容疑者Aの献身〜別に俺は朝比奈さんの下着を盗みたかった訳じゃない〜
太陽が猛威を振るう、七月最終日の今日。うだるような暑さだった。
クーラーのよく効いた小さな部屋。そこに連れてこられた俺は、パイプ椅子に腰掛け、ただ呆然としていた。目の前にいる険しい顔をした警官は、腕を組んでこちらを見ている。
俺の前の机には、女物の下着が三着置かれている。ブラジャー、パンツ、キャミソール。もちろん俺の私物ではない。赤の他人のものでもない。クラスメイトの朝比奈さんのものである。
この場面を切り取ると、何が起きたのかは誰が考えても明白な状況だった。しかし、
「……違うんです」
俺は声を絞り出す。警官は顔の影をさらに濃くして俺を見た。
俺は変態ではない。下着泥棒ではない。断じて朝比奈さんの下着を盗みたかった訳じゃない。
分かってくれ。信じてくれ。一人の命がかかってるんだ。俺は祈るような気持ちで口を開く。
***
俺が下着泥棒の疑いをかけられるまで、遡って一時間ほど前のこと。
俺の通う高校では夏場になると水泳の授業があり、その際に病気やらなんやらで授業を欠席した生徒のためには、夏休み中に補講が行われるのが毎年のことであった。
補講は計五日間。しかし全員が五回全て出席する訳では無い。病欠した回数に合わせて、人によってノルマは変わるのだ。
あいにく俺は右足の捻挫で長く水泳の授業を見学していたため、全ての補講に出席しないと単位が貰えない。そしてその五日目が七月最終日の今日であった。
補講も五日目となると人もだいぶ減る。男女合わせても数人程度で、二十五メートルプールには少々寂しい絵面だった。
面倒極まりない補講にも唯一楽しみがあり、それはクラス一の美少女、朝比奈さんに会えることだった。
孤高という言葉が良く似合う彼女は、流れるような黒髪ロングのクール系美少女である。誰も寄せつけないオーラと惚れ惚れするような端正な顔に、皆から一目置かれている、俺には手の届かない存在だ。
腕を骨折して俺の隣で授業の見学をしていた彼女も、やはり五日間全ての日程が課せられているようで、無論男女でレーンは分けられているものの、夏休みに入ってからも彼女の姿を拝めるのはこの上なく嬉しいことだった。ただ怪我をしたタイミングが近かっただけ。そんなささやかな共通点もどこか誇らしい。
けれどそんな日々も今日で最後。補講を終え着替えを済ませた俺は、プール横に設置されている男子更衣室から出て、水筒に入れたキンキンのスポーツドリンクを一気に呷った。
「うまい……!」
ふやけて乾いた体に水分が染みる。やっぱりプールの後はこれだよな。
……しかし暑い!俺は額に浮かんだ汗の玉をタオルで拭う。プールで冷えた体もこの猛暑じゃ意味をなさない。恐るべし、地球温暖化。
「お疲れ様。気をつけて帰れよ」
真っ黒に日焼けした体育教師が俺に声をかけてくる。
労いの言葉も、今日はいつにも増して嬉しい。補講も終わり、明日からは本格的に夏休みが始まるのだ。
ありがとうございます、と会釈して返し、さて俺もさっさと帰ろう。水着を入れたビニールのカバンを担ぎ、歩き出す。
その時だった。男子更衣室の隣に設置されている女子更衣室の扉の前を通ったその瞬間。
「!?」
突如扉からにゅっと飛び出した腕が俺の腕を掴み、無防備だった俺は、抵抗する暇もなく女子更衣室に引きずり込まれたのである。
訳が分からず、俺はつんのめってそのまま床に倒れ込む。突然のことに頭を白黒させながら顔を上げると、そこにいたのは水着姿の朝比奈さんであった。
「朝比奈さん……?」
何が起こったのか。そしてなぜまだ水着なのか。なによりその尋常じゃない様子に俺は戸惑う。
朝比奈さんは焦点の合わない目に涙をためて、床にへたりこんでいた。
「……まった」
「え?」
「やっちまった……」
「やっちまった?」
「……やっちまったァ〜〜〜〜っ」
朝比奈さんは突然そう叫ぶと、頭を抱え体をくねくね動かし始める。
初めて見る取り乱した姿に、俺の中の朝比奈さんクール像がガラガラと音を立てて崩れていく。
「ど、どしたの……」
突然連れ込まれた俺よりもパニクっているので、何故かこちらが冷静になってきた。朝比奈さんは俯いて蚊の鳴くような声で、
「下着……忘れちゃった」
「え?し……下着!?」
予想だにしていなかった言葉に耳を疑う。朝比奈さんは顔を赤くして頷いた。
「水着の上に制服着たら楽だなって……。でも下着持ってくるの、完全に忘れてた」
んな、小学生じゃないんだから……。ツッコミたくなる気持ちを抑え、しかしなるほど。今のその格好にも合点がいく。濡れた水着の上に制服を着る訳にもいかないもんな。
「でもノーブラノーパンなんて出来ない……。キャミソールも忘れたからブラウスの上から透けない訳ないし……」
き、気まずい。
「う、うん。えっと、じゃあ俺は先生にそれを言いに行けばいいの、かな?」
「そんなのダメ!先生にこんなの知られたら恥ずか死ねる……」
「じゃあ、友達に連絡して持ってきてもらうとか」
「私、ぼっちだから友達いない……」
「お、親は……」
「お父さんは会社、お母さんはパート……」
詰んだ。
これが夏であれば上着を貸してあげるところだが、あいにく今は真夏。一枚でも貸すとこっちが露出狂と化してしまう。
朝比奈さんの顔から一つの雫が落ち、床に染みを作る。一瞬泣いているのかと思うが、違う、汗だ。
そこで、俺は初めてこの場所が尋常じゃなく蒸すことに気づく。朝比奈さんを見るとすでに汗だくで、紅潮した顔が妙に色っぽい。抜群のスタイルは水着で強調され、汗で湿った豊満な胸元はあまりに刺激的で直視できない。
健全な男子高校生にはあまりにも毒。一瞬ぼうっと思考が鈍ったその時、
「相坂くんっ」
名前を呼ばれ、我に返る。そして俺の右手にそっと体温が触れた。
カチャ、と音がして、見ると右手には鍵が乗っている。
「私の家の鍵」
「え……」
「相坂くん、チャリ通だよね」
「う、うん」
朝比奈さんは口をきゅっと結び、俺を上目遣いで見つめる。体温さえも混ざりそうなこの熱気の中、
「私の下着……持ってきてくれませんか」
思わず、はあ?と口から漏れてしまう。
「ちょ、ちょっと待って。なんで俺?他にも一緒に補講受けてた女子とか何人かいるよね?」
緊急事態だからといって、普通同級生の男子にそんなこと頼む?
朝比奈さんは半泣きで首をぶんぶん振った。
「もうみんな帰っちゃったよ!それに、クラスに噂が広まったら恥ずかしくて死んじゃう。相坂くん見た感じ友達いないっぽいから、変な噂も広まらなさそうだなって……」
事実だけどさ……。
「あと相坂くん、人畜無害っぽいし」
なんか微妙だ……。
「相坂くんしかいないんだよ……」
朝比奈さんは悲痛な声を漏らし、しくしく泣き始めた。もう仕方がない。俺は鍵を握りしめて、立ち上がる。
「分かったよ」
朝比奈さんは顔を上げた。
「取りに行くよ。住所を教えてくれ」
これ以上このサウナに居続けてもどうしようもないと判断したのだ。それにクラス一の孤高のクール系美少女のこんな醜態を見ていながら、このままそうですかさようなら、なんて出来るはずがない。
「ほんとに?ほんとにいいの?」
ああ、やってやるさ。俺は大きく頷いた。
朝比奈さんから住所を教えてもらい、それから俺は持っていた水筒を彼女に渡す。
「スポーツドリンクが入ってる。流石にこのままだと倒れるから、待っている間に飲んでくれ」
朝比奈さんはゆっくりと目を見開いた後、目元を拭ってこくりと頷いた。
俺は踵を返し、女子更衣室を出る。蒸し風呂状態の室内とは違い、肌に照り付ける暴力的な暑さ。しかしそんなものに怯んではいられない。俺は自転車置き場に急ぎ、そして力強くペダルを踏んだ。
***
呼吸さえも苦しいこの部屋で、私は床に寝転がっていた。低い位置にいた方が少しはマシかなと思ったけれど、実際のところはよく分からない。
汗が目に入って痛い。暑い暑い、とにかく暑い。更衣室の外からは誰かの笑い声が聞こえる。板一枚を隔てているだけなのに、ここはまるで地獄。
横には相坂くんがくれた水筒がある。水筒を差し出してくれた相坂くん、ちょっとかっこよかったな。思えば、とんでもないことを頼んでしまったような気がする。
これ、相坂くんも飲んだやつなんだよね。……関節キス。そんな単語が熱を持って頭に浮かんでしまった。
***
朝比奈さんの家は比較的近所で、自転車で十五分程度。しかし、キツイのは坂道が多い事だった。
カンカン照りの下、吹き出す汗を拭う暇もない。ハンドルを握る手のひらが汗で湿り、何度も何度もシャツで拭いては握り直した。
過酷な上り坂に喘ぎ、それでもペダルを踏み続けることをやめない。朝比奈さんが待っているからだ。この猛暑だ。あの女子更衣室の中に居続けるとなると、熱中症で倒れるのも時間の問題だろう。一刻を争うのだ。
セリヌンティウスを待たせていたメロスは、こんな気持ちだったのだろうか……。
そんなことを考えながら、猛スピードで自転車を走らせ、朝比奈さんの住んでいるマンションに到着。時計を見ると、急いだからかまだ十分ほどしか経っていない。よし、大丈夫だ。
汗でベタつく体もそのままに、朝比奈さんの自宅へ鍵を回してお邪魔する。他人の家の匂いと、空気の張るような無音。許可を取っているとはいえ、悪いことをしているようで体がすくむ。
「お、お邪魔しまーす……」
朝比奈さんの話によると、下着は洗面台の横の引き出しにしまってあるとのこと。洗面所に行くと、確かにプラスチックの引き出しが四段。これがそれなのだろうか。
ええい、時間がないのだ。意を決して一段目を開けると、そこには女物のパンツの山。よし、ビンゴだ。
できるだけ目を逸らして、一着カバンに詰め込む。そして二段目を開けると、今度はキャミソール。そして三段目はブラジャー。
あまりにも切羽詰まっていたからだろう。そこで、俺は気づかなかったのだ。玄関から聞こえる、
「あら?開いてる?」
という声、そしてドアの開く音が。
ブラジャーをカバンに入れたその時、パチンと部屋の明かりがついた。驚いて振り向くと、目が合った。朝比奈さんとどこか似た、俺の母親ほどの年齢の女性と。
朝比奈祥子。四十五歳。家に忘れ物をしたことに気づいた彼女は、昼休みにパート先であるスーパーを抜け出し、自宅であるマンションへ急いだ。しかしなぜか、掛けたはずの鍵が開いている。不思議に思いながらも家へ上がると、そこにいたのは今年十七になる娘の下着を漁る、汗だくの男であった。
数秒後、悲鳴が近所一帯を揺らした。
***
「ですから、これは朝比奈さんに頼まれていて、」
「狂った言い訳も大概にしろ!」
なんで分かってくれないんだ。一人の命がかかっているんだぞ!?
不甲斐なさに唇を噛む俺の横で、朝比奈さんのお母さんの電話が鳴った。
「はい、ええ……。え!?病院に運ばれた!?」
***
「このバカ娘ッッ!!!」
「ごべんだざああああいぃ」
朝比奈ママが朝比奈さんの頭を心配になるほどの強さでぺしんと叩いた。朝比奈さんは顔面を真っ赤にして幼児のごとく泣きじゃくっている。
女子更衣室の前の靴箱に残った朝比奈さんの上靴に一人の教師が気づき、念の為覗いてみると水着姿のままひっくり返っている朝比奈さんが発見されたという。
幸運なことに大事には至らず、搬送先の病院で点滴を受けるとすぐに回復したらしい。そして今。
娘の愚行に怒り狂った母親を、警官が必死で宥めている。その横でおいおい泣く朝比奈さん。一人の警官が俺に、申し訳なさそうな顔で、
「すまなかったな。責め立てたりして」
「いえ……」
そりゃ客観的に見りゃ、よっぽど特殊な状況でもない限り、下着泥棒に間違いないと思うだろう。今回は不幸にもよっぽど特殊な状況だったのだ。
結局被害者は誰もいなかったため、これにて一件落着。解放されて外に出ると、クーラーで冷やされた体がみるみるうちに熱を帯びていく。
「本当にすみません、娘がとんでもないことを……」
「い、いえ……そんな」
朝比奈さんはまだ目を赤くしたまま、気まずそうな顔で頭を下げた。
「巻き込んでごめん……」
「大事に至らなくて良かったよ」
「うん……」
クールで孤高な朝比奈さんはもうどこにもいない。しょぼん、と萎れた様子が少しおかしくて込み上げる笑いを噛み殺した。
「また今度、お詫びに参りますので……」
「いやまじでいいんで」
「お母さんにもぜひご挨拶を……」
「いやほんとに」
朝比奈さんらと別れて、俺も帰路に着く。頭上には雲ひとつない青空が広がっている。なんて長い一日だ。
朝比奈さんの背中に、心の中で声をかける。
良い夏休みを。




