼女の悲しそうな表情を。
それは、拒絶という行為が、彼女にとって意に反したものだったからなのではないだろうか。
それとも、別に何か理由があるのか。
今の時点では、分かりようも無いことだった。
2月18日 木曜日
翌日の昼休みのこと。
昼食のパンを購買で買い終えた俺は、教室への帰り道、昨日の男子生徒二人と廊下で出くわした。
「お前は昨日の……」
「や、やあ」
相手の言葉に対し、ぎこちない返事を返す。まさか、昨日の今日で出くわすものとは思ってもいなかった。
さて、何を話したものだろうか。それとも、さっさと立ち去った方が良いのか。
そんな事を思案しているうちに、あちらの方から先に口を開いた。
「……お前って、蕗乃と付き合ってんのか?」
「え?」
予想外の問いに、気の抜けた返事を返してしまう。
「それとも、友達か何かか? 中学が一緒だったとか」
何故、そんな事を聞かれるのだろうか。昨日、仲裁みたいなことをやったから?
だとしても、付き合ってんのかなんて、安直な考えだとは思うけど。
現に俺は、彼女とは昨日が初対面だ。
「いや、そんな事はないし、彼女と会うのは昨日が初めてだけど」
「まあそうだよな。あいつに彼氏なんているわけないか。そもそも、友達すらいないだろうしな」
「確かに」
俺に話しかけてきた気の強そうな方は、詰まらなそうな顔でもう一人の線の細い方に話しかける。
『友達すらいないだろうしな』という言葉に、わずかな引っかかりを覚える。
昨日の事に、何か関係していたりするのだろうか。
本来ならば、関係のない俺が立ち入っていい事ではないのかもしれない。
でも、彼女のあんな表情を見たら――――
――――立ち入らずには、いられなかった。
「あの、差支えなければ、昨日何の話をしていたか教えてもらってもいいかな?」
俺の言葉を聞いて、二人は顔を見合わせる。
「他のクラスの奴には関係のないことだけど、まあ隠しておく事でもないか」
「そうだね。うちのクラスの皆は知ってることだし、後々の事を考えたら、別に言っておいても悪い事ではないと思うよ」
話すことに特に問題はなかったのか、二人は数歩歩いて廊下の窓側に移動した。
俺もそれに倣って、彼らの近くに移る。そして、気の強そうな方の生徒が口を開き、話は始まった。
「あいつ、名前は『蕗乃火乃花』って言うんだけど、入学当初から今まで、クラスの奴らと関わろうとしたことが全くないんだよ。大概どのクラスにもいつも一人でいる奴っていると思うんだが、蕗乃と比べたら全然ましだ。」
今までの事を思い出しているのか、一拍おいてから話を続ける。
「授業では自分から発表することなんかしないし、同じくクラスの話し合いとかで進んで意見する事もない。クラス委員と係りも、最後まで余ったどうでもいいような奴をやってる。それぐらいならいいんだよ、俺もそんなもんだし。だけどあいつは……」
「ほら、クラスの皆で頑張らなきゃいけない行事とかあるでしょ。文化祭のクラスでの催し物とかさ。蕗乃さんってそういうの全然やってくれようとしないんだ。僕ってクラス委員長やってるんだけど、そういうことがあるたびに蕗乃さんに言い聞かせなくちゃいけなくて」
苦笑しながら、線の細い方が言う。昨日の様子から見ても、その結果は芳しくなかったのだろう。
「一人でやる仕事は真面目にやるんだけどな、皆でやる事になるとすぐ逃げ出すんだよ。昨日はいい加減その態度を改めてほしくて放課後呼び出したんだ」
「2年への進級、まあつまりクラス替えを再来月に控えた今になって言うのもどうかと思ったんだけど、今後の事を考えれば、むしろ今の方が彼女の為でしょ」
「なるほど……」
話は納得できた。
でも、となると昨日の自分の行動は、彼らにとって邪魔なものだったのではないだろうか。
「じゃあ、昨日は俺邪魔な事を……」
「いや、別にいいんだよ。そこまで期待してたわけじゃないし、実際あの結果だしね」
「ああ。それに森井に目を付けられても厄介だしな」
「それならよかった」
二人の返事にほっとしつつ、今の話から蕗乃火乃花について考える。
蕗乃と俺は、似た者同士なのかもしれない。
自分も、クラスでは割りと一人でいる事が多い。
彼女は人との接触を極端に拒むことによって、他人との関わりを持たないようにしているようだ。
自分の場合は、目立つ行動をせず、話しかけられる機会を極力減らす事で、他人を拒むでもなく、それでいて、些かの興味も持たれないようにしている。
どちらも、人との関わり合いを避けようとしている点では一緒だ。
とはいえ、俺は蕗乃ほど徹底してはいないけれど。
クラスで積極的な行動こそしないけど、行事等では、目立たないながらも皆で取り組むべき事柄にはちゃんと従事している。
それに、少ないながらもクラスメイトとは話もする。
唯一人ではあるが、親友と呼べる者も存在するのだ。
蕗乃と俺の、根底にあるものは一緒なのだろう。
始めから全てを拒絶している蕗乃と、ある程度は受け入れ、そこに余地を求めている俺。
あくまで、程度の差、程のものでしかないのかもしれない。
でも、そこから生まれてくる差が、こうも如実に現状に現れていることを考えれば、彼女をそこに追いやっているものが何なのか、やはり気にならずにはいられない。
その理由とは、一体……。
「なあ、それよりもよ」
「うん?」
声を掛けられたことで、いつの間にか考えに没頭していたことに気付かされた。
気の強そうな方が、俺の頭を指さしている。
「昨日初めて見たときから気になってたんだが、それって……」
蕗乃の話の最中から、二人の視線は時折俺の頭の方へ向いていた。恐らく、尋ねたくてたまらなかったのだろう。
「ああ、これは――――」
俺は何の事もなく、いつものようにその問いに答えた。
2月19日 金曜日
昼休みの来訪を告げるチャイムが鳴り響いてから、既に5分ほどが経過した。
教室の中では既に大半の生徒が弁当を広げ、昼食を取っている。
俺はというと、昼食をどうするかという問題で、一人思案していた。
昨日と違い、弁当はある。冷凍食品ばかりを詰め込んだ、非常に温かみのない弁当ではあるが。
問題は、一緒に昼食をとる相手がいないことだ。
小学校来からの友人であり、いつも食事を供にしている『小笠原博人』は、今は教室に居ない。
博人は部活動無所属の俺と違い、弓道部に所属している。
今日は部のミーティングがあるので、昼食を一緒にとれないとの事だった。
こういった事は今回が初めてではなく、今まではその度に一人教室で食事をとっていた。
でも、今回は場が悪かった。
教室の隅の方に席があれば問題はなかったのだけど、2月の頭に行われた席替えで、俺は見事に教室のど真ん中の席を獲得してしまったのだ。
これでは、周りがうるさいうえに、非常に肩身の狭い思いをしながら食事をしなければいけない。
かと言って、博人の他に気軽に食事を供に出来る相手は居ない。
どうしたものだろうか……。と、思案の末、一つのアイデアが思い浮かうんだ。
俺は弁当の入った鞄を担ぐと、そのまま教室を後にする。
目指すのは、校舎裏だ。
俺が通うこの学校の校舎は、H字型に建っており、一方はグラウンドを挟んで校門と面していて、もう一方はちょっとした林と面している。
林と面している方は、そこからは外との通り抜けが出来ないので、もっぱらそこが校舎裏と呼ばれていた。
外で昼食をとる時に使われる場所は、大体が校舎と校舎に挟まれた中庭だ。
校舎裏にも一応食事スペースはあるのだが、そこはほとんど使われていない。
林に面したその場所は、中庭ほど広くなく、更には木々や植物が多いせいか、年中じめっとしている。
その陰気な雰囲気が、多くの生徒には受けていないらしい。
そのため、昼休みを除いても、校舎裏には人が居ないのが常だった。
とはいえ、冬真っ盛りの今の季節では、中庭ですらそう人は居ない。
そして、校舎裏ならば輪をかけて誰も居ない筈だ。
この寒さの中外に出るのは多少辛い部分もあるが、以前から校舎裏のような静かで緑に囲まれた場所で、一人で食事をとるということをやってみたいと思っていた。
あまりこういう機会はないだろうし、今やっておいて損はない筈だ。
一階の廊下を進み、外廊下へつながる扉を開く。
「……寒い」
外から冷え切った空気が入ってくる。
おもわず外へ出るのを躊躇ってしまうが、流石にここまで来ておいて引き返すわけにもいかない。
幸いにも今日は風が吹いていないので、幾分寒くはないだろう。
歩みを再開し、外廊下を進む。
ここを数メートル進めば、そこはもう校舎裏で、すぐそばにベンチが一つある筈だ。
今日はそこで昼食としよう。そう考えながら、校舎裏へと辿り着いたとき、
「あっ……」
そこに、思わぬ先客を見つけた。
彼女はベンチの真ん中に腰を下ろし、膝の上に弁当を広げ昼食を取っていた。
寒さ対策なのか白いコートを着ていて、その白さ故、腰まで伸びる赤みがかった黒髪が綺麗に映えている。
それはまるで、雪上に落ちた赤い椿の花のようだった。
そう、蕗乃火乃花が居たのだ。
「あなたは……」
蕗乃も俺に気付き、箸を止める。そして、一昨日に続き、またも沈黙が流れた。
非常に気まずい。これは、戻った方がいいのだろうか。
しかし、ここに来て今更教室に戻るというのは非常に気が引ける。
そう思った俺は、思い切って蕗乃にある提案を出してみることにした。
「あの、良かったら弁当一緒に食べてもいいかな?」
「えっ……」
肩身の狭い思いをしながら教室で弁当を食べるより、まだここで彼女と二人で食べた方がましだ。
そう思った俺は、精一杯の笑顔で申し出た。
「…………」
恐らく、蕗乃の目にはぎこちない笑みを浮かべる俺の顔が映っていることだろう。
そんな俺を見る蕗乃の表情は、驚きに満ちていた。それもそうだ。
大して知りもしないような男に、いきなりこんな事を言われたのだから。
だが、しばらく考えている様子を見せた蕗乃は「隣で良ければ」と言い、ベンチの端の方へと体をずらした。
「あ、ありがとう」
こちらも、ベンチの端へ腰を下ろす。
自分で言っておきながら、まさか許可が得られるとは思わなかった。
俺が弁当を鞄から取り出し、食事を始めるのを見届けた蕗乃は、ようやく食事を再開した。
寒さの所為だけじゃない、緊張の所為も相まって、箸の動きがぎこちない。
何故、蕗乃は俺の申し出を断らなかったんだろう。
ちまちまと箸を動かす蕗乃の姿を横目で眺めながら、俺はそんな事を考えていた。
校舎裏なんて所で蕗乃に出会った事ですっかり頭の中から飛んでいたが、一昨日俺は蕗乃に『関わらないで』と言われていたのだ。
昨日聞いた話からしても、ここは俺の申し出を断るのが本来の彼女の反応ではないだろうか。
気まぐれ?
……ではないか。
入学してからずっと人を遠ざけていたんだろうし。じゃあ一体――――
「あの、何か?」
「えっ?」
まずい、ちらちら横目で窺っていた筈が、考え事をしていた所為で、凝視してしまっていたみたいだ。
蕗乃は怪訝そうな顔でこちらを見ている。俺は取り繕うように、頭に浮かんだ事をそのまま言った。
「いや、その髪、すごく綺麗だなぁと思ってさ」
嘘は言っていない。
実際、一昨日はその髪に惹かれ、そしてその髪を持つ彼女に惹かれたのだから。
蕗乃はまたも驚いた顔をすると、すぐに俯き、こう言った。
「おかしな事を言いますね、この髪が綺麗だなんて」
「そうかな? 今まで言われたことなかったの?」
「ありますよ。でも、大体の人が、私と最初に会った時に珍しがって言うだけで、あくまでその程度のものでしかないんです」
「そんな言い方をするって事は、やっぱりその髪、地毛なの?」
「はい」
「俺はいい色だと思うけど」
「それを言うなら貴方だって」
蕗乃は俺の髪を見ながら言う。
「紺色の髪の人間なんて、普通は居ませんよ」
「……まあ、そうだよね」
視界にちらりと映るその前髪を右手で摘まむ。
そう、俺の髪も蕗乃と同じで、日本人どころか人としてまずありえない色をしていた。
その色は、紺。
「これも君と同じで、地毛なんだ」
「そうでしょうね。でなければ、真っ先に先生に注意されて元に戻されるでしょうから」
そう言うと、蕗乃はまた俯き、黙り込んだ。
『この髪が綺麗だなんて』
その言葉から読み取れるのは、おそらく彼女にとって自身の髪は好ましいものではないということ。
外を歩いていて人からじろじろと頭を見られたり、ひそひそと何かを言われたり、初めて対面した人に驚かれたりっていうのは、もう流石に慣れたことではあるけれど、俺だってこの髪を大好きであるというわけではない。
だが、なんとなくではあるのだが、彼女にはその髪を嫌いになってほしくはなかった。
だって、本当に綺麗なのだから。
「でも、やっぱり俺は、その髪は綺麗だと思うよ」
蕗乃は、またか、とでも言いたげな顔でこちらを見る。
「ほら、今白いコート着てるし、雪の上に落ちた椿の花を連想させられるというか」
「椿の花の色はもっと濃い赤ですよ。私の髪の赤色は鈍い」
「た、確かにそうかもしれないけど、完全に赤じゃない分、黒髪の艶? みたいなものもあってやっぱり綺麗だと……」
まるで言い訳でもしているかのように、どんどん口からあふれ出てくる自分の言葉に、俺は自分自身のことながら呆れてしまった。
彼女の髪が綺麗だと思うのは本心であり、俺は彼女に自身の髪のことを嫌いになってほしくない。
でも、どうにもそれを口で伝えることが、俺は壊滅的に下手なようだった。
蕗乃の表情は先程から露ほども変わっていない。
その彼女の反応から見ても、蕗乃に俺の本心が伝わっているとは到底思えなかった。
そもそも、大して面識のない俺からこんなことを言われても、困惑してしまうだけだろう。
「……なんて、たいして君を知らない俺がこんなこと言っても困るだけだよね。ごめん、今のは――――」
「はぁ」
俺の言葉を、蕗乃の溜息が塞いだ。
馬鹿な事を言う俺に、呆れてしまったのだろうか。
しかし、次に蕗乃の口から出た言葉は、俺の想像していたものとは違っていた。
「蕗乃」
「……え?」
「蕗乃火乃花です、私の名前。貴方の名前は?」
俺の目を見つめながら、蕗乃は言う。
「お、俺の名前は、葵。榊原葵」
「では、榊原君と呼ばせていただきます」
蕗乃はそう言うと、残っていた弁当の中身に手を付け始めた。もう話すことは何もないらしい。
俺はというと、そんな彼女の予想外な言葉に驚きを隠せなかった。
数秒ほど固まってしまっていたかもしれない。
でも、ようやく頭が回り始めて、浮かんできた感情は、驚きだけではなかった。
それは勿論、喜び。
俺は蕗乃の名は知っていたけれど、蕗乃はその事を知らない。その蕗乃の方から、ちゃんと名乗ってきてくれたのだ。
結局、その後は特に会話もなく、昼食と昼休みは終わった。しかし、何かしらの進展はあった筈だ。
教室へ戻る前に交わした会話を思い返す。
『あのさ、また今度ここに弁当食べにきてもいいかな?』
『……どうぞご自由に。ここは私の指定席ではないですから』
蕗乃はそんな事を、そっぽを向きながら言っていた。そんな蕗乃のつんけんとした行動に、むしろ俺は心が安堵した。
そのときの蕗乃には、一昨日俺を拒絶したときのような冷たさは感じなかったのだ。
結局、蕗乃が何故あのとき俺を拒絶したかは分からなかったけど、おそらく彼女なりに俺を受け入れてくれたのだと思う。
そう思うと、妙な嬉しさがこみ上げてきた。
まあ、あくまで、俺の主観で感じたことでしかないんだけど。
今の時刻は、19時を少し回ったところ。買い物などで町を周っていると、すぐにこんな時間帯になってしまった。
空は既に暗く、星も瞬き始めている。
家であるアパートまでの帰途に着く中、俺は改めて今日蕗乃に言った事を思い返していた。
らしくもないような事をあれだけ喋ってしまったのは、ひとえに、蕗乃に自身の髪の事を嫌ってほしくなかったからだ。
では、逆に俺自身はこの紺髪を好きになれるのか。
答えは『否』だ。
蕗乃にあれだけのことを言っておきながら、俺自身には決定的にこの髪を好きになれない理由がある。
俺は、辺りに誰も居ない事を確認し、右手に持っていた鞄と買い物袋を左手に持ち替え、空いた右手の手の平を見つめた。
すると、淡く、蒼白い光が、手の上で僅かに走った。
その発光はほんの2、3秒続いて消え去り、その後の手の平には、先程まではそこになかった筈の氷の塊が鎮座していた。
手の平で覆える程の大きさであるその氷を、俺はしばらく見つめ続けたあと、道の脇に放った。
俺が自身の髪の色を好きになれない理由。それは、先程のような、人間として出来る筈のないことが出来るから。
髪の色が原因なのか、あるいは力の副作用なのかは定かではない。
でも、どちらにしてもこういうことが言えるのではないだろうか。
「……異質な力の、象徴」
だから、好きになんて、なれる筈がなかった。